20130319

眼差の外にある可視性。レンズあるいは飾りぶちを通してそれに到達できるにしても、そのことは眼と眼が見るものとのあいだに一つの道具が存在するということを示すためでもなければ、スペクタルの非現実性を強調するためでもなくて、遡及的作用によって眼差を括弧の中に入れ、何か別の尺度にしたがわせるためなのである。このずれのおかげで、眼はそれが見る事物と同じ空間の中に位置づけられていないのだ。眼はそれら事物に自己の視点を押しつけることはできないし、そのさまざまな習慣をも、さまざまな限界をも押しつけることはできない。眼は、介在することをやめて、それら事物がそれらの存在のおかげで「見られる」がままにしておくべきなのだ。不可視なるものは眼固有の空間内にしかないのだ。
ミシェル・フーコー豊崎光一・訳『レーモン・ルーセル』)

これは〈同一者〉の宇宙誌なのである。巨大なノアの箱舟(ほんものよりもっとなんでも歓迎する)であって、それは種が生み殖やすためにさまざまな番(つがい)を迎えるのではなく、おたがいに世にも無縁な事物を、ついにそれらからそれらの憩いの修辞形象(フィギュール)、唯一無二で分割しえぬ同一性という怪物が生まれるために、対にするのである。諸存在の拡散を溯ろうと努める、さかしまの創世記だ。
ミシェル・フーコー豊崎光一・訳『レーモン・ルーセル』)



11時起床。12時半より自室にて「邪道」作文。一時間で打ち切り。ぜんぜん駄目だ。完全に麻痺ってやがる。こういうときは粘っても仕方ない。麻痺を解除できるのは時間だけだ。解毒のための時間。気分転換に日記の整理を一時間ほどかけてこなしたのち、『アラン・レネジャン=リュック・ゴダール短編傑作選』のアラン・レネのパートを観る。まずは「ヴァン・ゴッホ」。画家の生涯を物語化して紹介する素朴に暴力的なナレーションと年表的に展開されていく絵画作品の組み合わせに認められる映像とテクストの行儀の良すぎる関係。絵画が映像-モンタージュの素材としてではなく絵画としてそのままに扱われているそのために白黒であることの不幸が目立って見える。これが「ゲルニカ」にいたると、巨匠の絵画であろうとなんだろうとモンタージュの素材として割りきって取りあつかう手つきが認められるようになり、ゆえに白黒であることの弱さもなく(なぜなら、ここでは絵画が絵画として提示されてはいないから)、映像とテクストの結びつきがそれぞれの出自から解放された自由さで時間を貫くことになるが、しかしこの自由は反ファシズムという明確なメッセージのもとに束ねられているがゆえに達成されたものでしかない。その明確なメッセージ-プロパガンダという平面を取っ払った先に、画家本人のテクストとその絵画作品でのみ構成された「ゴーギャン」の成立によって見出される新たな平面の出現をこちらとしては期待してしまうのだが、「ヴァン・ゴッホ」とは打って変わって画家当人のテクストを採用したのはいいもののその配置が結局のところ伝記的・物語的・通事的な構成をとってしまっていて、この点がじつに惜しい。メッセージ-プロパガンダの平面でもなければ、その生涯を前から順になぞるだけの伝記-物語-通事性の平面でもない、画家本人のテクストと画家本人の絵画作品との組み合わせによってのみ成立可能な、外挿された基盤に頼ることなく内側から成立していく新たな平面の創出がここにおいて達成されていたならば、文句なしの傑作になりえていただろうに(ひるがえってイメージを生きるゴダールの論理とは要するにこの新たな平面の創出にむかっているのではないか)。ゴダールといえば、絵画(静止画)とテクストだけでも映画が十分に成立するというこれらレネの諸作品が証明してみせた事実に影響を負うところはけっこうあるんじゃないかと思った(特に『映画史』の成立にあたって)。あと「ゲルニカ」の中に描かれている人間や動物たちの大きく開かれた口のアップばかりが執拗に映されるシークエンスがあったけれど、平倉圭ゴダール的方法』でその形象的特権性が執拗に指摘されていた強制収容所ユダヤ人のあの穴ぼこの口をちょっと連想した。ソクーロフの『エルミタージュ幻想』をぼんやり思いながら観た「世界のすべての記憶」は、すべての刊行物を収集する図書館の仕組みのいかにも神経症的な成り立ちという、当然といえば当然な性質についてふと考えるきっかけになった。この観点から「バベルの図書館」を読み直し書き直しすることもできるかもしれない。記憶の虜囚どもが君臨する宮殿としての図書館。「スチレンの詩」は目を見張るようなあざやかさでまなざしを撹乱させる冒頭がすごい。「世界のすべての記憶」にもかすかに認められたが、こちらのほうがより多く、画面が切り替わるたびごとに流れの方向も切り替わる移動撮影の連鎖が認められ、このたっぷりとしたカメラの動きと人称の不在こそレネの作家性だと感じ入る。
生鮮館に買い出し。帰宅後筋トレ&夕食。間に仮眠をはさみつつ、上記短編集のゴダールのパートも観る。「男の子の名前はみんなパトリックっていうの」。脚本はロメールらしいのだけれど出来上がりは文句なしにゴダール。それぞれ別の素性を装ってふたりの女をたてつづけにナンパしたパトリックというひとりの男の存在が、知人同士であるそれらの女ふたりによって交わされる見栄っぱりな会話の中で(「今日わたしに声をかけてきた男は……」)重ねて分裂していく(差異化されていく)過程の面白さ。パトリックという固有名だけはたしからしい彼の正体は結局最後まで明かされない(起源の欠落)。女を引っ掛けるパトリックの手口はいつも同じであるため、視聴者は二度にわたって似たようなナンパシーンを目撃することになるのだが、そこでたちあがる繰り返しの印象が本来は別人であるはずのふたりの女性を分身同士であるとする目線を成立させるにいたる。起源なき変幻自在の男パトリックの接触を媒介として分裂することなしに分身を獲得する女たち。その構図の頭上にかかげられる表題「男の子の名前はみんなパトリック」の妙。「水の話」は共同監督としてトリュフォーの名前がクレジットされている。文句なしの傑作である。饒舌なナレーションと無造作にたちかわりいれかわりするBGM。「洪水」「パリ」「自動車」などの要素が譬喩(意味)と切り結ぶその絶妙な緊張感。逸脱ないしは脱線の度合いが証する比類なきポップセンス。「シャルロットとジュール」にかんしてはやたらと若いジャン=ポール・ベルモンドが動いてしゃべってしているのを目にすることができるという物珍しさがまずある。彼とは対照的にほとんど口をきくことのないアンヌ・コレットの(どことなく相米慎二の子供たちを思わせる)説話に奉仕しない(すなわち意味に抵抗する)身振り、落ち着きのなさ、無駄な動きが、この物語の置かれた状況を説明するジャン=ポール・ベルモンド神経症的な饒舌(言葉)に対峙する実に軽々とした運動(イメージ)として最終的に優位に立つという構図を認めることもできなくはない。
続けてアラン・レネ『夜と霧』。映画としては『二十四時間の情事』のほうが優れていた。けれどもこのアウシュビッツの記録映像の悲惨さ、酷さ、惨たらしさはちょっと半端ない。ブルドーザーで片付けられる死骸の山の衝撃。病院とは名ばかりの人体実験室の祖末な寝床でふるえる痩身。たしかに立ち上がりはする諸々の感情と、それらの感情に対して同時に抱かざるをえないある種の「遠さ」。この「遠さ」は歴史(時間)の遠さによるものでもなければ地理(空間)の遠さによるものでもたぶんない。むしろこの圧倒的な事実にたいして悲しみなり怒りなりあわれみなりといった一面的でたやすい感情などをおいそれと抱くんではないという自己検閲の産物であるように思われる(この検閲もまた「表象不可能性」を語るのか?)。アウシュビッツに関連するものを観たり聞いたり読んだりするたびに、カフカの妹たちがみな強制収容所で死んだという事実を思い出す。すると絶望的な怒りのようなものが湧いてきて、冷静な目で映像を見ていることができなくなる。これはカフカの日記や伝記のたぐいを読んで以降じぶんの体がとるようになった反応である。
入浴。のち自室にて(…)のessayを読む。無菌無臭の都市にsmellを取り戻すということ。人類を含む自然のリズムと同期する素材(すなわち、朽ち、腐り、崩壊するmaterial)によるarchitectureを考えること。smellを人工的に配備する最近の取り組み(たとえば空港の待ち合いロビーの一画にパイナップルのsmellを漂わせることによって長い待ち時間を余儀なくされるひとびとの疲労を軽減させるという実際になされているらしいそれ)を評価しているあたり、自然に帰れ式の反動的退屈さにぎりぎり踏み込まずにすんでいるという印象。しかし全体的に弱い。論旨が希薄すぎる。結論が論旨の帰結として導き出されておらず、とってつけたような位置でふわふわしている。でもまあ大学の小論文なんてものはだいたいそんなものなのかもしれない。建築という明白なまでに可視的であるところのデザインにあたって、においという不可視の要素を取り入れるという発想、名詞的にとらえれている建築を動詞的にとらえなおすという考え方はすこしおもしろい。ゆえに参考文献など翻訳されていないものか、少し気になりもする。