20130502

11時半起床。洗濯機をまわしクソ長いブログを書く。13時半より瞬間的に英作文しつづけて21時前。途中でちょっと寄り道しすぎた。生鮮館はすでに閉店時間なのでフレスコに買い物に出かける。手袋が欲しくなるくらいの寒さ。指先が白く凍てついて痛い。財布のなかに二千円しか入っていないので不安になる。一万円を切ると二万円を補充するやたらとリッチなシステムを採用しているので手持ちが五千円を切るとちょっとそわそわする。カード使えばいいのにと時々ひとにいわれるのだけれど、なんとなく持ち歩くのに抵抗があって、ネット通販以外で使ったことがない。アユタヤーで手持ちの現金が尽きたときにいちどATMを相手に使ったことがあったか。関西空港に到着してからも帰りの電車賃を捻出するのに使ったはずだ。でも通常の買い物の場面でカードを切った覚えはまったくといっていいほどない。何回払いがどうのこうのとかいまだに口にしたことがない。口にしようとしたら照れるかもしれない。それくらい縁遠いフレーズだ。
帰宅後、筋肉を酷使し、夕餉をかっ喰らい、熱い湯を浴びる。風呂場の前で脱衣していると、大家さんの部屋の電気が点けっぱなしになっていてカーテンも全開で、ひょっとしてこんな時間に起きているのだろうか、ときどき夜中など便所に立っていることもあるみたいであるし、などと考えながらなかをのぞきこんでみると、当の大家さんはベッドの上でいつものように眠っていた。その部屋の奥に続いてのぞむことのできる居間にまで視線をのばすと、ちょうどこちらに後頭部をむけるかたちで眠りこんでいる布団の中の男性の姿があって、見覚えのあるその姿が大家さんの息子さんであることにはすぐに気づいたのだけれど、そうか、法事か、法事があったからそのまま泊まっていくことにしたのか、と思った。
風呂からあがってストレッチをしているときだったか、あるいは飯を食い終えてから風呂に入る支度を整えているときだったか、それとも使用済みの食器を洗うために盆の上にまとめているときだったか、いずれにせよ自室でなにやらどうでもよい生活の所作に身をついやしているその瞬間に、こうした日常の一コマを遠く思い返してみる視線のようなものが感ぜられて、というか自分自身がいまこの瞬間、将来のじぶんに思い返されている記憶のなかの存在でしかないというか、リアルタイムのこの出来事の逐一がなぜかすでにもう懐かしい、みたいな、奇妙な感覚にとらえられた。地球は宇宙人の虫かご説とかビッグバンは巨人の鼓動説だとか、そういう諸々が頭をよぎるのだけれど、でも何かが決定的に異なるこの感じ。もうすでに懐かしい。つねにすでに懐かしい。初対面なのに、こんなにも。と、ここまで書いたところで、『ぼくの地球を守って』に「わたしたち未来に還っていくんだわ」みたいなセリフがあったことを思い出した。
関係の数だけ顔が増えていくという原理を前提として(じぶん探しの旅という紋切り型は「本当のじぶんの探究」ではなく「あたらしいじぶんの獲得」として読解すると正当性をおびる)、さて、いまこうやって対面しているあなたとわたしの関係と、あした別々の場所でたとえば電話しているあなたとわたしの関係は別物で、となるとごくごく素朴に同じものである(とされている)あなたとわたしの関係も、決してあなたをあなたとして束ねるのが無理であるように、わたしをわたしとして束ねるのが無理であるように、ひとつの関係として束ねるのは無理であり、たとえあなたとわたしだけしかいない無菌世界であっても、あなたもわたしも無数に無限にあらたな顔を獲得していくことになる。そしてもちろんこの世界は無菌ではない。時があり、記憶があり、歴史があり、文化があり、環境があり、文脈があり、教義があり、あなたとわたし以外の無数の存在があり、風は吹き、水は流れ、大地は腐り、炎はかたちを変え、それら刻一刻と更新されていく包括的なこの世界そのものの微細で巨大な流動性の影響を受けないわけにはいかぬものとして、やはりまたあなたがいて、わたしもいる。あなたの中にはあなたをとりまくすべての環境とあなたにいたるあらゆる因果律が内包されており、わたしの中にはわたしをとりまくすべての環境とわたしにいたるあらゆる因果律が内包されており、ゆえに「あなた」といま呼びかけたあなたとは呼びかけた瞬間の世界そのものの横顔であり、「わたし」といま呼びかけたわたしもまた呼びかけた瞬間の世界そのものの横顔である。いまや関係の数だけ顔があるのではない。任意の瞬間の数だけ顔があることになる。すべて世界の横顔。すべて。ひとしく。
たとえば、こういう話を英語でするのはむずかしいだろうなと思った。譬喩でも使わなければやってられない。けれど譬喩には精度の粗さという致命的な弱点がある。譬喩とは換言であるのだから。そして換言には(原理として!)誤差がつきものなのだから。むろん、その誤差を増殖させて収拾をつかなくさせていくところにテクストの快楽がある。それもまた疑いない。バルトならきっとそう言うだろう。
2時過ぎまで「偶景」作文。この日のブログに書き記したできたてほやほやの記述を変形して採用するつもりが途中で眠気に負けた。ブログからの流用が最近おおい。日常の観察眼がおとろえているほかならぬ証左であるかのように思われてすこしおそろしくなる、というこの記述も使えそうな気がする。また流用だ。
抜き書きのストックがなくなってしまったので筆写しなければと前々から考えていたはずなのにすっかり忘れていた。この三連勤が終わったらいちどたっぷり時間をもちいて残りを片付けてしまおう。7冊分もたまっているのだ。
酩酊した晩のものだと思うのだけれど、携帯電話のメモ帳に「再生回数の少ない動画のように」というフレーズが書き残されていて、なんだろう使えそうで使えないこの感じ。