20130509

 何よりもまず警戒しなければならないのは, こうした「他なる女性」あるいは「非 - 場」としての女性を, フェティッシュ化してしまうことの危険性である. 「男/女」という階層秩序的二項対立にとってのこの非 - 対称的外部は, あくまでも運動として, あるいは出来事として生起するのであり, それをイメージ化し実体的に固定することは完全な錯誤である. この「脱構築」されたセクシュアリティは存在しない. それはつねにパフォーマティヴ(遂行的)に実現されるべきもの, その出現を引き起こされるべきものなのである.
 そこからただちに言えるのは, 「脱構築」によるこのセクシュアリティの解放は, むろん「女性」だけのものではなく, 「男性」だけのものでもないということだ. すでに見た「脱構築」の手続きにしたがって, なるほど第1の「逆転の局面」, すなわち, 「女性的なるもの」をファルスの欠如という規定性から解放しそれ自体において肯定するという局面が徹底される必要があるだろう. それは今日なお不可欠なプロセスではある. しかし, この非 - 対称的外部という出来事を現実の性の場面で生きるためには, それだけでは充分ではない. そのためには, 人はその身体において肯定/否定という論理そのものから離れなければなるまい. つまり必要なのは, それが異性愛であれ同性愛であれ, 混在する複数の性愛であれ, みずからを他者との関係においてそのつど性化しつつ, 他者をみずからの否定相としない(つまりは他者の性を措定せず規定しない)こと, そしてそのことを通して, 揺れ動く差異の切断面を生み出し続けることなのである. 性的差異とは, つねに一般性なき特異性の経験なのだ.
守中高明脱構築』)



14時過ぎ起床。体調がよろしくなくしかも胃に負担がかかっているということは食事をきちんととれない、栄養をたっぷり摂取できない、すなわちだらだらと長引きそうなパターンであるような気がしたのでとにかくたくさん眠ることに決めて目覚ましをセットしなかったらこの時間の起床となった。歯磨きするために外に出るともわっとした熱気とまぶしい日射しで、日中の最高気温が30度に達するという予報は本当だったのだなと思った。朝食に阿闍梨餅を食べたら胃のあたりが重くたれさがるような感触があったので胃薬をのんだ。胃薬と風邪薬は服用しても問題ないという話をどこかで聞いた覚えがあるが、真偽が知れないのでひとまず風邪薬は控えておいた。鼻を噛むと見事な青っ洟が次々と出て、ということはやはりこれ花粉症ではないな、風邪気味なのだなと思った。喉も痛いし、今日はたっぷり一日かけて休息と割り切ろうと思い、布団に横になってFFXの動画の続きをだらだらと観た。
うつらうつらとしはじめたのが何時ごろだったのかいまひとつはっきりとしないのだけれど、たぶん18時かそこらで、それで次に目が覚めると23時前だった。妙な時間にたっぷり眠ってしまったせいで生活リズムが乱れて苦労するという現実的な懸念をそのまま夢に観た気がするが、細部は覚えていない。ずいぶん頭がクリアになっているような感じがあったので試しに納豆を食べてみると問題なく、続けてTにもらった冷凍食品のチャーハンを食べてみてそれでも問題なかったものだから加えてヨーグルトも食べて、それで胃薬ではなく風邪薬を服用した。のどは相変わらず痛むが、それでも昨日にくらべるとずっとマシになっている。
一連の動画をすべて視聴しおえるころには2時をまわっていた。身体が弱るといつも物語を欲してしまう気がする。ホスピスの患者が現実的な死を間近にひかえて宗教に走るのと似たようなものかもしれない。あるいは単純に、弱った身体では物語の安易さに対抗する複雑な形式を備えた作品を楽しむだけの体力やゆとりがないというだけのことなのかもしれないけれど。さらにはこう考えることもできるかもしれない。つまり、ただじっとして布団に横になっているということができないという時点で、たとえ見かけ上はどれだけ複雑なものであろうと結局じぶんは物語の慰めを欲しているのだと。無為の平板さと退屈の単純さに身を置くことこそが、物語にたいする革命的な位置取りの最たるものである。
病み上がりの入浴が好きだ。病み上がりの入浴は回復にむけた積極的な一歩という感じがする。凝り固まった関節をほぐし、パンの耳を食べ、薬を服用する。それから畳の上に直置きしていたラップトップをふたたびデスクの上に置きなおし、6時過ぎまで「偶景」をいじくりまわす。そうこうするうちに眠気を催してきたので、この期に及んでまだ寝るかと呆れながら布団に横たわった。硝子戸越しに差す光の青白さ。まもなく眠りに落ちた。