20130530

 「いってらっしゃい、スタンリー」とベリルは優しく快活に叫んだ。いってらっしゃい、なんて言うぐらいたやすいことだ! そして、そこに彼女は突っ立っている、呑気そうに、片手をかざして日を除けながら。なんともいまいましいことながら、体裁上、スタンリーも、いってくるよ、とどならなきゃならなかった。やがてベリルが身をひるがえして、ぴょんと跳ね、家にかけ戻って行くのが、スタンリーの目に映った。ぼくを厄介払いして喜んでいるんだな!
 そうだ、彼女はうれしかったのだ。茶の間にかけこんで、「行ってしまったわ!」と叫んだ。リンダは自分の部屋から叫んだ。「ベリル! スタンリーは行ってしまったの?」フェアフィールド老夫人は小さなフランネルのベビー服にくるまった坊やを抱いて出てきた。
 「行ってしまったの?」
 「行ってしまったわ!」
 ああ、そのほっとした気持、男を外へ出してしまったあとの、なんともいえぬ気分。お互いに呼び合うときの声まで変っていた。そのひびきは温かく、優しく、お互いに秘密でも分けあっているかのようだった。ベリルは食卓の方へ行った。「お茶はもう一杯いかが、お母さま。まだ熱いわ」彼女は、何かしら、自分たちの好きなことができるのだということを祝いたいような気がした。自分たちの心を乱す男はいないのだ、すばらしい一日がそっくり自分たちのものなのだ。
 「もうたくさんだよ、お前」とフェアフィールド夫人はいったが、そのとたんに坊やをひょいと差し上げて「あひるちゃん、あひるちゃん、ガア!」とあやした。その仕ぐさは彼女も同感であることを物語っていた。小さい女の子たちは小屋から放たれたひよこのように草っ原へかけ出していった。
 台所で洗いものをしている女中のアリスまでもがこの気分に感染して、貴重なタンクの水を少しも遠慮せずにどんどん使った。
 「ほんとに、男たちったら!」彼女はそういってティーポットを洗い桶の中にボチャンと沈ませ、ブクブクするのがやんでもまだ水の中に抑えつけていた、まるでそのティーポットが男で、おぼれ死ぬぐらいではいかにもものたりないとでもいうように。
(キャサリンマンスフィールド/崎山正毅・伊沢龍雄・訳「入り海」)



13時起床。腐れ大寝坊。11時半にいちどめざましで目覚めたにもかかわらず眠気に負けて死んだ。14時半より20時半まで発音練習&瞬間英作文。「〜しているつもり」って英語でなんていうんだろう、I think I do〜 みたいなアレでいいのかなぁとググってみたところ、なんかこう、とんでもなくなまなましいページがヒットしてしまった(→http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463198394)。
きのうに引き続き気分のクサクサするようなところがあったので昼過ぎ(…)にメールを送信し、先週の日曜日と今週の日曜日、という表現は正しくないか、日曜日が週頭であるとするとむしろ今週の日曜日と来週の日曜日ということになるのか、いずれにせよ二週連続で日曜恒例のお食事会が潰れてしまうのでそのかわりに今夜あたりちょっくら出歩こうかと誘い、了承され、それで20時半バイトあがりの(…)が部屋にやってきたので、近所にできたばかりのつけ麺屋に出かけた。まずくはなかったが、別にもういちど行きたいとは思わなかったというか、いぜん河原町のほうで食べたつけ麺屋のそれとほとんど変わらない味で、卵麺と魚介類系統のスープのあわせわざとなればまあこのあたりが安全な落としどころであるよねと、そういうアレで、ふりかえってみるに、本当に独創的な味覚の地平をきりひらいていると思われた一品ってけっきょく懐かしきなごみ家のラーメンくらいだったんでないか、そんなふうに思う。外食といえばファミレスだの回転寿司だのばかり、いぜん住んでいたアパートでもいま通っている職場でも隙あらば残飯を食ってる人間がいっちょうまえに語るアレではないかもしれないが。
つけ麺だけじゃあまだ食いたりないと(…)がいうので歩いてそのままくら寿司に行った。ウニとパフェを食った。それから逃現郷でコーヒーを飲みながら1時過ぎまでだらだらとしゃべった。ここ一ヶ月半ほど英語の勉強ばかりしていて本も読んでいないし映画も観ていないし音楽もまともに聴いていないのだけれどそのことがまったくもってストレスでないという話をした。なんだったら執筆時間の減少さえさほど苦になっていないと、それらの時間を確保するためにも一刻も早くバイトを辞めて貯金が尽きるまで無職ライフを謳歌するのだと上司に直訴していた1月中旬のじぶんにたいする華麗に見事な裏切りというか、要するに、じぶんは小説がどうのとか英語がどうのではなくてそのときどきのじぶんのやりたいことというか願望というか欲望というかとどのつまりは気分の行く先にのみ興味があるのであってそれ以外はどうでもいいのだと、それ以外のものには従う気はないしそれ以外のなにものも参照点とすることはないしそれ以外のいっさいに重きを置けないのだと、これは英語がうんぬんかんぬん言い出す以前より自覚していたことであるし何度かここに書きつけたことでもあるのだが、そうした自己分析がようやく絶好の実例によって裏打ちされたといった感がある。似たようなことを口にするひとはたくさん目にしてきたが、そうした彼らの口ぶりというのはたいてい一種の修辞でしかなく、それがだんだんとわかってきた今だからこそ、中途半端な共感などよこされると逆に構えてしまうというか、もういいよ、おまえの修辞とおれの実存を一緒くたにすんなよとしらけきってしまうところがあって、これはたぶんあんまり良い傾向ではないんだろうけど、で、どういう話の流れであったのだったか忘れてしまったけれど、あんたひとに共感することもされることもないんやろなと(…)に面とむかっていわれた。(…)はかつて、たぶんもうかれこれ6、7年前になると思うのだけれど、ドライブしている途中にいきなり、おれたぶんあんたのいうとることまったく理解しとらんし今後も理解できんわ、と出し抜けに口にしたことがあって、そのとき大いに感動したその感動を今日また思い出して、たぶんこの尊重された距離感のおかげで15年ものあいだ沈黙のまるで気まずくない間柄を通しつづけることができているような気がしてならない。他人の論理をじぶんの論理に還元しようとしない。同調や共感の糸口を必死になって探しだそうともしなければ、見つけたものを誇大に派手に飾りつけようともしない。「マイペース」だの「ひとはひと、じぶんはじぶん」みたいな啓蒙的標語を自意識の慰めとして服用するのではなく、ひとつの中性的な原則としてしずかにふところにおさめてあるその姿勢。異議なし!
店を後にしてからコンビニでサンドイッチじゃないけどサンドイッチっぽいパンを買って、正式名称を調べたり形状を描写したりするのもめんどうだし端折るけれどもとにかく今日はつけ麺食って寿司食ってコーヒー飲んで買い食いしてたいした身分だなという話になり、計算してみると総額おひとりさま2000円というところで、外食は1000円以内を原則とするノットワーキングプアにしてはかなりの高額をはじき出すことになったのだけれど、でもよくよく考えてみれば2000円の外食費でやべーやべーと騒ぐ歳でもないというか今年で28歳になるのだけれどこの28って響きはけっこう歳食ってる感がある。見る目のない連中のせいで賞金の入る見込みもぜんぜんなさそうであるし、ここはひとつあの手相占いの爺さんの顔を立ててやるためにも予言にあったとおり貿易関係の方向に舵を切ってみるのもいい。すると途端に英語と結びつく。おもしろい。あたらしい星座の幕開けだ。
帰宅後、英語談義したりYouTubeでおすすめ音源を紹介しあったりしているうちに朝。買いそびれていたtofubeatsのアルバムをamazonでようやくポチった。トクマルシューゴが良いとTがいうのでずいぶん以前に買った3rd(ずっと1stだと思いこんでいた)を貸した。これタワレコでwegとnujabestha blue herbとまとめて購入した記憶があって、たぶんまだ学生のころだと思うからやっぱり6、7年前のことになると思うのだけれど、wegはたしかアルバム3枚くらいをまとめて買ったはずであるし、たしかino hidefumiもそのとき一緒に買ったような記憶があるから、あ、あと高木正勝も買った、ということは少なくとも新譜で7枚くらいまとめて同時に購入しているということになるのだが、いったいどこから出てきた金だったんだろうか、いまひとつ思い出せない。定額給付金かと思ったが、アレはパララックスレコードでシュトックハウゼンルイジ・ノーノクセナキスとあとは何だったっけか、たしかアニマル・コレクティヴにかかわっている誰だったかが参加しているユニットのアルバムとテリー・ライリーとアメリカだかどっかだかの詩人がポエトリーリーディングでコラボってるやつを買ったはずで、ライヒとライリーも買ったようなそうでないような、あとは西院のTSUTAYA七尾旅人とメルトバナナと灰野敬二merzbowを買ったこともあったけれどあれは定額給付金以後の話だったように思う。CDを店頭で購入した経験というのがほとんどないそのせいで全部が全部たやすく思い出せてしまうというこの貧しさ!