20130629

この上なくお馴染みの感覚である味覚がこうも簡単に騙されてしまうとは、一体どうしてそんなことがありうるのか。私は自分の味覚を信じることができないのだ。これは単に面白いだけではなかった。心を深く不安にさせることなのだ。私にはわけが分らなかった。ぞっとする恐怖を感じた。催眠術にかかっていると、五感のうちのどの感覚でも刺戟の信号(サイン)が逆転してしまうことがあるのだ。先と同じあの催眠術師は、六十名以上の人たちで満員になっている部屋に六名の人しか見えないと私に信じさせることもできた。私自身、実はそうしていないのに自分は私に火を押しつけられていると信じた相手の身体に火ぶくれを起させ、実際に火を押しつけていた時には何の組織反応も起させないようにすることができた。このような例はほかにいくらでもある。
(…)
 見ることは信じることだ[百聞は一見に如かず]と私たちは言う。一体どの程度まで人は自分の見るものを信じ、それと同時に、自分の信じるものを見ているのだろうか。これはどの程度まで実際に起っていることなのか。私たちの通常の日常生活の手ざわりや肌理はどの程度まで社会的にプログラムされた、外から促されて生じたフィクションなのか。そのフィクションの中に私たちは、条件づけが定着しなかったか崩れ去ったか、あるいはこのフィクションの呪縛から目ざめた人たちである天才とか精神異常者とか賢者といった雑多な〝種族〟以外は全員がからめとられて閉じこめられているのではないか。ひどい調合剤が上等なシェリー酒のような味がする場合もあるとすれば、良質のドライ・シェリー酒なら「本当は」どんな味がするかを――何もシェリー酒に限ったことではないが――どのようにして私は知るのか。
 僅か数分間の出来事ではあったが、先に紹介したあの催眠実験のせいで、肉体的な刺戟と私たちのその刺戟体験との相関関係、感覚が心という装置や場面に組みこまれていること、社会的な力学(ダイナミックス)と構造の力、私たちの確信や思考、感覚や知覚や感情や解釈、行為などに影響を与えるばかりか、それらを不特定な程度まで支配しさえする私たちの個人的な絆や束縛、といったものに対する私の神秘感が深まったのだ。
 私たちの個人的な「現実」はきわめて従属的な〝変数〟[可変物]であり、それは、この「現実(リアリティー)」に従属または依拠してはいないのに私たちを左右していながらも私たちを超えた何らかの非従属的な[独立した]「実在(リアリティー)」の中に存在しているように思われる要因の結果または産物なのだ、と私は悟った。
R・D・レイン/中村保男・訳『レイン わが半生』)



6時45分起床。猛烈なる寝不足。8時より12時間の奴隷労働。先週遅刻したお詫びとして(…)さんにコーヒーを手渡す。昨夜にひきつづき具合が悪く、昼前など吐き気さえ覚えたが、どうもこれ単純に空腹によるものだったらしく、同僚みんなで注文したほか弁を食べたらすこぶる調子がよくなった。職場では案の定(…)さんや(…)さんから先週(…)さん相手にブチギレたことをいじられたが、それをいじることによってこちらがさらにまたブチギレるんではないかと探るような遠慮がちなアレだったのがありありと透けてみえて、いやいやそこまで子供じゃないからとすこし残念に思った。いやーでも(…)くん真面目な話たいした男気やったであれ、と(…)さんからはまたわけのわからないフォローが入った。おまえはチンピラあがりってことを隠したいんか?と(…)さんにいわれたので、飲み屋で武勇伝を語っとるおっさんって地球上でもっとも醜悪な生物やと思いません?と応じた。眠気と一ヶ月後に控えた不安にさいなまれてしんどい12時間、ぼうっとするとすぐに何か良い手はないだろうかと、ありとあらゆる可能性をシミュレーションしながら最善策を脳内で検索してしまうので、気がまったく休まらない。帰宅してすぐに風呂に入った。風呂場の扉越しに大家さんから声をかけられたので、なにかしらことの進展か心境の変化があったのかもしれないと思いながら応じると、おかずの残り物があるのでよかったらどうぞというアレだった。風呂からあがって水場で簡単な食事を作って食べた。(…)さんから(…)さんの職場はどのあたりにあるんですかとたずねられたので、だいたいどこそこのあたりですねと応じると、そのあたりにあるホテルに何度か入ったことがあるという返事があったものだから、ためしに近隣のホテルの名前をいくつかあげてみると、ちょっと待ってくださいと言い残して部屋に引っ込み、それからしばらくして数枚の会員カードを手にして姿をあらわしたので、チェックしてみると、たびたび名前を耳にする強豪ライバル店のものだった。上司にたのめば割引券の一枚や二枚はゲットできるかもしれないと告げると、ぜひぜひもらってきてくださいとあって、(…)さんでも誰といっしょにいくの、とそばにいた(…)さんがたずねると、だれでもいいですだれでも!とあったので笑った。飯を食い、(…)くんと(…)さんと(…)くんにメールの返信をし、ブログを書き、それから明日とうとう出発するはずの(…)にも短い挨拶メールを書いて送信した(やたらと疲れきっているようにみえた前回の通話が出国前の最後のやりとりとなってしまった事実に奇妙な縁起の悪さを覚えてしまう)。(…)さんの映画も(…)くんの小説も(…)さんの小説も、なんだかんだいって結局(…)帰国以降しか着手できない気がするのだけれど、こればっかりはどうぞ勘弁してつかぁさい!