20130329

 大詩人の体内に昔ながらの赤い血が流れ、一点の曇りもない気品がそなわっていることは、彼らの自在さによって証明されるだろう。雄々しい精神の持主なら、たとい慣習や先例や権威であっても、もし自分の心にそぐわないときには、ゆったりそこを通りぬけてしまうものだ。第一級の作家、学者、音楽家、発明家、芸術家たちにそなわる特性のなかで、何にもましてすばらしいのは、新しく自由な形式に由来する無言の気概だ。詩、哲学、政治、機械、科学、行為、美術工芸、適切な土着のグランドオペラ、造船技術、あるいはその他の技術が必要とされているときにあたって、独創的で十歳的な最大の規範を示してくれる人物こそ、永遠不滅に偉大なのだ。完全無欠な表現とは、それ自身にふさわしい世界が見つからぬままに、自ら独自の世界を創ってしまう表現のことだ。
ウォルト・ホイットマン/酒本雅之・訳『草の葉(上)』より「初版(1855年)の序文」)

 偉大な詩が男や女の一人びとりに伝えようとする思いはこうだ、どうかぼくらを何のひけ目も感じずに読んでほしい、平等の足場が崩れぬかぎり、君はぼくらを理解できる。ぼくらだとて君よりまさっているわけではない。ぼくらのなかにあるものは君のなかにもあるのだし、ぼくらが楽しいと感じるものは、君だって楽しいはずだ。ところで君は、宇宙には「至高者」が一体しかいないと思っていたのか。ぼくらに言わせれば「至高者」は無数にいて、しかも、ちょうど無数の視力がお互いに相殺しあうことがないように、この「至高者」たちも、それぞれに至高のままであることができ――人間が善良な、あるいは壮大な存在となることができるのは、ひとえに自分の内部に至高者を意識するためなのだ。万物を砕きつつ吹き荒れる嵐、死闘とその残骸、暴風雨のこのうえなく激しい狂気、海の力強さ、自然の動き、欲望に悶える人間の苦悩、そして威厳と愛と憎しみ――これらのものの壮大さとはいったい何だろうか。それこそ魂に内在する何ものかであって、それがこんなふうに語りかけてくる、猛りつづけよ狂いつづけよ、わたしのいくところ、いたるところでわたしが主人――空が激しく打ち震え海が砕け散るときも、それはほかならぬわたしの業。自然と情熱と死と、そしてあらゆる恐怖とあらゆる苦痛の、わたしは主人。
ウォルト・ホイットマン/酒本雅之・訳『草の葉(上)』より「初版(1855年)の序文」)



夜桜見に行きたい。
11時起床。朦朧としながら散らかった部屋を片付ける。頭をしゃきっとさせるべく昼日中から入浴。そして洗濯。今日も花粉がよく飛んでいる。ウェブ巡回したのち軽く読書。夕刻図書館へ。途中で郵便局に立ち寄り原稿を投函する。「A」四度目の離陸。きのう一昨日の二日間にわたる読み直し作業によって改めて傑作の感を得たので気分が良い。なんど一次落ちを食らおうが知ったこっちゃあない。こと制作物にかぎってはおのれの手応え以外の基準値は採用しない性格であるらしいことを三度の落選を重ねてなお揺るがぬ自信妄信ゆえに思い知ったのだ。書きあげるだけ書きあげておいてどこにも応募せず公開もせずだれに目にも触れさせぬまま原稿データを削除していた日々と同じだ。じぶんが傑作と判断したら傑作であり、駄作であると判断したら駄作なのだ。この領域においてだけはなんとしてもじぶんが司法権を握ってみせる。握りつづけてみせる。図書館でRankin TaxiとNona Reevesを借り、来週の火曜日に控えた兄の結婚式にそなえて銀行で五万円おろし、コンビニでネット料金を支払い、帰宅してまもなくやや早めの夕食をとった。食後に仮眠をとりかけたが、ここで眠ってしまうと朝方5時ごろまではおそらく寝つけないだろうし、二時間未満の睡眠ではさすがに仕事がきついだろうと思ったので布団をはねのけ、電気を点し、閉館間際の図書館にふたたびすべりこみ、数時間前に借りたばかりの視聴覚資料を双方ともに返却し、いれかわりに大島渚ニコラス・レイを借りるにいたったのは視聴覚資料は同時に二点までしか貸し出しできないという規則があり、かつ、大島渚のほうの取り置き期限がたしか今日までだったからなのだが、かといって映画を観る気分にもなれない、自室で本を読むにはきのう一昨日の長時間作業に由来する頸椎のダメージが尾を引きすぎているというのもあって、結局、(…)に行った。自室のデスクでなければまだ誤摩化しのきく程度のダメージである。めずらしいくらいにゆったりとした気持ちでおだやかに読書。『知の論理』と山上たつひこ『光る風』上下巻をまとめて読みおえて23時、またもやパンの耳をいただいて帰宅。『光る風』の冒頭には《過去、現在、未来――/この言葉はおもしろい/どのように並べかえても/その意味合いは/少しもかわることがないのだ》という作者本人のものと思われるエピグラフが掲げられていた。
昼間に母親から電話があり、火曜日にある兄の結婚式にそなえて月曜日に帰省し、そのまま数日実家に滞在して、花見を兼ねて京都に行きたいという両親の車に同乗するというか送迎してもらうというかたちで木曜日に京都に帰ってくる予定でいちおういるのだけれど、京都にもどるのは木曜日でなく金曜日でもいいんではないかという話で、しかしそれだと戻ってきた翌日に仕事にいかなければならずスケジュールが窮屈になってしまってよくないと、そういう無理な建前で断ったのだけれど、じっさいのところは実家に長居したところでまともに作業などできないからというアレで、タイから帰国して一ヶ月間まるまる実家に滞在したときは、一ヶ月分の鬱憤を晴らすかのようにして読み書きしたものだったが、それでもやはり共同生活にノイズはつきものというもので、京都にもどってひとりになってみると、やはり段違いに作業の効率が上昇するようなところがあったから、だれのリズムにも同期せずにすむというのはやはりすばらしいことだ。自らが自らのメトロノームであることの至上の歓び。
その桜がずいぶんと咲き出しはじめているというか、日当りのよいところではすでに満開であるらしいことを今日はじめて知った。来週の木曜日なら時すでに遅しとなりかねない。その場合はゴッホ展でもかまわないと母は言ったが、開催三日目とかまず間違いなく混むだろうし、それにそもそも美術館ってやつにはなるべくひとりで行きたいものだ。ひとを待たせているという意識があると作品にじっくり向き合うことができない。それもノイズだ。ティツィアーノの描くキリストやセザンヌ静物画に圧倒されながら最後の最後でマティスの「赤い部屋」にぶちあたり後頭部を電柱でぶん殴られたような衝撃を受けてやばいやばいこれマジでやばいと独り言を漏らしつづけたのは去年の秋のことである。絵画の戦場がどこにあるのか、はっきり認識した瞬間だった。ずっとずっと眺めていた。