20130318

思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)

「この本はまず、私にとって必要なものだった。何らかの限定された概念に関する論文とは、まったく異なるものである。この本で私は、フーコーの思考の総体を分析している。総体というのは、彼をある水準から別の水準に移動するように強いるもののことだ。何が彼を、知の背後の権力を発見するようにしむけ、何が彼を、権力の支配の外の『主体化の様式』を発見するようにしむけるのだろうか。思考の論理とは、思考が通りぬける危機の総体なのである。それは、平衡状態に近い、静かなシステムではなく、むしろ火山脈に似ているのである。」
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』解説より「リベラシオン」におけるドゥルーズのインタビュー)



13時過ぎだかそこらに起床。起き抜けに(…)さんに謝罪&報告メールを送信。折り返し電話があり、(…)さん(…)さんそろって遅刻することなく出勤できたとのこと。ひと安心。(…)からのメールを読みなおす。panic attackに襲われて難儀しているみたい。ただいつもの発作と何が違う、どこか不思議な感じがするらしく、(…)としてはどうもその不思議な感じをenlightenmentnirvanaにいたる一種の恍惚体験と結びつけて考えようとしているようである。わたしはenlightenmentnirvanaを体験してみたい、でもどうやって、なにをすればいいのかがまったくわからない、とにかくいまのわたしにはlifeというものが奇妙に思えてしかたないわ、たぶんぜんぜん眠れていないのと発作がいまもまだ続いていてしかも今回ばかりにかぎってはソフトに働きかけているからでしょうね。(…)の(疑似)仏教やスピリチュアリズムにたいする興味関心というのは、バルトがいう俳句的な感性とはある意味で正反対ともいうべき日常における特権的な破れ目の瞬間をいいあらわす語としてしばしば用いる「偶景」や、ムージル-『忘我の告白』のラインで興味が増している神秘主義や恍惚体験、酩酊のもたらす薬理的な知覚の変容などといった領域に興味が集中しはじめているじぶんの動向といくぶんかぶっていてしかし決定的に異なる。そこにわれわれがおのおのの世界観や宗教観などを交わすさいに必ず生じることになるあの緊張感の原因があるように思われる。(…)は必然性を信仰しているし、永遠不変を信仰している。偶然と変身の信奉者たるじぶんとはまるで正反対だ(ただ彼女がそこに「必然性」を認める次元とじぶんがそこに「偶然性」を認める次元とでは次元の水位が異なるだけだという印象もときどき抱くが)。きみは深層の探究者おれは表層の道化、と旅行中の日記にいちど書きつけたことがあるが、こうしてみると我ながら的を射ているように思う。部屋にいてパソコンをつけているかぎりは必ずスカイプにログインしておくようにするよ、だからきみがそう望むときはいつでも気兼ねなくコンタクトしてくれればいい、とひとまずそれだけ返信したが、この約束を守る自信がない。
外は雨降りである。前日の油断がまねいた猛烈な鼻水&鼻づまりに悩まされている身にとってはまさしく恵みの雨というやつにほかならない。次回通院時にはスギ花粉からヒノキ花粉への移行&兄の結婚式出席のための帰省すなわち外出頻度上昇を見越して薬を強くしてもらい点鼻薬も出してもらおうと決心。執筆は夜にまわすことにしてひとまず自室でマルティン・ブーバー『忘我の告白』の残りを片付ける。そして19時まで延々と抜き書き。途中で(…)さんから電話があり、(…)くんはきっと覚えていないだろうけれどきのうは相当やばかったよ、(…)さんにたいしてブチギレまくっていたから傍で見ていてひやひやした、ふだんの物腰からは考えられないほどガラが悪かったけどいったいどっちが(…)くんの本性なんだろうね、(…)さんは前々からホモっ気のあるひとだと思っていたけれど昨夜はとくにすごかった、(…)くんにベタベタし通しだった、(…)くんはすごく眠そうだったからベタベタされて頭にきたんだろうね、邪魔するなってずっとイライラしていたんだけれど最終的に(…)さん相手にため口で怒鳴りちらしはじめるものだからいやいやあのときはさすがに焦ったよ、(…)さんの顔色もそのときだけははっきりと変わったからね、これはもうぜったい喧嘩になると思ったけれど(…)さんときたらそこで、わかった、おれはもう(…)くんから離れる、でも離れる前にひとつだけお願いがある、チューしてくれ、と真顔で言い出すものだから本気で爆笑したよ、間違いなくきのうのハイライトだった、水曜日は祝日だから(…)くん出勤だよね、またそのときにいろいろと報告するよ、(…)さん(…)さんふくめて反省会をひらこう、それじゃあまた、執筆中だったろうに悪いね、おつかれさま、小説がんばって。
抜き書きを終えてから部屋着のスウェットにウインドブレーカーだけひっかけて19時半閉館の帰宅図書館にすべりこみで返却&貸し出し。そのまま薬物市場に足をのばしてサンドイッチとコーヒーをお供に「偶景」作文。3つ追加して計155枚。続けて「邪道」にもとりかかる。作業がはかどらないのは該当する記述が退屈だからである。そういうところはさっさと切り捨ててやればいい。ということでひさしぶりにがっつりと削った。結果マイナス1枚で計462枚。ひさしぶりに外で作業したのは今日が雨降りで花粉の飛散量が少ないからという事情もあったが、自室でなければネット環境もないしそれゆえにスカイプにログインせずとも良心の呵責を覚えずにすむというせこい計算もたぶんあった。どうしようもない人間だ。
23時半ごろに店を後にして帰宅。きのう挫いた左足がまだ治っていないようなのでジョギングはおあずけ。なんだかんだでけっこう長引きそうな気がする。せっかくいい具合に習慣のひとつとして定着してきたこのタイミングで怪我をするとは、文字通り出足を挫かれたという感じがする。筋トレしたのち冷蔵庫の余り物の野菜を蒸して食す。ウェブ巡回のち入浴。部屋に戻ってから(…)のエッセイをプリントアウトして読みはじめる。きみの論文を読みたい、と、これもかつてなにかの拍子に書きつけたフレーズだった。だれでもない二人称のつもりだったんだけどな。
以下、先週書き足した「邪道」の一部。これくらいのふざけ加減がじぶんにはちょうどよい按配に思えるのだけれど、どうだか。

わたしの二足歩行が必ずしも絶対的なものではないということについては、ひとこと付言しておいたほうがいいだろう。朝は四本、昼は二本、夜は三本の謎掛けにもあるように、時の経過がわたしの歩行にかかわる脚の本数を増減させる可能性は大いにありうるからである。それにわたしもまた自他ともに認める旅人のひとり、その端くれであるからには、いずれはあの人頭獅子身の怪物と相見えることもあるかもしれない。だとすればなおさらわたしはわたしの二足歩行を相対化して考える習慣を身につけておくべきだろう。朝は四本、昼は二本、夜は三本、これなんだ? 仮にそう問われることがあればどう応じるべきだろうか。朝は妻とふたりでそろって家を出て(四本)、昼は職場でひとり仕事に励む(二本)、そんな典型的な家庭人の姿がわたしの目にはありありと浮かぶ――わたしならきっとそう答えるだろう。夜? なあに、おおかた視界不良のため二本あるものを三本あると見間違えたといったところだろう。もっとも、やっこさんがそれをお望みならば、夜ならではのいくらかお下劣な別のやり口でもって応じてやってもいいが。なるほど、怪物とはいえ所詮はうぶな乙女である。夜の三本目の真意を察知すれば、それを察知してしまったおのれの破廉恥に耐えかねてたちまち海中に身投げするに違いない。あるいは世の流行り廃りに敏感な女性のことであるからいまどき身投げなどしたところで感興のいっこうに湧くわけもないと、鴨居にひっかけた荒縄で首を吊るだとか、安物の出刃包丁を下腹にさしこみ真一文字に切り開くだとか、口にくわえた拳銃を脳天めがけてぶっ放すだとか、ビニールテープで目張りした車内に閉じこもって練炭を焚くだとか、大量の薬剤をアルコールでがぶがぶと流し込むだとか、そういったありがちな手法とは似ても似つかぬ独創的で、斬新で、新奇で、そしていくらか珍妙な手法をもってして、自らの生にきらびやかにデコレーションされた終止符を打つにいたるかもしれない。けっこう、けっこう、おおいにけっこう! いずれにしたところでわたしが怪物退治に成功した英雄であるという事実が揺らぐわけでもないのだから。むろん、さりとてわたしとかの英雄とが寸分違わぬ同一人物であるという結論に短絡するわけでもまたない。そんな早とちりはしちゃあいけない。そんな早とちりは控えるべきだ。考えてみればいい、わたしとかの英雄とでは怪物を相手に発揮した機知と勇気の趣向が大きく異なるではないか! わたしとかの英雄は与えられた同じ謎かけにたいしてそれぞれ異なる見解を提出した。そして異なる見解の持ち主とは異なる実存の持ち主である(というのもやはりまたわたしの手元にある見解のひとつである)。ゆえにわたしはかの英雄ではないし、かの英雄もまたおそらくわたしではない。たとえ双方ともに腫れた足の持ち主であるにせよ、である。おわかりだろうか? このようにしてわたしはありとあらゆる肩書きをかなぐり捨てていく。測量士を身につけては脱ぎ去り、救世主を身につけては脱ぎ去り、英雄を身につけては脱ぎ去っていく。その過程でどうにもしつこくへばりついてやまぬこのわたしの皮膚の薄皮も剥がれ落ちていくことを祈りながら、あるいは、わたしをわたしたらしめる輪郭線を描き出してやまぬこの執拗な贅肉がみるみるうちにそぎ落とされていくのを願いながら、わたしは捨て去り、わたしは脱ぎ去り、わたしはわたしを消尽していく。然り。わたしはもうくたびれきっているのだ。疲れ果てているのだ。ぼろぼろのくったくたになっているのだ。もうずっと以前から、何度となく繰りかえしてきたように。わたしの歩行は実に困難な局面にさしかかっている。もう一歩も歩けない、無理だ、これ以上はどうにもならない、そう思いながらもわたしはどういうわけかわたしの歩みを中断することができずにいる。おそろしいことに、あるいは、滑稽なことに。わたしは身軽にならなければならない。わたしはわたしの歩みの負担をたとえほんのわずかであろうと――雀の涙に等しかろうと、鳩の糞に等しかろうと、鴉の吐瀉物に等しかろうと――軽くしてやらなければならない。それゆえにわたしは身に着けているものをいちまいいちまい脱ぎ捨てていくのだ。なるほど、そういってみることもできるだろう。そんな理窟もところによっては立つはずだ。わたしは衰弱している。衰弱しきっている。気絶せず、卒倒せず、当然のことながら絶命することもなく、それでいてたしかに衰弱している、いまもいまとて衰弱を極めつつある。わたしは衰え、弱まり、底の抜けた袋のようにわたし自身を構成する部品のひとつひとつをたえず手落とし、失い、欠損し、損失を重ね、劣化し、みるみるうちに貧しくなっていく。だが一方で、わたしの衰弱はわたしの衰え知らずの旺盛さによって、そしてまたわたしの不能一辺倒な生態はわたしのいまなお猛々しい絶倫によって、このうえなく頑丈に裏打ちされてもいる、そういう側面を見逃してはならない、そういう側面にも光をあててやるべきだろう。というのも、少なくとも原理の水準にたっていうかぎり、消費とはただの消費ではなく消費の生産であるのだから。同様に、わたしの衰えとはすなわちわたしによるわたしの衰えの産出であり、わたしの弱まりとはすなわちわたしによるわたしの弱まりの産出であり、わたしの欠損とはすなわちわたしによるわたしの欠損の産出であり、わたしの損失とはすなわちわたしによるわたしの損失の産出であり、わたしの劣化とはすなわちわたしによるわたしの劣化の産出であり、わたしの貧しさとはすなわちわたしによるわたしの貧しさの産出であるのだから。わたしはわたしであるかぎりわたしの旺盛さを離れることはできないし、わたしの絶倫さを手放すこともまたできない。わたしとは常にお盛んであることを免れず、わたしとは年がら年中発情期にあり、わたしとは四六時中興奮しっぱなしの無分別で、わたしとは女であれば誰だろうと見境なく押し倒す千人斬りの腐れヤリチンあるいは男であれば誰にでも股をひらかずにはいられぬ尻軽糞ビッチであり、ハッテン場の常連、百合の園の通い妻、スワッピングの中毒者、ハプニングバーの得意客、乱交パーティーの主催者、キメセクの常習犯、ときには主人と奴隷の倒錯に耽り、ときには種族の垣根を超える衝動に突き動かされて家畜小屋に忍び込む好き者、生まれたての赤子からミイラと化した屍までのいかなる段階にある人体であろうと貪りつくさずにはいられぬ比類のない色魔、ありとあらゆる体液・吐瀉物・血液・糞便のたぐいを嬉々として飲み干す肩を並べるものなき好色家、あげくのはてには自分自身とさえ関係を持つにいたってしまうおそるべきオナニストにほかならないのだ。要するに、わたしはいかんともしがたく性的な存在だというわけである。わたしはわたしの無性愛的な様相においてもなお性的たらざるをえないほどのスケベなのだ。わたしはわたしの不能においてなお勃起するし、わたしはわたしの非-快楽においてなお射精するし、わたしはわたしの不妊においてなお子を生む。おわかりだろうか? かくしてわたしは以下のごとく宣言するにいたるわけである――すなわち、衰弱とは衰弱の生産という衰弱固有の豊かさにほかならず、と。