20130613

 ところが現在のわたしたちが地球上で目にしているのは, この実験室で得られた成果がさまざまな産業技術として, あるいは日常生活や社会の中の技術として実現した姿です. もはや地上に人間がもたらした技術的変化と無関係な自然を見いだすことは不可能のようです. ハイゼンベルグの表現を使うと, 「歴史の流れの中ではじめて, 人間は地上において自分自身にだけ向かい合っている」(『現代物理学の自然像』)ということになります. したがってこのような事態の下で自然科学の営みを行うとすると, 一方でその対象は既に人間社会との関係の中にある「自然」であることになり, 同時に他方, その営み自身が人間社会と自然との相互作用の中のひとつということになります. すなわち現在の時点で自然科学の営みを行うこと自身が, 人間社会と自然との関係に変化をもたらすことになり, それゆえここではどんな実験も, 閉じられた実験室内で可能であった「客観性」をもはや獲得できなくなっているのです. 例えば, 抗生物質の投与は長い目で見るとその抗生物質の効かない細菌を生み出すことになる, といった事態がこのことを象徴的に表しています. 実験行為自身が自然と社会の連関の中にある反復の利かない歴史的行為となる訳です. こうして科学技術も, 一次元的な因果関係の論理とは異なった自己回帰的な「反省」の論理, 人間科学や社会科学の論理と類似した論理を含まざるを得なくなっているのです.
小林康夫・船曵建夫・編『知の論理』より村田純一「ポスト・ベーコンの論理とは? 21世紀の知の論理」)



11時起床。13時より発音練習&音読。17時過ぎより整骨院。猛暑により室温が急上昇中である。打開策をとる必要がある。ひとまずパソコン用の扇風機を購入することを決意。ゆえに18時、バイトあがりの(…)に連絡をとって家まで来てもらい、ビッグスクーター2ケツしてコーナンへむかう。そうして扇風機ではなくスチールラックを購入し、軽トラにて配送。パソコンデスクのとなりのスペースにラックを組み立てて、その上に小型のサーキュレーターか何かを設置してPCを冷却するという作戦でいこうと思っていたのだが、それとはまた別に、壁掛け式の扇風機をひとつ置いたほうがいいんでないかとか、それよりもむしろカビだらけのクーラーを業者にたのんでよみがえらせてもらうほうが話は早いんでないかとか、無数の案が次から次へと出てくるようなアレだったのでひとまず扇風機を買うのは後日ということにした。かわりにカセットコンロ用のガスとクーラーの洗浄スプレーを購入。それからバイクでビブレまで出かけたのだけれど、大型バイクを駐車するスペースがないと警備員に止められてしまい、近くに有料駐車場があるからそこにいけばいいと指示されて、従うと、先ほどとは別の警備員がまたひとりいて、原付を止めるスペースだったらあるんだけれどビブレには大型を止めることができないと、先ほどの警備員と同じようなことを口にするその口調がまるっきり酔漢のそれで、目もとろんとしているし、うすぐらい夜の空気を透かしてもそれとわかる赤ら顔で、バイクは結局そのそばにあった有料駐車場に止めたのだけれど、あの警備員のおっさんべろべろやなかった?と(…)にたずねると、むちゃくちゃ酒くさかったという返答があって、世の中いろんな抜け道があるもんだと思った。あのおっさんにはなにひとつ警備することなどできないだろう。だが、それはそれでよろしい。ビブレではまた財布を見た。(…)の反応はかんばしくなかった。あまりに何度も店頭で手にとっているそのせいで、購入前からすでに飽きてしまっている感が出てきつつあり、それだからやっぱりこいつを買うのはよしにして、また別の機会に高島屋か大丸あたりに行って予算20000円前後でカタをつけようと思った。いまの財布はたしか京都に来て最初の年に購入したもので、するとかれこれ9年とかそんなんになる。ぼろぼろでぐちゃぐちゃだ。物持ちがよいとひとにたびたびほめられる。プリンターも9年。めざまし時計は15年。この身体なんてもうあと数ヶ月で丸28年になる。
運転代として夕飯をおごることにする、というか飯をおごるから軽トラたのむという話だったのでひとまず自室にもどってそこから徒歩でタイレストランに行った。店の前を通ることはたびたびあっていつもがらんとしているという印象だったのだけれど、中に入ってみると典型的なうなぎの寝床で、大学生らしい若い姿でにぎわっていた。カオマンガイを注文したらバンコクで食べたものよりも美味かった(ただし値段は四倍ほど開きが出たが)。あとはアユタヤーで食べたエビのすり身をあげたやつに似たようなのがあったのでそれも注文した。(…)はパッタイぽいものを注文した。それからパイナップルと香草の入ったサラダも食べた。となりの席では日本人の中年女性が同じくらいの年代の白人女性と英語で会話していて、幾分言葉につまるようなところはあるのだけれどそれでも存分に対話しており発音もとてもきれいで、あと一ヶ月半でせめてあのレベルに達することができればなぁと思った。通路をはさんだ斜め前の席に着いていた若い男女四人組のうち年長者らしいひとりが、アユタヤーが、とか、カオサンが、などと話しているのが聞こえてきて、ちらりとそちらにまなざしを送ると、どこかで見た顔だったような気がしたので、ひょっとしてカオサンで一晩だけ夕飯をともにした日本人のうちのひとりなのかもしれないと思ったけれども、いややっぱり違うな、あんなに若くはなかったはずだ、それにもっと声のうるさいひとだった、と思い直した。
タイレストランを後にしてそのまま歩いていつものごとく(…)にはしごした。冷たい飲み物を注文した。もちろんおごった。1時ごろに店を後にして帰路にある薬物市場に立ち寄り、甘いものと飲み物を買った。またおごった。こんなに気前のよい(…)さんは見たことないと(…)にいわれたので、(…)だって(…)だって知らない顔なのさと応じた。最初で最後の小金持かもしれない、だからたかれるうちにたかっておくのがいいのさ。飢えてるやつの小腹、みんなおれが満たしてやるのさ。
アパートまでとぼとぼといつものように深夜の住宅街を歩いている途中、ものすごく星が見えると(…)が頭上を見上げながら声をはるので、うながされるようにして見上げてみると、なるほど、京都ではめずらしいくらいの星空だった。けれど地元にくらべるとやはり見劣りする。川の清水と満点の星空の体験だけは否みがたく貴重な財産である、と、その点についてだけはすくなくとも田舎を誇れる。感謝している。
なにかの話の拍子に、まあもう小説なんてどうでもいいしな、と口にした。口にした途端しっくりきたので、なるほど、これは露悪的な装いではなく幾分本音であるらしい、と判じた。それから、もっともっと適当に生きたいという話をした。長期的展望にはいっさい立たず、ただその場しのぎの連続に身を委ねて、なにも探究せず、なにも求めず、目標も目的も目測もなしに、すなわち、意味からかぎりなく遠く離れて、中心を設定することなく、ただ生きる、ヴァルザーの描く人物たちのようにただ生きる、それがいい。なにも成し遂げなかったことがそのまま偉大さであるような生を営みたい。文学よりも語学よりももっともっと遠く、作品をなにひとつ残すことなくそれでいて芸術家であることは可能だというふしぎな確信に寄り添って、このどうでもよい生のどうでもよさを美しく肯定したい。それは可能だろう。モラリストを自称する連中からはますます反感を買うことになるだろうが。
帰宅後、いまとはどうしてこんなものを買ってしまったのかというくらいどうでもいいスチールラックを組み立てる。しかしいざ組み立ててデスクのとなりに設置してみると、それまで有効利用できていなかったスペースに生命の息吹が宿ったようにも見えたのでオーケーとなった。片付けた毛布類を収納パックにつめこんで、書物でふくらんだダンボールの山のうえにどしんとのっけた。その様子をながめていた(…)が、この部屋にはオシャレ要素なんてものはいっさいないといったので、それ以上に愛着もないと応じた。部屋なんてものは基本的に次の引っ越しにそなえての借宿みたいな認識でよろしい。一種のゲストハウスみたいなものだ。
それから布巾をいちまい反故にする覚悟とともに洗浄スプレーを片手にもってエアコンの清掃にとりくんだ。半端ない黒カビだった。ひとまず手の届く範囲内はどうにかしたものの、送風ファンの隙間から奥にのぞく内部の黒カビだけはどうしようもない。ネットでいろいろと調べてみるうちにその内部にとどく洗浄ムースのようなものが販売されていることを知ったので、というか正確にはこの冬、石油ヒーターを買う以前にもエアコンを蘇生させようかと考えたことがあってそのときにネットでいろいろ自力で洗浄する方法を探していたときに同様の商品にたどりついてはいたのだけれど、そいつと半年ぶりの再会というわけで、そっこうでポチった。週明けに半日かけてすべて分解し、徹底的に洗浄する予定である。そうすればこの石器時代の産物も多少なりとも使えるブツに変貌するかもしれない。夢のクーラー生活! 月々3000円程度電気代を余分に支払うだけで例年みたいに苦しい思いをしなくてもすむんだったらそこはケチるとこじゃないんじゃないの、支払うったってどうせ二ヶ月か三ヶ月かの話なんだし、という(…)の言葉は目からうろこだった。6年ぶりだか7年ぶりだかにまともなクーラーをゲットできる可能性が目の前にあるのだ。利用しない手はない。最善の努力を尽くして蘇生させてみせる。夏になるたびにクーラーが欲しいとぶつくさいっている気がするけれど、そうするとちょくちょくクーラーなんて使わないほうが健康的っていうしもうそのままでいいんじゃないのみたいな反論が返ってくることがあって、こういうことを簡単に口にするひとというのはたぶんふつうにクーラーでなしで京都の夏を過ごしたことがない。あるいは窓がたくさんあって天井が高くて風通しのよい立地にあって、みたいなそういう部屋に住んでいるのであって、日中の室温が39度をマークしたまま時刻が18時をまわってもなお下がらないみたいな地獄を知らないだけである。知っていたらそっちのほうが健康的だなんて口が裂けても言えやしない。赤ん坊も年寄りもぞくぞく死ぬ劣悪な環境だ。おととしの夏などとにかく地獄であった。体調を連続して崩し、崩れたものが精神の領域にまでなだれこみ、しかし周囲は詐病を疑う冷たい目つきでこちらをながめてやまない。最悪の思い出だ。あんなみじめさ、二度とごめんだ。
先週の大掃除といい、炊事・洗濯・掃除の三大主夫業のうち唯一苦手としていた掃除にたいする意識と意欲がどうやら変わりつつあって、こういうちいさな変化がまた楽しい。おのれの新陳代謝を観察するよろこび。ウラー!