20130316

 これらは三つの還元不可能な次元であり、知、権力、自己は、つねにからみ合っている。これらは三つの「存在論」なのだ。なぜフーコーは、それらが歴史的であるとつけ加えるのだろうか。それらが普遍的な条件を指定しはしないからである。知-存在は、ある時点で、可視的なものと言表可能なものがとる二つの形態によって決定され、光と言語とは、それらが何らかの地層の上に獲得する「得意な、限られた実在」と不可分である。権力-存在は、それ自体、時代によって変化する特異性を通過する力の関係のなかで決定される。そして、自己、自己-存在は、主体化のプロセスによって、つまり、襞ができる場所によって決定されるのである(ギリシャ人は何ら普遍的なものをもたない)。要するに、条件は、決して条件づけられるもの以上に普遍的であることなどなく、それ自身の歴史的特異性によって、価値をもつのである。だから、条件は「必然的」ではなく問題的である。条件であるかぎり、条件は歴史的に変化するのではなく、歴史とともに変化するのである。実際に条件が示すのは、何らかの歴史的形成において、問題が提起される仕方なのである。私は何を知ることができるか、何らかの光と言語の条件のもとで、私は何を見、かつ言表することができるか。何をすることができるか。どんな権力を要請し、どんな抵抗をそれに対抗させるか。私は何でありうるか。どんな襞に取り囲まれているか。あるいはどのようにして、私を主体として生み出すか。これら三つの問題に対して、「私」はある普遍的なものを指示しているのではなく、ある〈誰かが話す-誰かが見る〉〈誰かが衝突し、誰かが生きる〉のなかで占められる、特異な位置の一集合を指示するのだ。どんな解決も、ある時代から別の時代へ流用することはできないが、問題の磁場の侵蝕、浸透はありうる。そのため、古い問題の「所与」が、別の問題のなかで活性化されることがある(たぶん、フーコーのなかにはまだ一人のギリシャ人がいて、快楽の「問題化」に対するある種の信頼があるのだ……)。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)



5時起床。「邪道」作文。プラス1枚で計463枚。8時から12時間の奴隷労働。潰れたホテルからパクってきてもらったコップを四つゲット。明日の仕事あがりに(…)さん含めた三人で祇園で落ち合う約束。帰宅後きのうの埋め合わせ分のジョギング。入浴。ストレッチ。(…)来訪。サイゼリヤで飯食って(…)でコーヒーを飲みながら2時前までだらだらと募る話。昼飯に職場で冷凍食品のカルボナーラを食ったところおもいのほか美味かったという話をしたら(…)もまた昼飯に自作のカルボナーラを食ったという。(…)はサイゼリヤでもまたカルボナーラを注文した。そして喫茶店に移ってからは高校の同級生が地元でカルボナーラ専門店をひらく計画をたてているという話を聞かせてくれた。