20130510

(…)翻訳という行為は, たしかにいっけんすでに存在する二つの言語体系のあいだで双方を俯瞰しつつ行なわれる操作であるかにも見える. しかし, それは観念論的な錯覚なのだ. そうではなく, 実際には翻訳の実践こそが二つの言語体系を分節化するのであり, 自然言語の経験において, 翻訳以前に諸言語を俯瞰できるような場所は存在しない. つまり, 翻訳が可能なのは, さまざまに異なる諸言語がすでにあるからだと見なされもするが, 注意して考えればすぐに分かるように, 諸言語のあいだの差異にせよ類似にせよ, それらそれ「自体」として取り出すことなどできはせず, それらはただ翻訳という出来事が起こった後で, それとして認識されるだけなのである. まさしくその実において, 翻訳とは, 現在における充実なき, 自己同一性なき非 - 現前的なる出来事, 「通常の現前性の様態では何も現前化されないような」出来事なのである.
 諸言語間の「同一化の関係でも, 類似の関係でも, 混濁の関係でもな」く, 「二つの言語のあいだの差異を息づき生きるがままにさせ, そうすることによってその二つの言語のあいだに何かが起こるようにすること」(デリダ)――それこそがベンヤミンの言う「翻訳者の使命」である. そして, その起こるべき「何か」とは, すでに見たところから明らかなように, 意味の伝達に還元されるものではない. そうではなく, ベンヤミン - デリダ的翻訳は「何かを伝達するという意図を, また意味を, 極端なまでに度外視」しつつ, 「純粋言語の種子を成熟させる」ことを通して, 同一性の再構築という通念を, したがって言語体系に関する観念論 - 実体論を「脱構築」するのである.
守中高明脱構築』)



12時半過ぎ起床。(…)さんからの電話で目が覚めた。12時に目覚ましをセットしてあったのでいちど目覚めはしたのだけれどまだまだ頭が重かったしそれに今日は金曜日なので仮眠をとらない日であるから多少は寝坊してもかまうまいというアレもあって12時半にセットしなおして二度寝することにし、で、その二度目のベルに目が覚めてしばらく布団の中で三度寝しようかどうかと自身の体調を観察しながら決めかねているところの電話だったので、これで決心がついた。起床した。体がずっと軽くなっていた。喉の痛みもずいぶん引いている。朝食はパンの耳とココア。いつも通り、されど問題なし。念押しの風邪薬を服用。今日いちにちで完治させる。
14時より瞬間的に英作文し続けて19時半終了。小雨のなか買い出しに出かける。海鮮巻きが半額になっていたので買った。部屋に戻るとまた玄関の引き戸が開かない。これでたぶん三度目だ。いい加減イライラする。引き戸の下部をもちあげて軌道から脱線させてしまえば簡単に中に入ることはできるのだが(つまりこの引き戸の施錠は実質無意味である)、いちど脱線したものをしかるべき位置にすえつけるのはなまやさしいことではない。うまく戻ったと思っても戸のすべりがやたらと悪かったり、鍵のあのフックの部分が差し込み口にうまくはまりこまなかったりする。10分近くにわたる苦闘の果てにようやくしかるべき位置に戸が落ち着く。身体がすっかり冷えてしまった。これでまた体調が悪くなってしまったらと考えるとこれほど馬鹿馬鹿しいこともなかなかない。週に二日使いものにならない日があることを考慮していなかったために英語の勉強が予定よりも遅れ気味であるという現状と、それ以上にはかどっていない小説(とくに「邪道」)の現状が、きのう一日を無為に寝て過ごした事実と重なりあって、ひさしくない不健康な焦慮を生み出しじつに圧迫的である。
軽めの夕食をとって湯浴み。のち「偶景」作文。いくつか追加して計183枚。1時半である。喉の痛みはずっとひいたが、かわりに咳が出始めた。邪魔くさい。明日から二連勤。考えるだけで猛烈にイライラしてくる。「A」がいつになっても金に化けないせいでどんどん無駄な時間がかさむ。仮に70まで生きれるとしてもあと42年しかない。小説を読み書きしはじめたのが20歳であるから現在までにおよそ8年が経過しているとして、すると42年というのは小説と取っ組み合いをはじめてからいまにいたるまでの年月をおよそあと5回分くりかえしたらそれで尽きてしまうだけのものでしかない。こうやって具体的に計算してみると愕然とする。あまりにも、あまりにも短い。考えれば考えるほど腹がたってくる。なんでいずれ死ななければならんのだ。クソいまいましい。死を殺してやりたい。その不吉なのど笛をかっ切ってやりたい。いま、隣人が咳をした。風邪が流行っているのかもしれない。