20130315

言語も、光も、それらをたがいに関係させる様々な傾向(指示作用、意味作用、言語の意味性、物理的環境、感覚的な、あるいは理解可能な世界)において考えるのではなく、それぞれを自足的で、他方から独立した、還元不可能な次元において考えなくてはならない。光の「そこにある」と言語の「そこにある」において考えなくてはならないのだ。どんな志向性も、二つのモナドのあいだの淵で、あるいは見ることと話すこととのあいだの「無関係」においては崩壊してしまう。これはフーコーにおける重要な転換である。つまり、現象学を認識論に転換したことだ。なぜなら、見ることと話すことは、知ることであるが、私たちは話すことを見ないし、見ることについて話すのではない。そしてパイプを見ながら、私たちは(いくつかの仕方で)「これはパイプではない」と言い続けることだろう。あたかも志向性は、それ自身を否定し、それ自身崩壊してしまうかのようだ。すべては知である。そして、これが無垢の体験が存在しない理由である。つまり、知の以前、知の下には何もないのである。しかし、知は、還元不可能な仕方で二重であり、話すことと見ること、言語と光である。だからこそ志向性は存在しないのである。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



12時半起床。腐れ大寝坊。13時半より自室にて「邪道」作文。集中できず15時に切り上げる。部屋の改装だか清掃だか知らないが隣でバタバタされると気が散って仕方ない。『忘我の告白』読み進める。やはり集中できない。もはや物音の問題ではない。筋トレ&早めの夕食。きのうに引き続き夕食後もうれつな下痢におそわれた。鮭に火が通っていないのだ。のち小一時間ほど過去ブログ整理。この当時のブログにはどうやらカテゴリーが二つあったらしく、ひとつは普通の「日記」で書いている内容はいまここで更新しているものと近いのだけれど(とはいえ毎日更新ではないようであるし文体も異なれば読者との距離感も異なる)、もうひとつは「限定配信☆無修正動画」というカテゴリーで(ふざけてやがる)こちらでは詩なのか自動筆記なのかいちおうは創作らしいものを不定期に更新しているようである。2007年2月2日の記事に「最近は一日三冊のペースで本を読んでいる」とあって信じられない。速読の王だ。3月2日にはくだんの広告会社の選考を辞退している。会社を去るまぎわおまえが作家になったらうちの会社出版にも手を出すからなといって社長から見送られている。そんな一幕もあったかもしれない。大江健三郎を一冊借りたとの記述もあるが、これは文庫版の『懐かしい年への手紙』のことだ。いまだ返却していない。読み終えたのだってつい数ヶ月前である。以下、めぼしいものをいくつか引用。これくらい古いものになると公開するにさいしてもそれほど抵抗がないものだな。過去のじぶんを他人と見なす距離感が出来上がっているのかもしれない。

目をこらしてみると、途中放棄された工事現場のように赤土があらわになった地肌の上で、数十人の少女が少林寺憲法の基本動作をくりかえしている光景を望むことができる。僕は直感的に彼女らは上のテニスコートで練習していた少女らと同じ団体に所属する二軍選手なのだと理解した。少女らはみな鉄梯子を伝って崖を下りてくる僕には背を向ける形で一定動作をくりかえしており、こちらの存在にはまるで無頓着だった。彼女らの視線を追うと、その先にはパイプ椅子に腰掛けたおぎやはぎの矢作がいた。矢作はよれよれになった青と白のツートンカラーのチェックシャツを羽織り、クリーム色のパンツを履いていて、その手には目に痛いくらい発色の良い黄色のメガホンを握りしめていた。僕は矢作と知り合いだったが、どういう心の作用か、できれば今の自分の姿を彼には見られたくないという羞恥の感情を抱いていた。それゆえ僕は反射的に矢作から目を逸らし、視線をその先に広がる縦横無尽な街並へと移した。網目状に路地の連なる住宅街が視野いっぱいに広がっており、その中心線ともいうべき路地のど真ん中にはコージー富田が突っ立っていた。彼はタモリに扮し、その手には水色のマイクを握り締めていたが、誰もネタをふる人がいないので、まるで発掘されたばかりの彫刻のように寡黙だった。
(2007/2/9 夢日記

 地下鉄へと下りる階段の前で、気の触れた男が全裸になって踊り狂っている。それを取り囲む人垣は狂人の一挙手一投足に合わせて大きく沸く。指笛が吹かれ、野次がとび、哄笑が絶えない。その中で僕だけがひとり笑えないまま立ちほうけていた。痩せほそった狂人の肉体は気の触れた主人の激しい動きに追従していくことができず、たびたび関節のちぎれる音を虚空に響かせ、その度に観衆は下卑た笑い声を投げかけた。僕は下唇を噛んで、悔しさをこらえた。その瞬間にはもう、僕は輪の中にいた。さっきまでいた狂人の姿はいつの間にか跡形もなく消えてしまっており、僕はいつの間にか全裸になっていた。僕の周囲を取り囲む顔のない人々は口々に、踊れ! と命令した。その声は頭蓋に直接語りかけるような響き方をしていた。僕は彼らの命令を断固拒否した。人垣の向こうにはバス停があり、そこへちょうど目的のバスが停留するのが目に留まった。僕は人垣を押しのけてそこへ向かおうとした。だが、クッションのように柔軟性のある遮蔽物は容易に突破できそうにない。彼らは有機的に連結しており、ひとつの巨大な生命体のようだった。僕はロープに弾かれたプロレスラーのように輪の中心へとはねかえされた。踊れ! という命令が再度下される。僕はこいつらを全員殺すのに一体どれくらいの時間がかかるだろうかと冷静に計算する。それはルートを用いた計算だった。僕は行く手を阻む人垣に向かい合うと、無数に伸びた手のひらのひとつをランダムに引っ張りだし、そいつをちょうど一本背負いの要領で勢いよく背負った。ついさっきまで屋外だった舞台はいつのまにか高層ビルの窓際へと移動しており、僕はその分厚い窓ガラスに向けて背中に乗せた誰かを投げ飛ばそうとした。そして若干のためらいがよぎった瞬間にはもう、僕は重心を前方へと移動させてしまっていた。背中が軽くなると同時に、悲鳴のように甲高い音が鼓膜をつんざいた。ガラスを突き破る感触は妙に肉感的で生々しかった。
(同上)

朝刊の三面記事をことごとく叙情的に翻訳するような想像力があればぼくらのまなざしも少しはひきしまるのかな
(2007/3/13)

休日の昼下がりをマクドナルドの二階席でシェイクスピア片手に品よく過ごす俺はイケてるが日が暮れるまでの暇(いとま)をたかだか100円のコーヒーいっぱいで片付けようとする懐具合はイケてないこみあった市バスの座席を足元のおぼつかない老人にゆずるためその場に立ち上がろうとする俺はイケてるが被害妄想にも類似したあまたのまなざしによって簡単に息詰まってしまう軟弱な声帯はイケてない首尾一貫した信念を周囲に賞賛されるたびに伏目がちな謙遜をくりかえす俺はイケてるがその謙遜があながち謙遜ではないという囁きがもたらすひとすじの罪悪感はイケてない積み重ねた稚拙な思索の一到達点として客観性の自覚を最上の哲学に掲げた俺はイケてるがそれを重視するあまり気づけばいっさいの自己主張を喪失してしまっている現状はイケてない奇をてらった様々なエレメントで自身を彩ろうとする既成的な芸術家たちのポーズを心の底から忌みきらう俺はイケてるがその排他的な態度すらもがある種の衒いなのかもしれないという疑心暗鬼はイケてないことばの情熱とその虚構性がもたらす美学に自身をささげようと決意した俺はイケてるが決意の固さにつられてかつては流暢だった口先がおしのような緊張感で結ばれてしまった経緯はイケてない女性の快感曲線のように経過時間に比例して際限なく上昇する愛のようなものを胸のうちに見出した俺はイケてるが詩人でありながら君にそれをことばで伝えることのできないぼくはイケてない
(同上)

*時代
いっそのこと呼吸をするにも許可が必要なそんな管理社会になっちまえばいい書類はすべてゴシック体で統一されていて肉筆のサインすら指紋で代用できるそれくらい徹底したやりかたでぼくらの首元にバーコードを刻みつけてくれそれならこのいわれのない気だるさもパンクス的精神として昇華されるだろうに何かを叫ぼうにもそいつはあらかじめ書物に記されているし何かを思いついてもそいつはひとつ残らず実現されているめぐまれた世代だぜ君らって文明の豊かさといかいうやつがしたり顔でぼくらを苛立たせる正解の書き込まれたクロスワードパズルでエンディングをむかえたテレビゲームで形をなした部品たちでそういったどうしようもないほど完成されてしまったものなんかを材料にぼくらはいまいちど新しいルールを考案しつつ門限も忘れるほど熱中して遊ばなければならない転換期にも限度があることには目をつむりながら退屈をやりすごすにはあまりに退屈で希望を見出すにはあまりに絶望的な作業さぼくらの思想や哲学や主張や意見なんてものはGoogleで検索すれば二秒で表示されるぼくのこの詩だって手垢のついた既製品だしもっと率直に言っていいならば未来はもうとっくに歴史の範疇だ静寂をたたえたプールの水面にひぐらしの慨嘆が反射しているそんな空虚さだけが身近だっていうのにいつだってぎりぎりのところで使い古しのフレーズに忍ばされた360°めの意味に胸を打たれたりするぼくらはもうきっと知りすぎているから積極的な解釈でしか救われない時代がやってきたんだよ由縁のない鬱屈や感傷や殺意や同情なんかがそれとは把握されないままどこかでくすぶっていて(たとえば、曇り空の駅前とかマイナーコードで構成されたロック・ミュージックとか大学食堂のピーク時の混み具合とか古着屋の入り口でためらっている中学生とか、そんな日常のすみずみに)やがて時代性として発露するその認識はきっと五十年後くらいに確立されるものなんだろうけど厚底ブーツやルーズソックスやガン黒メイクと同様にもはや手首の傷跡だって流行り廃りの問題だってことを「たった今」認識しなければならないそれがたとえまったくの虚偽であろうとああもう比喩に因果を託すのもほどほどにすべきだぶっちゃけたはなしぼくはただ空が青すぎてむかつくだけ
(2007/3/17)

テンポを落として演奏したロックがそれでも全力疾走して聴こえるようなそんなふうに感覚的な明快さでやさしさの本質を定義してみせてくれよ「やさしいんだね」と言われたときにみせる正直者の苦笑ほど人間的なものをぼくはいまのところ他に知らない世界は常に正直者だがぼくらの解釈はことごとくへそ曲がりだ
(2007/3/20)

夜は夜でまた『忘我の告白』を読み進める。残すところあと少し。