20130311

 現実化-統合作用は、いかに行なわれるのか。私たちは、そのことを少なくとも半分だけ、『知の考古学』によって理解するのだ。フーコーは、言表の固有性として「規則性」を引き合いにだす。ところで、フーコーにとって規則性は、実に厳密な意味をもっている。それは、特異点(規則)をたがいに結合する曲線である。厳密には、力の関係は特異点を決定するのだから、ダイアグラムはいつでも特異性の放射そのものにほかならない。しかし、隣接点を移動しながら、特異性を結合する曲線は、これとはまた全然別のものである。アルベール・ロトマンは、数学の場合、微分方程式において、確かに補完的ではあるが、二つの「全く異なる現実」が存在することを示した。つまり、ベクトル場には特異点が存在し配分されるが、特異点の隣接においては積分的な曲線の形態が存在するのである。ここから、『考古学』の依拠する方法が出現する。つまり、一つの系列は別の特異点の近傍まで延長され、そこから新しい系列が発生し、最初の系列とともに収束し(同じ族に属する言表の場合)、あるいは発散する(別の族の場合)。まさにこのような意味において、一つの曲線は力の様々な関係を、規則化し、整列させ、様々な系列を収束させ、一つの「普遍的な力線」を引きながら、力の関係を実現するのだ。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



1時半起床。10時ごろにいちど荷物を受け取るために起床し、頭もわりとすっきりしていたのだが、せっかく鼻づまりと無縁の睡眠をとることができる稀少な機会なのだからと二度寝することにした。そしたら寝すぎた。ゆえに腐れ大寝坊である。おもてが騒がしい。退去した(…)さんの部屋を大家さんの息子さん、といってもじぶんの父親くらいの年齢のひとなのだけれどその息子さんが大家さんの指示にしたがって改装しているらしい。年寄りを邪見に扱う声がする。別に年寄りをいたわれとかなんとかいうつもりはない。ただひとがひとを邪見に扱うさいに発する横暴な声色というのがとても嫌いだ。特に男が女にむけるその種の声を耳にするたびに胸くそ悪くなってくる。身近なところでもその手の声をあげるひとはいる。と、ここまで書いたところでこの嫌悪感はひょっとすると母にたいする兄の態度を思い出すからなのかもしれないと思った。なんでもかんでも原因を家庭に求める発想はどうか。
頭の回転は鈍っていない。むしろ冴えている。しかし花粉にたいするおそれと寝坊したことによる時間割のずれこみが、常とは異なる生活順序を営むようこちらに強いる。ゆえに起き抜けの頭でウェブ巡回。それからいつもよりがっつりとした朝食兼昼食をとり、長いものになるだろうからとコーヒーをたっぷり用意し腰を据える覚悟を決めてから昨日付けのブログを書く。書き出したら案の定止まらなくなり、記憶が記憶を呼び寄せる記述の連鎖が散文としかいえないものを紡ぎ出すにいたる。気がつけば19時。部屋着のまま出かけるには冷え込みが強すぎるので急いで着替え、閉館間際ぎりぎりの図書館に滑り込み、返却&貸し出し。そのまま(…)に立ち寄り20時前より「偶景」の加筆。6つ追加して計155枚。ずいぶんたまっていた。
「偶景」の作文が一段落したところでマルティン・ブーバー『忘我の告白』の続きを読み進める。これ、ものすごく面白い。読んでいると色々と考えることや閃くところがあってなかなか先に進むことができないという良書特有の手応えがある。
たとえばドゥルーズ=ガタリが「人」+「馬」+「武器」=「遊牧民(機械)」になるみたいなことをどこかで書いていたけれども、その公式を人という特権的な所有者(中心)とその所有物(周縁)というふうに解するのではなく、権利上対等な関係同士の融合・合体すなわち変身の結果であると見なし(先の公式の=を→に置き換えるイメージ)、「遊牧民(機械)」とは「人」+「馬」+「武器」の三要素の組み合わせではなく(所有物である馬に乗り所有物である武器を手にした所有者であるひとの姿ではなく)、あくまでも分節しがたいひとつなぎの存在であると考えるその思考回路を、「いま・ここにおけるこのわたし」という具体的な個物(「わたし」という抽象的に記号化された対象ではなく)、取り替えのきかない実存にあてはめてみるとする。すると「いま・ここにおけるこのわたし」というものの成り立ちとは、その具体性(時-空間性)ゆえに到底数えきることのできない無限の要素の融合物であるということがわかる。「遊牧民」が「人」と「馬」と「武器」の合体変身であると形式的にいうことができても、具体性(時-空間性)を含み持つ「特定のこの遊牧民」を「特定のこの遊牧民」たらしめる要素は無限の細部にあまねく行き渡っているために形式的に表現することができない。彼が彼として生成されうるためには彼の出自に集約されうる時間的な因果の無限退行と、(被)所有・(被)所属関係の名のもとにきりもなく結びつく空間的な無限連鎖とが(それらは同一の事柄の別な言い換えでしかないのかもしれない)ともに窮められる必要がある。仮にその遡行を窮めてみようとでもいうならば、それは最終的にこの世界そのもの、いま・ここそれ自体のまったき肯定へと帰結するほかない。「いま・ここにおけるこのわたし」を「いま・ここにおけるこのわたし」たらしめる条件の、根拠の、原因の、遡行的な探究によって、ありとあらゆる歴史(時間)がわたしの起源として回収され、ありとあらゆる存在(物質)がわたしの構成物として回収される。世界は時間的にも空間的にもわたしという自我、自己イメージ、輪郭の拡大によって覆い尽くされることになる。わたしと世界はぴたりと隙間なく一致するにいたる。恍惚の境地とは、永遠の形象とは、そのようなものではないだろうか(恍惚体験を語るクリシェとして自我の拡張もしくは自我の消滅が散見せられることから、なんとなくそんなふうに思っただけにすぎないのだけれど)。
あるいはアルペ・ド・キュドーという人物の《だから魂はなにに触れようとも、そうするときには完全にそれに触れ、同時に完全にそれを経験し、またそれが固いものであるか、柔らかいものであるかを確かめ、温かいものと冷たいものを指先でもって完全に識別いたします。魂はなにかの匂いを嗅ぐときには、それを完全に嗅ぎ、その匂いを受けいれます。魂はそれが味わうものを完全に味わって、あらゆる味を完全に識別いたします。魂はそれが聴くものを完全に聴き、さまざまな音を完全に記憶いたします。またそれが観るものを完全に観て、さまざまなものの像を完全に思い出します。要するに魂は、完全に触れ、完全に嗅ぎ、完全に味わい、完全に聴き、完全に観、完全に記憶するのです》だとか《魂は場所の大きさには関係がありませんから、大きいほうの部分によって大きな空間を占めるとか、小さいほうの部分によって小さな空間を占めるというようなことがありませんし、部分のなかでは、全体のなかにあるときよりも乏しくなっているというようなこともありません。なぜといって、それは肉体のあらゆる部分のなかで同時に、そして完全に現存しているからです。そのため肉体のどれほどささやかな部分が打たれたり、刺されたりしても、それは完全に痛みを感じます。しかも肉体の小さいほうの諸部分のなかでもより劣っているということはなく、大きいほうの諸部分のなかでもより大きいということなどありません》といったような恍惚体験の告白を読むと、恍惚というのは要するに傾きがなくなるということなんではないか、と思わなくもない。
早めに帰宅してから走りに出かける予定だったのが、結局だらだらとブーバー片手に長居するはめになり、おいとまするころにはたぶん2時近かった。(…)さんと(…)ちゃんが袋詰めしたパンの耳をわざわざリボンでかわいくラッピングしてくれた。とんだ果報者だ。帰宅してから風呂に入り、部屋に戻ってストレッチをしているときにふと、それしか許されていないという段階に達してはじめてそれが許されているということができるのかもしれない、というフレーズを思いついた。