〈権力〉(Pouvoir)とは何だろうか。フーコーの定義は実に簡潔にみえる。権力は力のある関係なのだ。あるいはむしろ、どんな力の関係も、一つの「権力関係」なのだ。まず、権力は一つの形態ではない、例えば国家という形態などではないということ、そして権力関係は、知のように、二つの形態のあいだに成立するものではない、ということを理解しよう。第二に、力は決して単数で存在するのではなく、他の様々な力と関係しているということが、その本質である。したがってどんな力もすでに関係であり、すなわち権力なのだ。つまり力は、力とは別の対象や主体をもつことはない。私たちはそこに、自然法への回帰をみてとったりしないようにしよう。なぜなら、法とは一つの表現の形態であり、〈自然〉とは可視性の形態なのだから。そして、暴力とは力に付随するもの、力から結果するものであって、力を構成するものではない。フーコーは、ニーチェにもっと近い(そしてマルクスにも)。ニーチェにとって、力の関係は、奇妙にも暴力を超えてしまうもので、暴力によって定義されることはないのだ。つまり、暴力は、身体、対象、あるいは限定された存在に関わり、それらの形態を破壊したり、変更したりするが、力の方は、他の力以外のものを対象とすることはなく、関係そのものを存在とするのだ。「それは、行動に対する行動、可能的あるいは現実的行動に対する行動、未来または現在の行動に対する行動である。」それは「可能な行動にむけられる様々な行動の一集合」である。私たちは、それゆえ、行動にむけられる行動を構成する力の関係や権力関係を示す様々な変数のリストを設けることができる。当然ながらこのリストは開かれたものである。煽動する、誘導する、迂回させる、容易または困難にする、拡大または限定する、より可能により不可能にする……。権力のカテゴリーとはこのようなものである。
(ジル・ドゥルーズ/宇野邦一・訳『フーコー』)
このくだり、ほんとすばらしい。
9時45分起床。ネット通販で購入した黒色のマスクが届く。白いのはちょっとださすぎるから装着するのに気がひけるところがあったのだけれど黒は黒でまたださくてこれは要するにじぶんがださいというだけのことなのかもしれない。朝食をとったのち耳鼻科へ。午前中だったら空いているかなと思ったが、全然そんなことなかった。やはり耳鼻科は夕方遅くに通うにかぎる。着替えるのが面倒だったのでスウェット+パーカーの部屋着感丸出しの格好で横着をかましてしまったときにかぎって好みの女の子に出くわす。飲み薬はこれまでどおりの抗アレルギー剤を一錠、それとは別に追加で目薬を出してもらった。
帰宅後はひさしぶりに自室にて「邪道」作文。12時半から15時半まで。プラス1枚で計457枚。多少動揺の残滓あり。明日あさっての二連勤で解消するだろう。
やはり部屋着のままで図書館&生鮮館へ。だぼだぼのだらしない格好で大儀そうにケッタをえっちらおっちらやってると高校生の時分に戻ったような錯覚を覚えて、ふるまいや物腰なんかもどことなく当時の雰囲気をまといはじめるのがじぶんでもよくわかる。態度がでかくなり、身振りのひとつひとつに気怠さがつきまとい、ひとの目を攻撃的にのぞきこむようになる。
早い夕食と仮眠。のちアラン・レネ『二十四時間の情事』。大傑作。打ちのめされた。がつんとやられた。しかしこの邦題はぜんっぜん良くないな。『ヒロシマ、わが愛』あるいは『ヒロシマ・モナムール』のほうがずっと良い。マルグリット・デュラスの小説は『愛人』と『北の愛人』しか読んだことがなくてどちらもたいして印象に残っていないのだけれど、この作品の脚本はやばい。すごい。それでもってアラン・レネもまたやばい。すごい。やばいとすごいがそれぞれ二乗されてえげつないことになっている。ヒロシマという表象不可能な出来事の表象不可能性を表象するみたいなありがちといえばありがちなパターンなのかなと、男女の会話に重ねて広島の町の風景や記録映像や広島を題材にした映画がつなぎあわされていく冒頭の展開を、そのすばらしさ・的確さ・洗練っぷりに感動しながらもわりとさめた目で眺めていたのだけれど(といいつつも冒頭のこのやりかただけで90分もたせてみたらそれはそれできっとまた別の傑作になったであろうことは疑いないとも思う)、主演の片割れである日本人男性が当事者でないものには決して理解できず想像力も行き届かないあらゆる部外者の接触を拒んでやまぬものとしてのヒロシマという大きな物語(歴史)の表象不可能性をヒロシマについて語ろうとするもうひとりの主演であるフランス人女性の言葉にノンを突きつけ続けることによって屹立せしめる(くわえてフランス人女性のほうでもまた冒頭日本人男性にむけて「あなたはヒロシマなの?」と呼びかけることで男の存在をヒロシマに重ね合わせたうえで、「認識」と「恋」の類似を説き「そしてこの恋は一夜限り」と語る――あるいはまた、ふたりの関係を「行きずり」であるとする――ことによってヒロシマを記憶し続けることの困難をにおわせたりするなど、いわゆる「アウシュビッツ以後の表象不可能性」が序盤においてはっきりと提示されている)のに対置させるようなかたちで、ヌヴェールという田舎町でかつてドイツ人将校と恋に落ちたことのあるフランス人女性がその恋人を亡くすにいたりさらには戦後非国民扱いされて村八分の憂き目にあいついには狂気を宿すにいたって長い年月を地下室の座敷牢に幽閉されて過ごすことになったという自らの経歴(大文字の歴史にたいする「個」の記憶)を披露するに及ぶ中盤以降の構図の変動がそのまま雪崩式に勢いを増していき、ついには「ぼくの名前はヒロシマ」「きみの名前はヌヴェール」と男の口から語られるラストシーンにおいて極まる(すなわち、ヒロシマという「大文字の歴史」とヌヴェールという「個の記憶」がその悲劇の強度において等しく釣り合うにいたる)この構成のすばらしさにはほんと拍手したくなるというかお見事ですとしかいいようがない。見事なのはもちろん構成だけではなくたとえば一般的なタイミングよりもワンテンポ早く開始されるすばやい溶暗、あるいは必要最低限の距離をクイックにパンするカメラの切れ味、また丸刈りにされて地下室に幽閉されたフランス人女性の姿がカール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』でジャンヌ・ダルクを演じるファルコネッティに瓜二つであるという事実にひそむ映画史的な目配せ、ヌヴェールでの事件(記憶)を長々と独白する女の昂りを鎮めるために男が女の頬を平手で二度ぶった途端に町のざわめきが一瞬にしてよみがえる手法、そして何より広島の町の風景をおさめた無人称的な映像の数々の有無をいわせぬすばらしさなど、はっとするような場面がいたるところにある。すばらしい仕事だ。あと、死んだドイツ人将校の姿を日本人男性に重ねあわせるフランス人女性が当の日本人男性にむけて「あなた、ドイツ人のあなた」と呼びかけるところなどは(彼女にとって男は過去の回帰である)、執筆中の「邪道」においていまや大きな主題のひとつとなりつつある「代名詞の存在論」みたいな領域とも大いに通低するところがあったし、「あらゆる物語は忘却される、忘却された物語はただ忘却されるのではなく、忘却の恐怖を語る物語として語りなおされることになる」というようなセリフ(これはじぶんの都合の良いようにずいぶん改変したものであるが)も印象に残った。
映画鑑賞後は傑作の余韻にふわふわしながらジョギング。意識してかなりゆっくりめに走ってみたのだが、それでも30分しかかからない。やはりコース設定を変更する必要がある。それともうひとつ、ジョギング中は花粉の飛散量が少ない夜中だろうとなんだろうとやはりマスクを装着したほうがいい。今日は走り終えて部屋に戻ってきてからしばらくくしゃみが止まらなかった。というかマスクを装着するのだったら別にわざわざ夜遅い時間帯を狙うようなことはせずにすむというか以前のように執筆を終えてから夕食の支度にとりかかるまでの時間帯に走ることができるしそのほうがじぶんの時間割的にも好都合なのでぜひともそうしようと思うのだけれどしかしアレだな、マスクを装着してまでジョギングしてる奴ってのも傍からみればすこぶる滑稽だろうな。なんならただの馬鹿だ。しかし書くための身体を獲得するためならば人目のことなどグチグチ言っとれん。風呂場ではひさびさに水シャワーでアイシングした。これくらい暖かくなってくれると多少は辛抱できる。
入浴後は自室で読書。中村元・訳『ブッダのことば スッタニパータ』読了した。少なくともこの一冊を読むかぎり仏教ってのは変身とか生成とかそういう流転的なアレを全面的に否定しているように見えるのだけれど、しかしいくらか恣意的にそしてそれ相応に突っ込んで読んでみると、たえまなく変身しつづける(差異化しつづける)わたしのその諸相ではなくあくまでも基盤というか、そこから差異の発生する発端に身を置き続けてみせることが安らぎであり涅槃でありニルヴァーナであるみたいなふうに読めないこともない。あらゆるわたしをそこに成立させる「わたし」という人称(代名詞)の、しかし述語的な境地。それとは別に、《(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれには煩悶が存在しない》というくだりがあるのだけれど、バラモン教的な輪廻転生が因果応報という考えに基づいていることを考えると、このくだりは(われわれの知をいかんともしがたく支配する)因果関係を捨象することによって善悪の超越(道徳の彼岸への到達)が達成されるというふうに読むこともできて、ぐっとニーチェやウルリヒ(『特性のない男』)に近くなって面白い。あとは、滅するとはすなわち知り尽くすということであるとする等式であったり、名称と形態の二者こそが根源的な妄執であるとする態度だったり、ひとびとがブッダに教えを請うたり問いかけるくだりでは必ず「詩を以て問いかけた/呼びかけた」とされる記述上の諒解であったり、神話的で土臭い比喩の数々であったりなどがけっこう面白かった。