20130603

野生のオオサンショウウオを見たことがあるか。おれは見た。昨日夜遅く。鴨川で。外敵の接近を察したシマドジョウが泥の中にもぐりこんでしまうたびにたつあの濁り水のようにこの三日を煙に巻く。
目覚めたら15時半だったので都合12時間眠り続けたことになる。目覚ましをセットしておいた11時にいちど起きたが、頭がなにひとつ働いてくれなかったので二度寝した。昨夜眠りにつく前にたぶん明日は二度寝することになるだろうと考えていたその時点ですでに敗北していたといってもいい。起き抜けにチョコパイを四つ食った。これは先日両親が京都にやってきた時に手みやげとして置いていったものだ。コーヒーを入れた。おもてにある水場には電源があるのでティファールをもっていってそこでコーヒーのための湯を沸かしている間に洗濯物を干した。風が強いのでハンガーにつるしたそばから物干竿の上をすべって端へ端へと寄ってしまう。干した洗濯物の中にはきのうびちょびちょに濡れてしまった黄土色のチノパンも混ざっている。
眠りのさなか、昼過ぎにいちどamazonから届いた英語の教材を受け取るためにおもての戸を叩く気配のもとに寝床から立っていって戸を引きサインを書き物を受け取ったはずだが、記憶は定かでない。それをいえば前夜からずっと定かでないこの記憶だ。おぼろげに混濁してちどり足、どこまでもおぼつかない。よく無事に帰宅したものだと思う。いまにしたところで朦朧としている頭だ。なにひとつ明瞭ではない。白くかすみがかって奇妙に圧がある。こんなふうにして死んでいきたいものだと、頭を物理的に狂わせるたびにいつも甘美にそう思う。生きることを通して、いずれ来る死の瞬間をいかに平静に、取り乱すことなく、できればある程度の納得の感をもって受け入れることができるか、そのための構えを探索し続けている気がする。辺境のブッディズム。野生のニヒリズム。死神とのシャルウィーダンス。
土曜日の夜、仕事を終えて帰宅するとくたくたで、仕事のある日は基本的に寝不足であるのでいつもくたくたなのだけれど、がんばって筋トレだけすませて、簡単な食事をとり、うつらうつらしながらネットで調べものなどしているうちに(…)さんから電話があったのだったか、あるいは電話があったのは入浴後だったような気もするが、めずらしい着信で、出ると、たいそうまじめな声色で、その声色はその後二時間にわたる通話の過程でじょじょに酔漢のそれへと変じていった。グラスのふちに凍りのぶつかる音が受話器越しにいくたびも立つ。
翌日17時、(…)さんが早上がりし、(…)さん(…)さんがたてつづけに上がって、18時に出勤するひとたちがやって来るまでの小一時間、(…)さんと(…)さんとじぶんの三人で話し合いの場が設けられ、(…)さんは前日の通話内容をそこでふたたびくりかえした。つまるところは仕事の話だった。(…)さんは妙なところが真面目であったりする。やるべきことはきっちりやりたい、だらだらとしている時間がこのところ多すぎる、こんなんじゃ駄目だ、先日(…)さんを通して(…)さんにもうすこしきっちり仕事をしてくれと頼んだ手前これじゃあ余計に格好がつかない、(…)さんからしてみればなんだあいつらひとのことばかりさんざん言っておいてじぶんたちはだらけきっているじゃないか、そう思われたってしかたない、そういわれたときだれも反論することができない、そうだろう? 熱弁する(…)さん自身、気がのらないときはおおいに怠けるし、なんだったら勤務中に飲酒することさえたびたびあるが、しかし仕事にたいする基本的な姿勢は真面目であり、その点については(…)さんも、そしておそらくは(…)さんも認めるにやぶさかでない。(…)さんについてはその前日、出勤したばかりのじぶんにむけて(…)さんがひとこと、この間すこし(…)さんにいろいろと言い含めたばかりだから、もし少し気落ちしているようだったらおまえのほうからうまく話し相手になってやってくれ、そう頼まれたばかりだった。(…)さんはたしかにその日中ほとんど一言も言葉を発さなかった。少なくともいつものような、論点のずれたべらんめえ口調や巻き舌の独壇場はめっきり影をひそめていた。いくらか気落ちしているようにも、あるいは不機嫌になっているようにも見えなくなかった(…)さんであるが、とはいえ、とあるできごとをきっかけにその日の昼間にはいつもの口数をとりもどしていた。(…)さんがひとりで部屋を片付けているところに忘れ物を取りにもどった女性客が入っていったのだ。その様子をわれわれ一同はわくわくそわそわしながらそれでいて固唾を飲みつつ見守っていたのだった。まず女性客が忘れ物らしき化粧ポーチを片手に部屋を出た。しばらくして(…)さんも部屋を出た。控え室にもどってきた(…)さんにむけて、大丈夫だったかと問うと、部屋に入ってきた女性客の気配をその日ペアを組んでいた(…)さんであると勘違いした(…)さんは、白髪の大男を目の前にしてさも驚いていたであろうかの女性客のほうに目も向けずに「おねえ!忘れ物や!」と言い放ったのだという。一同爆笑し、そして空気が変わった。じぶんの知らない間にできあがってしまっていたらしいわだかまりを解くための糸口がだれの目にもあきらかにあらわになった瞬間だった。
(…)さんとの間に何があったのかと問うと、あのひとちょっと言葉遣いがひどすぎるからな、仕事の雑さもあるけど、口答えひとつとってもあんまりやからな、それでや、と(…)さんは煙草の煙を吐きながらそう言い、(…)さんとペアを組む日が多い(…)さんがうんうんとうなずいた。(…)さんが(…)さんとペアを組むのは(…)さんとペアを組みたくないからだ。(…)さんと(…)さんはしばしばもめる。もめるその二人がいま共同戦線に立っている、そのこと自体はしかしそれほどめずらしいものでもない。似たような光景はこれまでに何度も目にしてきた。それがなぜかとても新鮮に、豊かに、なにか鮮やかにめずらしいものとしてじぶんの胸を打つのは、たぶん、関係性の柔軟でめまぐるしいその場しのぎの立ち代わり入れ替わりを目にすることの感動からであるように思う。頭でっかちなひとほど関係性を固定したがる。以前の言い分やそれまでの文脈や、過去や記憶の帳尻合わせに四方を包囲されてしまって関係性をその時その場の都合不都合によって無責任にとっかえひっかえするような軽薄な身振りはとらない。しかしこの職場のひとびとは、ことさら(…)さんは、そしてしばしば(…)さんも、おかまいなしのトリックスターの身振りで、敵味方の越境線をかきまわす。それが見ていておもしろい。気の短いひとに共通する性向であるように思う。(…)くんこれ最後の一個食べな、と(…)さんは手作りのドーナッツの二つ目をすすめてくれた。作ったはいいもののあまり数がなかったものだからある程度ひとが帰って頭数が減るまでふるまうのを待っていたのだという。昼間、客室からひきさげられてきた残り物のスイーツをぱくついていると、それくらいもうわたしが払って買ったるからやめなさい!とたしなめられたばかりだった。(…)さんのことどう思うんや?抱きたい思うんけ?と(…)さんはしばしばにやにやしながらこちらに接近してくる。これはまだ二勤二休であったころ、勤務日数の多さにこらえきれず気が動転してしまいなんとかこの状況を抜け出せないものかと、それで家のことはすべてじぶんでやるし小遣いもいらないから結婚してくれないかと離婚歴のある(…)さんに公開プロポーズしてしまった過去が起因となっている。そのとき(…)さんは爆笑しながら机に顔を伏せてわたしだってまだまともな恋したいわと言った。おもわず漏れた本音だと思った。(…)さん(…)さん(…)さんとみんながみんな女は若くないと話にならないみたいな価値観の持ち主であるので、それにたいするある種の後ろめたさからか、40代の(…)さんがそんな言葉を口にすることは滅多にない。後にも先にもこの一度きりだ。
そうはいいながらもしかし先日、(…)さんと(…)さんが呑みに出かけた帰りにお持ち帰りしたのは、というか二人の言い分によると「持ち帰らされた」のは50代の女性だった。(…)さんの自宅に持ち帰り、(…)さんがひとまず一発ぶっぱなした。続いて(…)さんが交渉を持ちかけると、エッチするならこのひとのほうがいいと(…)さんのほうを指差したのだという。(…)さんはやたらとうれしそうにこの話をくりかえし語る。鉄板ネタを獲得できたよろこびに憑かれているわけであるが、しかし同時にあれはあれで相当くやしがっとるなとは(…)さんの弁である。女性の携帯には旦那からの電話が始終鳴りっぱなしだったという。もちろんだれも出なかった。女性は(…)さんの自宅にむかうタクシーの中で始終、ねえ3Pしようよ3Pとしきりに口にした。MKの運転手はドン引きしている様子だったらしい。
夜の長電話そして翌日の三者会談にて披露された(…)さんの懸念は要するに(…)さんだった。(…)さんの腰が重い。なかなか部屋にあがろうとしない。サボり癖がついてしまっている。年齢こそ(…)さんのほうが上であるとはいえ、勤続年数でいえば(…)さんのほうが先輩にあたる。発破をかけるのがむずかしい。抵抗がある。どうしても切り出しにくいのだ。(…)さんはそう言う。損な役割をまかせることになるのはわかっている、けれど(…)くんの立場から折を見てうまく声をかけてくれないだろうか。(…)さんは以前も、おそらくはもう数ヶ月前になるだろうが、似たような提案を内密にじぶんのもとに持ち込んできたことがある。そのときは(…)さんではなくて(…)さんが動いてくれないという話だった。あれにしたところで(…)さんが原因だったのではなくて(…)さんとペアを組むことの多い(…)さんがむしろ抵抗の起源だったのではないか。水を向けたこちらにたいして(…)さんはいまから思えばたしかにそうだったような気がすると言った。そのやりとりにかぎっては前夜の通話中にひそかに交わされたものだった。(…)さんと(…)さんが小一時間ほどヤクザについてのどうでもよいおしゃべりを続けている午前のひととき、客が出るたびにそちらのほうを気にするそぶりを見せたり、ひとりで部屋にあがったりしている(…)さんの身振りにまるで気づかぬふたりの様子を目にしていて、きのうの今日の話だったのでこちらも内心イラつくところがあった。おれがおもてで飼育しているメダカの様子をのぞきに行くときというのはたいてい部屋をさっさと仕上げてしまいたいと考えているときだ、けれどそんな気分でないらしいほかのみんなにむけてさっさと上にあがりましょうとはなかなか言い出せない、そのフラストレーションがたえがたくなっていつもおもてにメダカの様子を見に行くのだ。(…)さんはずいぶんと酔いのまわった口調で通話の終盤そう語ったのだが、このときもやはりメダカの様子をうかがいにしきりにおもてに出ていく姿が見られた。(…)さんと(…)さんの雑談にようやく目処がついたとき、(…)さんをつかまえて、前夜の通話についてはなにも触れぬまま、(…)さんがしきりに部屋に上がりたそうにしていた、かなりイライラしていたと思う、あのひとはあれでいてなかなか生真面目なところがあるのだ、休憩時間が規定時間を越えるとそれだけでそわそわしてしまう、やるべきことがなにもないときにだらだらするのはいっこうに構わないが片付けるべき部屋があるときはさっさとひとつずつ潰していきたいタイプなのだ、そう伝えると、(…)さんは苦笑とも照れ笑いともつかぬ表情で、マジか、すまんすまん、と両手をあわせておがむような格好をとって、そのあと椅子に腰かけてから、ふーと溜息をつき、むずかしいなーほんと、とつぶやいた。(…)さんは(…)さんで過去に数度、あんまりあいつらサボらせすぎたらあかんで、言いにくいときもあるやろけどそういうときはおれの名前使うてええからおまえがきちんとしめろよ、とひそかに語ったことがあったのだった。
別の(…)さんが出勤したのを境に、(…)さん(…)さんじぶんの三者会談が終わった。(…)さんのテンションが心持ち高く見えたのは、むずかしい関係にあった(…)さんとひさびさに腹を割って話せたことによる解放感のようなものもあったのかもしれない。あるいは、事故以来ずっと入院している(…)さんのところへいまだに本社の人間がだれひとり見舞いに行っていないという事実にたいする呆れと憤りのようなものを抱いてるのがじぶんだけではないということを確認できたことの安心と解放感もあったのかもしれない。(…)さんも(…)さんも(…)さんが大嫌いであるので、その手の心配をおおっぴらに口にするのがためらわれてしまうというところが(…)さんにはおそらくあって、(…)さんは気を遣いすぎだと思う。わたしじぶんよりもネガティヴなひと見たことがない、とつぶやいているのを聞いたこともある。おれら全員むちゃくちゃな人間のくせにお互い同士にはやたらと気遣ってしまうんや。受話器越しにそう語ったのは前夜の(…)さんだった。
別の(…)さんに次いで(…)さんもやって来て、そこで寝坊したらしい(…)さんから遅刻しますとの電話があった。前日こちらも(…)さん同様に30分ほど遅刻したばかりだったので、この符号にすこしクスリとした。中学生のときからずっと使い続けているめざまし時計はいつからかセットした時間の一時間後にベルが鳴るようになるという奇妙なバグを抱えこんでいる。ゆえに6時半に起床したいのであれば針を5時半にセットする必要があり、そんなこととっくに了承済みでうっかりミスすることなどもとんとなかったのだが、なぜかそのうっかりミスを犯してしまい、結果、目覚めると7時45分で8時出勤まで残すところわずか15分、絶望的に大慌てしながら職場に電話を入れて、(…)さんに平謝りした。出勤するなり土下座でもせんばかりの勢いで平謝りするこちらを見て(…)さんと(…)さんは大笑いした。翌日(…)さんにおわびのコーヒーを渡した。安いもんですけど、というと、本当に安いですね、とあった。(…)さんと忘れ物をした女性客の一件があったのも、(…)さんが早上がりしたのも、(…)さんにすすめられるがままにメダカの飼育をはじめた(…)さんが水槽にエビを入れたいと口にしたのをきっかけにそれじゃあ今晩にでも鴨川に出かけようかという話になったのも、そして川と水生生物の捕獲となればじぶんが出ないわけにもいかず、それじゃあ今晩仕事が終わりしだい(…)さん宅に集合でという話になったのも、すべてその日の日中のできごとだった。(…)さんがあがり、(…)さんがあがり、そこで三者会談が開幕し、そして別の(…)さんの出勤を機に閉幕し、(…)さんが出勤し、(…)さんから遅刻の電話があり、めずらしくテンションの高い(…)さんがあがり、常時テンションの高い(…)さんがあがり、それからしばらくすると(…)さんがやってきたので、(…)さんからの預かりものを伝言つきで手渡した。
ここまで書いたところで時刻は18時半である。めざめて三時間が経過したことになる。長めの文章を書くときにはいつも落とすことにしている部屋の照明を点けた。デスクにむけていたつもりの扇風機が逆の方向をむいていることに気づき、道理で風が届かないわけだと思ったが、直接風を浴びつづけるあのだるさが好きじゃない身としてはちょうどよい。めざめるとなぜか歯ブラシがなくなっていたことを思い出し、携帯のメモ帳に歯ブラシとメモした。おもてに出ると夕涼みにちょうどよい気持ちよさだった。部屋でストレッチをしてジョギング用の服装に着替え、走りに出かける前にたまっていた洗い物を片付けた。ほんの五分足らずの間にむきだしになっていた膝下からくるぶしの間までを五カ所も蚊に食われてしまった。部屋にもどると蚊が一匹まぎれこんでおり、姿をくらますのがあまりにうまいものだから、タイへ行くまえに日本で購入したたったひと吹きで12時間もの間部屋に虫を寄せつけなくする効果のある殺虫防虫スプレーを引き出しから取り出してひと吹きした。無臭である。
ジョギングに出かけた。再開後三度目にしてようやく本来のコースを走ることができた。部屋に戻ってから風呂に入ろうとして、そうだ思い出した、洗いものをしたのはこのタイミングだった。汗をだらだらとかきながら水場で汚れのカピカピにこびりついてしまっている皿を苦労して洗浄したのだった。それから風呂場にいくと先客がいて、しかたがないのでいったん部屋にもどり、しばらく経ってからもう一度風呂場にいくと、ちょうど風呂からあがって着替えている最中の(…)さんとバッティングし、(…)さんはずいぶんと長風呂らしかった。風呂にあがると20時半で、21時閉店の生鮮館に髪もまともに乾かさずに出かけた。湯冷めする肌が心地よかった。牛乳と納豆とチーズと野菜ジュースを買った。野菜ジュースは帰り道にケッタをこぎながら飲んだ。部屋に戻ってからストレッチをして近所の総菜屋に出かけたのは閉店間際の生鮮館で肉と魚を買いそびれたからだ。総菜屋ではナスを豚肉で包んで揚げたものをふたつ買った。それを玄米と納豆といっしょに食した。生活リズムが大きく狂った日はおもいきり怠惰に過ごしたくなる性向がある。その性向を抑制すべく部屋の外に出る必要があると考えた。せめて発音練習と瞬間英作文だけでも自室ですませてからにしようかと思ったが、不在がちな隣人の帰宅した気配があったので、夜も遅い時刻であるし、やはり外に出ることに決めた。目的地は薬物市場である。(…)さんからのあずかりものを(…)さんに伝言つきで手渡したとき、ためしたことはあるんすか、とたずられたので、こっちのタイプはどうもぼくにはいまひとつ相性が良くないみたいで、と答えた。(…)さんは根っからのギャンブラーである。(…)さんがいうには何ひとつ得意分野のないギャンブラー、ありとあらゆる賭博で負けまくっているという話で、当人もそれを自認している。おれは金銭感覚が狂っていると(…)さんの前で自ら語っているのを聞いたこともある。その(…)さんにあずかりものを渡した日の前日、(…)さんは出勤日でないにもかかわらず職場をおとずれた。(…)さんに用事があってのことだった。そのとき(…)さんの財布には万札がぎっちり入っていた。問われれば、30万円はあるとの返事があった。そんな大金をどうしてと一同がたずねるのに、借金の返済と(…)さんは笑いながら言った。負けがかさんでいるらしかった。(…)さんはギャンブラー中毒者に特有のぎすぎすした感じもピリピリした感じもまったくなくむしろとことんさわやかであるのがおもしろい。先週(…)と飯を食ったとき、(…)の同僚で競馬好きの男の子がいて、たしか(…)くんという名前だったように記憶しているけれど、賭け方は非常にシンプル単勝一点買いで、そのかわりでかい金額をいっぺんにぶちこむのだという。その(…)くんが(…)におすすめの馬がある、ぜったいに勝つからと猛プッシュするので、そこまでいうならと(…)は(…)くんの助言にしたがって五千円だか一万円だかをその馬に単勝一点賭けしたらしいのだけれど、そしたら見事に的中で、手元に三万円だかが転がり込んだといっていた。当の(…)くんは(…)が的中させたそのレースの二つ前のレースから参戦していて、一度目のレースに単勝一点賭けで的中させて30数万円だかをゲット、次のレースでその30数万円をまたもや単勝に一点賭けしたらしいのだけれどそれがハナの差で負けてしまったらしい。もしそれが的中していたら100万近くの大金をゲットするにいたったはずで、そしてさらにその100万近くをさらに次のレースに単勝一点賭け、これは(…)くんの指示にしたがうかたちで(…)が的中させたものだけれど、そうなっていたら手元に500万円ほど転がり込んできた計算になるらしく、ハナの差で500万円を逃してしまった、その悔しさは相当なものだろうと思う。500万とか手に入ったらどうするよ?マジ無敵だわな!などと興奮していると、でもあんた奨学金の返済でぜんぶ飛ぶやん、むしろそれでも足りやんくらいやろ、と(…)にいわれて、その瞬間、じぶんがそれ相応の借金を背負っている身であるという事実にちょっとだけはっとするところがあった。
遅刻の一件について職場に連絡を入れるまえにとりあえず(…)さんに電話をかけたところ今日は(…)の当番だろうから大丈夫、なにもうるさく言いはしないとだけ返事があったと(…)さんは言い、まったく他人事のようすだった、じぶんの職場だなんて微塵も思っていないのだあのひとは、と笑うので、今日もそうだったけれど最近ぽつぽつ会社の愚痴を漏らしている、いずれ辞めることさえにおわせていると応じると、彼もう十年くらいそんなこと言い続けてるからね、八年、八年前からか、そんときからずっとそうっすよ、という。それを聞いて少しだけ安心したのは(…)さんが仮にこの職場を辞めるなり異動するなりすることがあったらじぶんも同時に辞めようと考えていたからで、と、こういう心理の動きを自覚したとたん、なるほど、するとつまり、じぶんはいまのところ(…)さんが辞めないかぎりはこの仕事を続けるつもりでいるらしいと、自己認識が更新された。(…)さんは(…)さんについてしばしば、あいつは女を知らない、八年の付き合いの間でいちどたりとも女っ気のある話を聞いたことがない、せいぜいお気に入りのキャバ嬢のところへ(…)の付き添いで花を送りに届けにいったくらいのものだ、と口にする。(…)さんは数ヶ月前にほんの数週間ほどうちの職場でも働いていたが、勤務中(…)くんとケンカになって辞めた、というか辞めさせられた。(…)くんはじぶんとほとんど同時期にこの職場にやってきた芸大卒のおとなしそうな男の子で、山にこもったり罠をしかけてイノシシやシカを狩ったりするのが趣味らしく、何度か職場に獣肉の薫製を持ってきたこともあったが、その彼も地元に帰るといって先月とうとう職場を去った。その(…)くんとほとんどいれかわりで同じ芸大卒の(…)さんという女の子が職場に入ってきて、いまのところ唯一の若い女子で、(…)さんを前にしたときの(…)さんのしゃべりかたを見ていると、なるほどこんなふうにして以前の職場であれほどたくさんの従業員に手をかけてきたのかと納得させられるところが大いにある。(…)さんはしばしばじぶんとふたりのとき、あーやばいまた言いよられるかもしれんめんどうくさいことにならんだらええんやけど、などどふざけたことを抜かす。言いよられるんじゃなくて言いよるようにじぶんでうまいこと仕向けるんでしょうが、とこのあいだ言ってやったら、図星をつかれた苦笑いを浮かべて、そりゃあ、まあ、なあ、とお茶をにごしていた。(…)さんはわかりやすい、(…)さんがミニスカートはいてきた途端に目線がじろじろになって、と(…)さんがぶつくさ言っているのを聞いて、(…)さん当人を前にした皮肉っぽい口ぶり、そのような口ぶりを(…)さんはときおりみせるのだけれど、それを聞いていると、このふたりひょっとしていちど何かあったんでないかとげすの勘ぐりをしてしまう。(…)さん(…)さんがその可能性についてじぶんの前でいちども言及したことがないのもまたあやしい。なんでもかんでもでっちあげたり茶化したりするのが大好きなふたりがこうまでかたくなに口をつぐんでいるがゆえに、かえって秘密のにおいが色濃くたちこめるようである。しかし(…)さんはたいそう口が軽い人間なので、そういうあれこれがあったらとっくにゲロっている気がしないでもない。あいつな、ぶっちゃけ女の乳はちょっとくらい垂れとるほうがいいんすよとか言うたことあるしな、と、(…)さんのナイーヴな性癖についても(…)さんはいっぺんの躊躇もなく一同の前で口にする。
仕事が終わってから約束通り(…)さんの自宅にむかうと私服姿の(…)さんがいて、(…)さんとは何度も夜遊びしているのに私服を見るのはこれがはじめてである。(…)さんといえばものすごく高そうなスーツとものすごく高そうな革靴という図式がじぶんの中でできあがっているのでTシャツにジーンズなどの格好を目にしてしまうとすこし落ち着かない(だがそのTシャツとジーンズもやはり高級品である)。三人そろったところでまもなくおもてで車の音がして、それは(…)さんだった。(…)さんは完全に(…)さんの都合のよいように使われているだけなのだが、本人はおそらくそれを自覚しておらず、おそらくというかほぼ間違いなく自覚していない、その様子がときどき切なく胸にせまる。網とクーラーボックスをトランクにのせて鴨川の上流にむかった。時刻は21時をまわっていた。(…)さんの秘密のポイントにおりたった。草むらのなかをせせらぎが流れている。水の中にわざわざ入る必要はないと(…)さんはいったが、川で魚をつかまえるとなればたとえくるぶしほどの深さしかない流れの中であるとはいえ水に足をつけなければ落ち着かないというのがじぶんの性向であるので(…)さんに借りたサンダルのまま、チノパンの裾を膝上にまでまくりあげてせせらぎをばちゃばちゃと横断して草むらの根元に網をつっこんでガサガサやるとさっそく見たことのない魚がいっぴき網に入って、小指くらいの大きさであったのだけれど、これなんすかねと(…)さんに見せると、わからない、おれもかなりの頻度でここには来ているのだがこんな魚は見たことない!と(…)さんは言い、(…)さんは大笑いしながら(…)くんマジで野生児やなといって、そんなふうにこちらの株が急上昇しはじめたのに負けじとなったのか、何匹か小さなエビをつかまえたあとに(…)さんが支流から本流へとやはりズボンのすそをまぐりあげてじゃぶじゃぶと前進しはじめたので、(…)さんと(…)さんには悪いがじぶんもそのあとに懐中電灯と網を手にしながら続くことにした。すると前方をゆく(…)さんが突然「やばい!オオサンショウウオがおる!」と叫んだ。「マジっすか!」とこちらも叫びながらむろんおおいそぎで駆けつけた。本当にいた。浅瀬の中で水底と同系色の体色のひらべったくうすのろとした巨躯が、照らされた懐中電灯の光の中で不動だった。尾をのばせば1メートルはあるように見える。天然記念物だろうとなんだろうとこんなでかい獲物を目にしては網をむけないわけにはいかないというか、もちろんこんなものを持ち帰るわけにはいかないのでとりあえず捕獲してみて触れるなりじっくり間近で観察するなり写メを撮るなりしてそのあとふたたびリリースすればいいやというアレであるのだけれど、とにかくつかまえようと思い、(…)くんちょっとやってくれ!と(…)さんがいうので、こんなもんそもそも網に入るサイズじゃないと思いながらも斜め上方から網をかぶせるようにして動かすといきなり視界から消え、あれはハゼやドジョウのような危機を察した瞬間の瞬発的な猛スピードで視界から消えたのか、それともまいあがった泥土を煙霧として草むらの中にドロンしてしまったのか、一瞬のことだがよくわからなかったけれどもとにかく逃げてしまい、あーあ、となった。
オオサンショウウオは捕獲できなかったが、ヨシノボリやカジカ、エビ、その他もろもろの雑魚などは大量に捕獲することができた。(…)さんの望みはエビとシマドジョウだったので後半は後者をターゲットにひたすら川の中をうろつきまわり、すべての地形を探索しつくし泥と砂地のひらべったくつづく絶好のシマドジョウ出現ポイントを把握するにいたりさえしたのだが、慣れない夜の捕獲作業ということもあって結局肝心のターゲットは一匹もつかまえることができなかった。シマドジョウの逃げ足は早い。懐中電灯で照らせばすぐに泥の中にもぐりこんでしまうし、泥ごとすくってみてももぬけの殻である。ねばってねばってねばってした。気づけば股のあたりまでびちょびちょになる深みの中で悪戦苦闘していた。(…)くんもう置いてくでーという(…)さんの声がしたのでしぶしぶ陸地に戻った。橋の下の深みが気になった。橋脚の下というのはすり鉢上の急激な深みになっているもので、たいていの場合は細かい砂地なのだが、そういうところにはしばしば巨大な個体がひっそりと息をひそめているものなのだ。あそこにもぐりさえすればでかい主どもと遭遇することができるかもしれないのにと、夜という条件と、ゴーグルも水着もない装備品の不足がうらめしかった。初見の川、それも夜にはばまれてうまく見通せない深みだろうとなんだろうとずかずかと踏み込んでいくじぶんの足取りや、網ですくいとった泥や砂の塊の中にまじる奇怪な昆虫やヤゴなどのたぐいを気にかけず指先でじゃんじゃん弾いていったりする仕分け作業やらが(…)さんの目にはほとんど無謀に見えたらしく、(…)くんこわいものないんかとほとんど感心したようにいうので、まあ労働くらいですかねと答えると、おまえなあ……とあきれられた。(…)さんは話のまったく噛み合うことのない(…)さんと陸地でふたり二時間ほど置き去りにされたのもあって疲れているふうだった。置いてけぼりにしてしまっているなという自覚はあったのだが、しかしいちど熱中没頭してしまうと止まらないのが川遊びというやつである。それはおそらく(…)さんも同様だった。(…)さんも同じ申し訳なさを(…)さん相手に感じているらしく、それは(…)さんの置かれていた状況をたとえばいつものように茶化したりふざけ気味に言及したりしない点からも明白だった。触れればおのれの迂闊さ、非を認めることになるという心理がおそらく働いているのだった。
(…)さんの自宅にもどると0時をまわっていた。おまえも一杯ひっかけてくけ?と(…)さんは(…)さんにたずねた。車の運転があるからと(…)さんは断った。そうか、そんじゃあまたな、といって(…)さんは(…)さんを玄関先で送り出した。そのようにして厄介払いをしたというわけだった。すべてが計算ずくなのだ。三人で飲んだ。酩酊した。その前にコンビニで飲み物や食べ物やつまみを購入した。いつもごちそうしてもらってばかりであるし、それに今回は(…)さんにたいする負い目もあったので、じぶんがおごった。4000円近くかかったが、小金の入るあてがあるのでかまわない。レジで会計をしているときに(…)さんが店長らしいその男性にむけてフランクフルトとかコロッケとかがはいっているあの容器の中に唯一残っていたからあげを指さして、これこっちで処分しといたるわ、と言った。店長は何もいわずそれを袋につめた。帰り道に問うと、どうせ廃棄するだけのもんや、置いといたってしょうがない、と(…)さんは言った。それから、かつてコンビニで会計している最中いきなり店員のおっさんにズボンのポケットをまさぐられたという経験を話しはじめた。中に何も入っていないことがわかると、相手が相手であるし、おっさんはにわかに青ざめはじめ、レジをあけたかと思うとその中からお札をわしづかみにして、いくらなら許してくれます、とおびえた表情で切り出したという。そのとき(…)さんはお気に入りのキャバ嬢とはじめてデートをしているときだった。とんだ恥をかかされたものだといったところであるが(キャバ嬢は大笑いしていたらしいが)、金はいらないとTさんは応じたという。そのかわりここの駐車場を一台分使わてほしい、そう告げると、相手のおっさんはそれはもう何なりとと応じた。そのコンビニのとなりに当時行きつけだった居酒屋があったということだった。川に出かけると決まった昼間、(…)くん免許あるけ?と(…)さんがたずねるので、あるけどほとんどペーパーみたいなもんっすと応じると、(…)くんが運転できたら車だけツレの借りてみんなで鴨川いけるんやけどなーというものだから、(…)さんは免許とってないんですかとたずねかえすと、とったけど半年もたんかった、あんなもん点数少なすぎるんや、一瞬でなくなってまう、という返事があった。それでまんまと召喚されたのが(…)さんというわけだった。
飲んで食って酩酊してここ最近たえてなかったくらいにへべれけになってしまった。2時ごろだったか、(…)くん起きれるかという(…)さんの声にはっとして、そろそろおいとましますと、同じくソファでぐったりしながら半分眠りかけている(…)さんに告げてたちあがった。どのようにして帰ったのであったのか、はっきりと覚えていない。断片的な記憶がいくつかぼんやりと残っているようにも思われるが、その断片は主としてパトロール中のパトカーに二度ほど横付けにされたさいのこれどうも職務質問来るっぽいなーという危機感と面倒臭さの印象に集約されてあるのだが、いずれにせよそのような不明瞭さとは、瞬間英作文を終えて『ハートで感じる英文法』の残りを片付けたのち長々とブログの続きを書きはじめそして書きおえた4時の時点で店を後にした薬物市場からの帰路が刻印する今日の明瞭さとは正反対のものである。
帰宅してからイトメンのチャンポン麺を食し、「偶景」をいくつか追加した。記録を見返してみると5月は1冊も本を読まず、1本も映画を見ず、1枚もCDを聴いていないようだった。要するに英語漬けというわけだった。
そのようにして6月は口火を切った。