20130326

何千年もの間、春になると若い男女が、ポプラ、もみ、かし、すずかけの木、細いしゅろなどの新緑の木々の下で踊りに興じてきたのだ。彼らはこれからさき、何千年もその顔を欲望でたぎらせながら、踊り続けるであろう。踊り手の顔は変化し、くずれて、やがては土に帰る。他の踊り手がそれに変わって現われるのだ。いや踊り手はただ一人なのだ。彼は何千という仮面をもっている。彼はいつも二十の若さだ。彼は不死なのだ。
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)

「わしゃ夢をみてました。奇妙な夢ですぜ。わしゃ近々旅に出掛けるか、何かするんじゃねえかと思いまさあ。まあ聞いて下せえ。おまえさん、きっと笑いだすだろうが。この港になあ、町ぐれえ大きな船がとまってましてな。そいつが汽笛をならしてるんでさあ。まさに出航の準備をしてるところでしょうな。そこへわしが、そいつに乗り込むってんで、村から走って行くんでさあ。わしゃ手におうむをもってましてな。船に着くと乗船しました。そこへ船長が走ってきて、『切符をみせろ!』と怒鳴りました。『一体いくらだ?』と、わしゃポケットから札束をひっぱり出しながら聞きますとな、船長は『千ドラクマだ』といいましたあ。わしゃ、『おいおい、まあ落ち着いてくれ! 八百ドラクマじゃどうだ?』といいますと、船長は『だめだ、千ドラクマだ』といいはりまさあ。そこでわしゃ、『わしゃ、たった八百ドラクマしかもってねえ。こいつ全部とってくれ!』というと、船長の奴『千ドラクマだ。それ以下じゃいけねえ! もし、おまえがそれだけもってなきゃ、船をすぐ下りるんだな!』わしゃ困ってしまってな、こういったんでさあ。『まあ、聞けよ、船長。わしゃおめえさんのことを思っていうんだが、わしの差し出す八百ドラクマは取った方がいいぜ。もし取らねえとすりゃ、わしゃ目をさますぜ。そうすりゃ、おまえ、そいつを失うことになるんだぞ!』とな」
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)



夢。日中の丸太町通らしい道筋を東にむかって歩いている。堀川通との交差点の先頭でゴーカートが一台停止している。運転席にはパジャマ姿の年老いた男性がおびえたような表情でひとり腰かけている。写真家の(…)さんが具合をたずねると、交通ルールを破った罰としてペナルティを課せられたというのだが、そのルールの恣意性といいペナルティの重さといい、どう考えても理不尽というほかないものである。ゴーカートの男性が在日朝鮮人であることが判明すると、そのせいで理不尽な法規を適用されたのだと(…)さんはたちまち憤りはじめる。じぶんもやはりまた憤りながら、そしてそれ以上にげんなりしつつ、背負っていた布団一式をゴーカートの前に敷いてならべる。それは老人にたいするささやかな支援である。もぬけのからとなった実家にいる。打ち捨てられてひさしいらしく、ひとの気配もなければ、家具もほこりをたんまりとかぶってずいぶん痛んでいる。いたるところが薄暗い。トイレで用を足していると、天井からタランチュラのような巨大蜘蛛が一匹目の前に落下する。あわてて叫び声をあげると、すかさず(…)さんがやって来て、こいつは焼いて食えるんだよ、でもそんなに美味くないんだ、と言い、それをきっかけにして、調理したてらしい巨大蜘蛛ののっかった皿を映しとった写真が脳裏で次々と展開されていく。
14時起床。腐れ大寝坊。どどどどうなっちゃってんだよ人生がんばってんだよ。首の痛みはあいかわらずひどい。ゆえに例のごとく自室でおとなしく読書。『知の論理』をひたすら読み進める。夕刻近所の王将に出かけて無料券で餃子一人前をゲット。自室で食しながらウェブ巡回し、さてひとっ風呂浴びてから喫茶店にでも出かけるかというところで(…)から“hey!”とコンタクト。必要にこたえる男になると決めたのだ。“hai!”といきなりのスペルミスで応じる。するとたちまち電話があり、ヘローという声が続く。沈鬱そうな声だった。ずいぶん落ち込んでいるようなのでこれは厄介だなぁと思いながらどうしたんだとたずねると、テストとレポートの怒濤のデッドラインに消耗しきっているとの返答。たしかに西洋の大学というのは日本と違って勉強がむちゃくちゃ大変だと聞いたことがあるが、とにかく卒業まであと一年間の我慢なのだからというと、卒業したら卒業したで職を探さなければならない、まわりのひとたちの話を聞いているとずいぶんと激しい競争になっている、わたしは働くためだけに働きたくはない、資本主義から遠く離れたところに移り住みたいと、完全に泣き言モードになっている。声は不安定だし、ときどき鼻をすする音も聞こえる。泣いているの?とたずねると、ノー!とあって、実際はどうだか知れない。むこうがカメラのスイッチを切っているので顔が見えないのだ。そして顔が見えないとそれだけで英語は遠のく。二時間にわたる通話だったが、半分以上は何をいっているのかよくわからなかった。パーイのカフェで閉店後もなおテラス席に居座り延々と語り合ったあの数時間×数日間が夢みたいだ。表情という指標がないだけで相手の意図がうまく理解できなくなる。表情さえ与えられていれば、たとえばそこで語られている対象にたいして彼女が肯定的な態度を抱いているのか否定的な判断を下しているのか、そういう大枠を獲得することができるしその大枠に沿ってリスニングに挑めばいいのだから、謎解きは一気にたやすくなる。だが声だけとなるとこれはむずかしい。源氏物語を原文で読んでいるような気分だ。語られている対象についてはなんとなく理解できるのだが、その対象にたいする話者の判断を汲み取るところまではなかなかいかない。あなたはわたしのことをhyper-activeというけれどロンドンでのわたしは全然activeじゃないわ、いつも落ち込んでいる、毎晩泣いているんだから。本当に?本当よ、あなたは信じないかもしれないけど。ロンドンの生活は好きじゃないの?ええ、たぶん。だったら大学を卒業したらさっさとその街を出ればいい。わたしはアジアに住みたい、ヨーロッパ人はみんなaroganceだわ。だけどアジア人の中にだってaroganceなひとはたくさんいるよ。ええ、そうね、そのとおり、わかってるわ、でもみんなわたしのことをweirdだというの、quirkyだっていうのよ。そんなやつらのいうことなんか無視しろよ、放っておけばいい。以前はそうすることができたのよ、ひとのいうことなんて気にしなかったのに、あなたはじぶんがどこにもfitしないっていってたけどいまならよく理解できるわ。メーホーソーンで出会った女性のことを覚えてるかい?彼女はきみにタイで英語教師になるように薦めていただろう。ええ、覚えてるわ。おれには日本語教師になれといった。ふふふ、そうね、たしかにいった。きみは英語が操れるんだしアジアのどこかで英語教師になればいい。そうしてあなたは日本語教師になるの?おれは教師っていうガラじゃないよ、わかるだろう?たしかにね。おれはfunnyだから。でも教師だからこそfunnyであるべきよ。おれもときどき外国に移住することを考えるよ、PC一台あれば世界中どこでだって小説なんて書けるんだから。本当にそうね、それがいいと思うわ。そういえばきみのessayを読んだよ、architectureをnonvisualな観点からとらえるのは面白いと思った。でもあれは駄目なレポートだわ、最悪な出来よ。どうして?時間がなくて一気に書いたから、それに参考文献も全然読むことができなかった、単位だって落とすかもしれない、土曜日にあったプレゼンテーションもさんざんだったわ、そのせいでやらなきゃいけない課題がたくさんあるの。タイでもプレゼンテーションが苦手だっていっていたね。図書館をデザインするという課題もあるの、図面のデータを送るわ、まだ未完成だけど。これどうやって作ったの? フォトショップよ。deadlineはいつ? 五月だからまだ少し先ね。完成したらまたデータを送ってくれる?ええ。ひどい声だ、心配になるよ。そう?ずいぶんと落ち込んでいるように聞こえる、えらくよわよわしい。わたしはいまとんでもなくけだるいの、それもこれもこの世界があまりにもsadだからよ、わたしようやくわかったの、ずっと子供が欲しくないって思っていた理由、わたしはわたし以外のひとにこれ以上苦しんでほしくないの、わたしはわたしのせいで両親がどれだけ苦しみ悩んできたのか知っている、わたし自身もたくさん苦しみ悩んできた、でも両親はそれ以上に悩み苦しんできたのよ、これってつまりa circle of livingよ、もしわたしがここで続けるのをやめればこの呪われた輪も止まるわ。きみが子供を作らないのは別にかまわないけれどもしそれが良心の呵責や罪悪感に由来するものだったらどうかと思うよ。罪悪感じゃないわ。輪廻転生って知ってるだろ?ええ。仏教の教えでは瞑想と悟りによって悪しき輪廻転生から解脱することが可能だということになっているんだけれど、ところで、虐待を受けた子供は大人になってからじぶんの子供を虐待するっていう話聞いたことある?あるわ。アダルトチルドレンってやつ。ええ。このアダルトチルドレンってやつも考えようによっては一種の悪しき輪廻転生だといえる、そしてそれが悪しき輪廻転生だというのならそこから解脱するための瞑想と悟りもきっとあるはずだ、もちろんこれは譬喩なわけだけれど。あなたのいおうとしてることよくわかるわ、ああ、わたしtruthが知りたい。たったひとつの? one and onlyなtruthよ。ニーチェは真実などない、あるのは事実とその解釈だけだといってるよ。知ってるわ、あなたって本当にニーチェが好きなのね。彼にinspireされているから。わたしも何度かニーチェは読んだわ、でも駄目、わたしは悲しくなってしまう。悲しくなるの?ニーチェを読むと?ええ、わたしもう疲れてるの、なにもかもにうんざりしてるわ、わたしにとっていちばん好ましい時間といえばベッドで眠るとき、それも眠れそうなときだけね、朝だって起きたくない、ベッドで永遠に横たわっていたい、それもわたしをなにひとつ幸せな気分にしてくれないことばかりが山積みになっているからよ、だれもわたしにそれをしろっていってくれないからわたしは自分で自分を鞭打たなきゃいけない、ぜんぶうんざりよ、友人だっていないんだから。じゃあなおさらきみはその街を出るべきだよ、大学を卒業したら。あなたはわたしの知ってる日本人とぜんぜん違うのね、学校にいる日本人と似ても似つかないわ。どこが?あなたはひとがあなたにやれっていうことをしないじゃない、big passionをたずさえてひたすらじぶんの道を往くだけ、昼も夜も書いて書いて書いて、あなたがなにをいおうとそれはpassionよ、だってだれもあなたにそうしろなんて強制しないことをあなたはがむしゃらにやってるじゃない、信じられない熱意で。おれはそんなにperfectな人間じゃないよ、買いかぶりすぎだ。たぶんわたしはぜんぶ知っているわけじゃないんでしょうね、あなたのいいところばかり目にしている。そしていつかはきみもおれの悪いところを知ることになる。きっとそうね。そのとききみは十中八九おれのことを大嫌いになるよ。大嫌い?うん。大袈裟ね。不安なんだよ。ちょっと待って、ハウスメイトが呼んでるわ……たばこを吸いにいこうだって。行ってきなよ、おれはおれでいまからシャワーでも浴びてそれからカフェで執筆することにするから。わたし帰国してからまたたばこを吸いはじめてしまったの、本当に駄目だわ。たばこくらい吸ったってかまやしないじゃないか。でもわたしの母親はたばこなんてぜったいに駄目っていうわ。そんなの無視すればいい。あなたにちょっとジェラシーを感じるわ。どうして?あなたはあなたのやりたいことだけやって生きている。そのかわりボロボロの安アパートに住んでいる、飯だってまともに食えないし他人の反感も大いに買う、もちろん金だってない、ただ時間だけはあるけど。タイムイズマネー。タイムはマネー以上のものだよ。たしかにそうね。今日はholidayなんだろ? ええ。何の日? 何の日って? つまり、その、どういう祝日なんだ? イースターよ。イースター! 本でしか読んだことがない文化だ! どこかに出かけたりはしないの? 友達と外食にいったりとか? いかないわ、課題がたくさんあるもの。ああ、そうだったね、でも疲れたときには気分転換になにか甘いものを食べるのがいちばんだよ、おれたちパーイで毎日のようにケーキばかり食っていたじゃないか。でもわたし今日はもうケーキを食べてしまってるの、それもたくさん。ワーオ。あなたはカフェへ行くのね? うん。そこでケーキを食べるの? いや、オーダーするのは珈琲いっぱいだけだよ、それで……。それで一日中居座るのね? 一日中じゃないよ、だいたい四五時間かな、席数もそれほど多くないから混んでる時間はなるべく避けたいんだけれど。そのカフェはなんて名前なの?(…)だよ。車の音が聞こえるわ。近所を走ってるんだ、今日はきみの部屋から飛行機の音が聞こえてこないね。ええ、今日はとてもしずかよ。たばこを吸いにいくんだろ? ええ。それじゃあ。うん、それじゃあ。バーイ。バーイ。…。…。きみが切れよ。どうして? おれはイギリス人だから、レディファーストってやつだよ。あなたジェントルマンだったの? ジェントルマンだしナイトだよ、さあはやく切れ、やれ、おれはただ待ってるから。あなたって本当にfunnyね。気の利いたことがいえないからくだらないジョークばかりいってんのさ。わたしあなたのジョーク好きよ。それはどうも、さあ早く切るんだ。オーケイ、でもそれだったら次回はあなたが切るのよ。次回もきみが切るんだよ、おれは次回もジェントルマンだ、その次も、その次の次も。あなたって本当にもう! きみから学んだんだよ、タイで、レディファーストってやつを。わたしそんなの教えた覚えないわ! 馬鹿でかくてヘヴィーな荷物を持たされた。それはあなたが持ってあげるっていうからじゃない。さあはやく切れ! do it!! do it!! do it!! オーケイ、もうこれでおしまい、それじゃあね。それじゃあまた。それじゃあまた。うん、近々。近々ね。じゃあ。バーイ。バイ。
スカイプを終えてからシャワーを浴びて(…)へ。閉店時間30分前の23時半より「邪道」作文。ようやくギアがのってきたというところで1時30分、もうそろそろおいとましなければまずい時間なのでなくなく店を去る。結果、枚数変わらず462枚。二時間ではさすがに短すぎるらしい。「偶景」ならまだしも「邪道」を書くときは最低でも三時間は確保したい。(…)さんからまたもやパンの耳をいただいた。それも大量に。(…)ちゃんなかなか来ないから冷蔵庫の中にいっぱいになっていたんだよとのこと。ありがたい話だ。
今日の(…)との対話からというよりはむしろ昨夜弟のことを考えていたときにふと思ったことなのだけれど、だいじなひとにみじめな気持ちになってほしくないという願望がじぶんにはあるらしいことに気がついた。みじめさというのは不思議な感情(?)で、じぶんがそれに晒されたり見舞われたりしている分にはまだどうにか耐えられるのだけれど、親しくしているひとがそれに晒されたり見舞われたりしているのを見るとそれだけでもう耐えがたく、いてもたってもいられないような、見ちゃいられないような、そんなしんどさ、狂ったような痛ましさに苛まれてしまい、滅多に出ない涙さえあふれそうになるものだ。じぶんはたぶんだれにもみじめな気持ちになどなってほしくないのだと思う。本当に。心の底から。幸福の定義というか条件のひとつみたいなものとして、みじめさとの訣別というやつがあるのかもしれないと思った。