20130313

 あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは、〈一つ〉を二分することではなく、〈他者〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ。それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。私は、外部で私と出会うのではなく、私のなかに他者を見出すのだ(「どのようにして〈他者〉、〈遠いもの〉が、同時に最も〈近いもの〉であり〈同一のもの〉でもあるか、示さなくてはならない」)。それはまさに、発生学における組織の陥入や、裁縫の場合の裏地の仕事に似ている。ねじり、折り返し、固定する……。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)

もし、権力がますます私たちの日常生活、内面性、個人性を包囲しており、権力が個人化することによって成立し、知それ自身がますます、欲望する主体の解釈学とコード化を形成しながら、個人化されているとすれば、一体どんな主体性が私たちには残されているだろうか。主体には、何も「残って」はいない。主体はそのつど、知を主体化し、権力を折り曲げる襞の方向づけにしたがって、抵抗の焦点として作られるべきものだからである。現代的な主体性は、あまりにも〈法〉に拘束された欲望に対して、身体とその快楽を再発見しているのだろうか。それにしても、これはギリシャ人への回帰というわけではない。決して回帰など存在しないからである。現代的な主体性のための闘争は、現代的な二つの隷属の形態に対する抵抗を経由するのである。隷属の一つは権力の要求にしたがって、私たちを個人化することであり、もう一つは、余すところなく限定され、知悉され、認識された一つの同一性におのおのの個人を結びつけることである。だから、主体性のための闘争は、差異の権利、変化、変身の権利として現われる。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



夢。町家の連なる竹林の小道を歩いている。認識上は京都の街、それもアパートから徒歩で数分の通りということになっている。鬱蒼と湿った真昼の薄暗がりに小雨がぽつぽつと音をたてている中、一軒の町家の軒先に貼りつけられた色つきの画用紙に手書きの文字で「天かす30円」と記されているのを目にする。納豆にまぜて食べれば美味そうだから今度来たときに買ってみようと思いながら格子戸越しに中をのぞきこむと、老いた男性がひとり土産物とも伝統工芸品ともつかぬ小さな雑貨をせまく薄暗い店内で丁寧に並べなおしている姿がぼんやりと認められる。携帯電話のムービーフォルダの中からひとつ映像を選んで再生する。すると遊園地にある船を模したアトラクションのような白いペンキの安っぽい乗り物の後部座席に腰かけている(…)の姿が見える(あるいはそれはかつてバンコクで(…)と同乗したチャオプラヤー川を渡る乗合船だったかもしれない)。船は出発したばかりのジェットコースターのようにレールに沿って斜面をゆっくりとのぼっている。あたりの風景は先ほどの竹林を抜けていくらか開放的になった、それでいてやはりどことなく鬱蒼とした森の一画のように見える。川か湖の上をすべりゆくような道のりは閑静である。空気も澄んでいる。雨上がりのようにひやりとして透明な質感である。耳をすませば、うぐいすの鳴き声がする。聞こえるたびに後ろをふりかえって、(…)のほうを見遣る(記録された映像をながめる視点はすでに消え失せ、くだんの乗合船の一画に突っ立ちながら細い真鍮の柱を片手に握って耳をすませている視点が新たに成立している)。目があうたびに彼女は無言のままにこりと笑ってみせる。船上にはもうひとり匿名的な男がいる。くりかえされる無言の笑みには彼を慮る意味もある。やがて船が停留所に到着する。すでに船ではなく市バスであり、停留所は西大路通のどこからしい。梅雨時の京都の背の低いビルのたちならぶ退屈な街並がひらかれていたはずの上空を遮りはじめる。
11時起床。美しい夢の余韻。13時より自室にて「邪道」執筆。18時前まで。プラス2枚で計469枚。難所に手こずる日々。なんか違うんだよなあという違和感。こういう場合はいちど該当するくだりをすべて削除してしまって一から書き直してしまったほうが早いし出来映えもよくなるのだが、もったいない精神が邪魔をして小手先の修正でなんとか帳尻をあわせることができないものかとみみっちく粘ってしまう。「邪道」作文の合間に「偶景」の見直しもした。ここ最近書き加えた記述がどれもいまひとつ冴えていないという印象があったのだが、冒頭からざっと読みなおしてみるかぎりそうでもなかった。枝葉末節をちょろちょろと加筆修正し、いくつかの断章をまるっと削除。自室での作業中は部屋の電気を落として、デスクの近くにあるスタンドライトの明かりだけを頼るようにしたほうがいいということに気がついた。真夜中の雰囲気が出て作業に没頭できる。
きのうに引き続き今日もまた入居希望者が見学に来ていた。母子二人連れであることの話し声から察せられるにおそらくは新入生だろう。陰気な宇川直宏スタイルでおもてに出てみようかとも思ったが、大家さんも三部屋分の家賃収入が一気に途絶えて大変だろうし、余計な真似はしないことにした。
夕方から雨が降り出したので小躍りした。一年を通して唯一雨降りをありがたく思う期間である。雨降りのときだけはマスクなしでも表を出歩くことができる。だが雨は雨である。おもてを出歩けば濡れる。そして濡れるのはあまり好きじゃなあい。ゆえに今宵もまた自室待機である。幸い冷蔵庫の中には食材がひとしきり揃っている。ホワイトデーのお返しを近所の洋菓子店に買いにいくつもりだったのだが、作業が長引いてしまったため、営業時間に間に合わなかった。あした当日でもブツは手に入るものなんだろうか。けっこう高そうなものをいただいたのでコンビニやらスーパーやらに置いてあるようなものですますのは忍びないのだが、それかといってわざわざ高島屋やら大丸まで出張るのも面倒である。なるべく手近なところですませたい。
筋トレ・夕飯・映画。アラン・レネ『戦争は終わった』。不安、怯え、強迫観念のごときものとしてたびたび挿入される短いカットと、同様の効果を見越してか説話とはほぼ無関係にしかし頻繁に挿入される駆け足の足音(この音の前面化はブレッソンを思わせる)。抱き寄せた腰をまさぐる手をおなじ構図おなじ距離感でとらえたカットが三分割されそのたびに腰部を覆う衣類が一枚ずつ脱げ落ちていくという過程の中抜き的なモンタージュ(この技法をより動的に、スタイリッシュに、ある種のスピード感の獲得を狙って用いる作家にたとえばオリヴィエ・アサイヤスがいる)。ナナとのセックス(というよりもほとんど「交感」というべきかもしれない)官能的なシーンにつきまとうある種の滑稽さ。ひとつひとつが申し分なく美しいきわめて洗練されたカット。『二十四時間の情事』でも散見せられた短い距離を移動するクイックなパン。そしてクライマックスにおいて説話を断ち切るタイミングの潔さ。
映画を観終わったところで、これ(…)を読んだ。論旨そのものはたいしたことないというか、「差異」やら「ずれ」やらそれらしきタームを用いることでどうにか見栄えを整えたというようなバランスの悪さがあって、こういっちゃあなんだけれどそこらの学生が書いたレポートみたいだったものの、印象に残った記述もいくつかあった。たとえば《たとえばカルロスがナディーヌ(ナナ)と外であうことを約束する画面のなかに挿入される「フラッシュ・フォワード」(建物の入り口近くで待つナディーヌ)は、やがて「いま、ここ」として反復される。これらの画面は、たしかに「いま、ここ」のできごとを分割するだけの異質性をもちながらも、しかし独自のできごとを提示して明確に「いつか、どこか」に関わるにしては、あまりにも「いま、ここ」と等質だというべきなのだろう。そして、おそらくこの距離と差異の小ささ、あるいはその曖昧さ――異質性と等質性の共存――のゆえに、これらの画面は、『去年マリエンバッドで』におけるフラッシュ画面のように、映画全体の時間構造を錯綜させ、ある種の――おそらくは修辞的な意味での――難解さをもたらすこともない。》とか《むしろかれらひとりびとりの行為は、同志を中心とする他者のまなざしにたいして、みずからを戦うものとしてあらわしだすためのものであり、さらにいえば、現実的には戦争状態にない周囲世界を、みずからの意識にたいして、戦争のさなかにあるものとしてあらわしだすためのものであるということもできるだろうから、そのかぎりにおいて、「しぐさ」(le geste)ないし「演技」(le jeu)としてとらえられるのではないだろうか。》とか。後者にかんしてはこの記述にさしかかるまえの前提にせよこの記述から結ばれるにいたる結論にせよすごく退屈というかそれほとんどなにもいっていないに等しいんでないかというくらい古くさいクリシェのオンパレードだし、あるいは《スペイン内戦は、かれらにとって、かれらのいまを規定する原因なのではない。なぜなら、かれらにとって、戦争はまさに「いま」にほかならないのだから。といってかれらのいまの戦いは、ある目的達成のための手段ないし過程なのではない。極端にいうなら、いまの戦いは、戦いを持続するための、あるいは戦いを戦いとしてあらしめるための行為にほかならず、自己自身を目的とする――循環的な――、したがって果てることのないものである。なにものももたらすことのない、絶対的な「いま」のかぎりない持続として、それは、「絶対の無」の永遠の持続としてのニーチェ的な「永遠回帰」にすこしばかり似ていなくもない》というこれ自体は別に悪くない記述に続くくだりにおいてそれまでさんざん表層批評的なタームを多用していたにもかかわらず「しぐさ」ないし「演技」を不毛としてシジフォスに結びつけるくだりなどがあったりして、そういうのにはちょっとげんなりする。なんか流行り言葉にのっかって「差異」だの「ずれ」だの言っちゃった感が半端ない。この「しぐさ」と「演技」はむしろ肯定すべきだろうに。あと、じぶんの書く文章はすこし漢字の比率が多すぎるのかもしれないと思った。この論文ではすくなくともこちらの見るかぎりけっこう思いきった単語までひらがなで記してあって、しかもそれがたいそう見栄えよく読みやすい。漢字とひらがなの比率にかんしては(…)さんの小説を読んだときにもうまいなーと感じ入った記憶がある。
洗い物をするためおもてに出たところ(…)さんにばったり出くわしたので、このあいだアラン・レネの『二十四時間の情事』を観たんすけどマジでやばかったですわーと伝えると、どこが良かったのと言われたので、いやいやまずあの冒頭の広島の風景を延々と垂れ流すロッセリーニばりの……というところからはじまってこの間ここに書き記した感想をそのままバババッと早口でしゃべったりしたのだけれど(…)さんはアラン・レネに関してはどちらかといえばこれといってとくにという反応だったので、(…)さんとはわりと映画の趣味が近いと思っていたこちらとしては(少なくとも今まで直接会ったことのあるひとのなかではいちばん趣味が近いというかそもそもの話身近なところにヌーヴェルバーグとか好んで観る人間がまったくいない、自称映画好きとうひととはちらほら会ったことがあるけれどだいたいがみんなひどい趣味だというかそもそも全然本数をこなしていないので話にならない)という認識だったものだからちょっと拍子抜けした。『二十四時間の情事』が良かったんだったら諏訪敦彦のアレとかもいいんじゃないといわれて、アレというのは要するに『H STORY』のことでこれは何年も前から気になってはいるのだけれどいまだに観たことがない。そういうところから諏訪さんいいよねーという話になって、(…)さんは『2/デュオ』をプッシュしていたけれどこれもまだ観たことがなくて、諏訪作品で観たことがあるのは『MOTHER』『不完全なふたり』『ユキとニナ』の三作だけなのだけれど、それらはすべて文句なしの傑作だった。
夜は夜とて雨降りで、そしてひさびさの寒さで、ゆえに大いにためらわれたのだけれど怠け癖をつけるのはよくないと自らをむち打ち(ストイック!)ジョギングに出かけたのがちょうど0時。きのう割とたっぷり走ったので今日は距離を短めにすることにして引っ越した当初に設定したコースだけですませることにしたのだけれど帰宅してみるとわずか15分しか経過しておらず、これじゃあダメだろうという思いからちょうど冷蔵庫の中の牛乳が残り少なくなっていたことであるしと財布の中から適当に小銭だけひっつかんでポケットに入れて、それで今出川のフレスコまで走っていって牛乳買って牛乳小脇にかかえて走りながら戻ってきたら35分。まずまず。このあいだスカイプをしていたときに(…)が日本人はミルクを飲まないものだと思っていたと言っていて、白米も納豆もみそ汁も好んで食べてお茶を飲みチョップスティックもほぼ完璧に使いこなす(…)にしてはめずらしい無知偏見のたぐいだなと思ったのでどうしてとたずねてみると、いぜん学校の先生がそう言っていたからという返答があってなるほどと思った。ひるがえってじぶんはリトアニアについて(…)と出会う以前何か知っていたかと問われればバルト三国であるというくらいの知識しかなかったというのが実際のところというか、いわれてみてはじめてああそうだったっけなーと杉浦千畝の名前が出てくるという程度のもので、はじめて会って互いの出身地をたずねあったときもリトアニアといわれてたいしたリアクションがとれなかったというか、エストニアの近所だよね? おれエストニア出身のアルヴォ・ペルトっていう作曲家が大好きなんだ! と応じたりしたのだけれどこれって要するに日本出身ですと伝えたところいきなり中国韓国台湾のいずれかの作曲家の名前を告げられたみたいなものであって言われたむこうとしてもあっそうっていう感じだったんではないかと思う。特産品はアンバー、自然が豊かで四季があって湖と森がことさら美しい、かつては土着の自然崇拝的な宗教をもっていたもののキリスト教流入にともなって文化が丸ごと失われた((…)はこのことを特に嘆いていた)、リトアニアにかんしてはいまだってその程度のことしか知らないといえば知らないのだけれど。いや、バスケットボールが盛んだというのもあった。ジャングルに向うソンテオに乗車しているときに、ちょうどその日がオリンピックの開催日だったということもあってあなたの出身国はどのスポーツが強いみたいな話で盛り上がったのだけれど、たしか車内にはじぶんと(…)と(…)と(…)の四人がいて、ひょっとするとあれはジャングルトレッキングに向う道のりではなくジャングルトレッキングから戻ってきた翌日パーイにむかうミニバンの停車している場所にまでむかう車内でのことだったかもしれないけれど、というのはトレッキングの初日は(…)以外のだれかがしゃべる英語というのがなかなか聞き取れず(英語を英語に翻訳してもらうという滑稽な場面もしばしばあった)、しかも十人近くの西洋人の中にたったひとりのアジア人という半端ないアウェー感のためかなり萎縮してしまっておしゃべりどころではなかったからなのだけれど(しかし二日目になると持ち前の道化っぷりが覚醒することになる、別グループも合流して総勢二十名以上でカレン族の村に滞在したときもアジア人はガイドをのぞけばじぶんひとりという半端ないアウェー感であったが食卓の話題の中心にはつねにcrazyでmadでalways hungryなjapaneseがいたのだった!)、とにかくその車内で(…)はリトアニアではバスケットボールが盛んでNBAで活躍している選手もたくさんいるのよと嬉しそうに語っていた。自国のことを語るときの(…)はわりと目をキラキラさせていることが多かった。そういうときじぶんが知名度のある大国に住むひとりであることを不意に感じたものだった。(…)!日本人はどの種目が強いんだい!? とこちらを気遣っていつも一語一語をはっきりと区切って発音してくれる(…)のあの通りのよい声、懐かしい。カメラをむけられたときはピースサインをするもんなんだよと教えるとそれは日本人のスタイルだろ、おれはオランダ人なんだといいながらも通りで出くわすたびに(…)!と叫んでから高々とピースサインを掲げる気のいいやつだった。(…)はgovernmentに勤めていると言っていた。きっとエリートなんだろう。その手の人間特有の繊細さらしいものもたしかに見え隠れした。(…)とはもう結婚したんだろうか。彼女はじぶんなんかよりずっと英語ができるのにもかかわらず引っ込み思案だからなのかなんなのかすぐに(…)に頼って彼女のオランダ語を英語に翻訳してもらおうとするのだった。
どうしてこんなに時間がないのかという問いにたいするひとつの答えが見つかった。ブログだ。ブログの書きすぎだ。どう考えてもこいつに一日平均して90分、いや場合によっては120分は注いでいるような気がする。なんだったらこれでもまだだいぶ省いているくらいなんだが。今日だって風呂に入っているときに頭の中ですでにブログ文体でなにやら書き出していて、そんなふうに頭の中でいちどなにやら書き出してしまったものはもうじぶんの中ではすでに書き終えたことになるから実際にここでこうやって書いてアップすることもないしそれはある意味で手間と時間の削減にもなるわけなのだけれど、そうなればそうなったで結局また別の事柄を打鍵する指先がいもづる式に呼び寄せるだけの話であってほんとうに毎日毎日書いてばかりいる。小説を書いて抜き書きしてブログを書いてときには日記を書いて、書いて書いて書いてばかりだ。2013年に入ってから『二十四時間の情事』を観た日本人ってまだ三人くらいしかいないんじゃないのとさっき(…)さんにいわれたのだけれど(さすがにそれはないだろうとじぶんは思うのだけれどどうだろう)、じぶんと同じ程度の量の文章を毎日書きつづけている日本人はそんなにもいない気がする(いやこちらこそそれはないというやつかもしれない、京極夏彦は一日50枚書くって聞いたことがある)。そのせいでぜんぜん本が読めないのだ。これは致命的だ。いまだってすでに2時半だ。4時に寝るとして、残すところ1時間半だ。まだ購読ブログの巡回作業が残っている。こんなペースでいったいいつ本を読むことなどできるというのか。記述が記憶を呼び起こすからすぐに思い出話に脱線して話が長くなる。睡眠時間を省いて一日18時間、ひょっとするとこのうち8時間くらいじぶんはなにかしら書いて過ごしているんでなかろうか。どうして書くことに飽きないのか。初期衝動を思い出せみたいなフレーズをたびたび目にするが、はっきりいって小説というか文章を意識的に書くようになりはじめた二十歳のころよりもいまのほうがずっと書くことにたいして貪欲であるし衝動的であるし、というか初期衝動って何だよ!毎分毎秒が初期だよ!心臓がひとつ打つたび一文字書く。字余り。イエス。辞世の句はこいつで決まりだな。