20130628

 解剖学の講義でハミルトンは、教材として、関節の動きや、消化管の動き、蠕動などを示す身体のX線撮影映画を私たちに見せた。その映画は他に類のないユニークなものだった。願わくは今でもそうであってほしい。と言うのも、このように長時間X線に身体がさらされていると、広い範囲にわたってX線による火傷や組織の破壊が起り、人間という実験動物がすぐさまこの災害から救い出されない限り、苦悶のうちに死ぬ結果になってしまうからだ。私たちが見せられたのは、ナチスユダヤ人を対象にして行なった実験の記録映画で、第二次大戦の終りにイギリス軍に押収され、その後は教材として使われていたのである。
 スクリーンに映し出されていることの意味が心にぴんとくるまで少し時間がかかった。私はその映写を一回しか見なかった。それだけで、ジョン・オウエンズという友人と教室を出てしまった。二百人あまりの他の学生は坐ったまま、興味深げに映画を見つづけていた。オウエンズと私は胸がむかつき、憤慨していた。ハミルトン教授のところへ二人で行って、訴えた。「わたしたちは人間が焼き殺されるところを見せられているんです! どうしてあれを教材に使ったりするんですか」
 「うん、分ってるよ。きみたちの言う通りだ。しかし、あれは得がたいユニークな教材なんだ。あれを使わなかったら、あの人たちの死は犬死になってしまう」
 ほとんどの学生がハミルトン教授の意見に賛成した。問題のフィルムの映写をボイコットしたり禁止したりする「運動」は起らなかった。興味深い映画であることは事実だったが、たとえ一秒でもこの映画に興味をそそられたことで(「科学」の関心や興味なんぞは地獄に落ちてしまえ)私はペストに懸ったような気分になった。
 この出来事で人間に対する私の恐怖、あの映画そのものや、それを製作した人たちの心や、官僚主義的、科学的な能率を背後から支えている人たちの心に対する恐怖が烈しくなった。官僚主義的、科学的な能率は、こういう映画の製作ばかりか、それを配布する社会機構を、悪に対するあれほどの無神経さと盲目ぶりで維持しているのだ。
R・D・レイン/中村保男・訳『レイン わが半生』)



夢。弟の運転する車でジャスコの立体駐車場のようなところにいる。駐車場では父親が警備員をしており、こちらの車を見つけるなり駆け寄ってきて、まだ整備をすませていないのかと弟を難詰する。弟はどうでもいいとばかりの態度で適当にはいはいといって突っぱねる。そういうときに弟のみせるひとを舐めきったような態度が、当人にその自覚のないことを含めて、たいそう嫌いだと思う。
夢。照明の落とされた暗い部屋にいる。低い座卓のむこうがわとこちらがわにそれぞれワイン色のソファーが設置されており、こちらがわにはじぶんひとり、むこうがわにはあやしい占い師のような老婆と男性がならんで腰かけている。男性は認識上ドラァグ・クイーンであるということになっているのだが、見た目はいくらか慎ましい身振りをとる(そしてその身振りが彼の中にある女性性を担保しているように見えるのだが)男性そのものである。座卓の上には地球儀のような物体が置かれている。球体上のその表面には無限に枝分かれした細い白線がネットワーク状にびっしりと走っており、微妙に厚みのあるその白線はたえず変形しつづけ、ときに細くなったり太くなったり、ときに分岐したり合流したりをくりかえしている。その上を白線の自由自在に生成しつづけている地は黒い液晶画面のようであり、ときおり赤や緑や青の幾何学模様がはじまりもおわりもなしに変形をくりかえしているさまのぼんやりと浮かびあがったり沈んだりするのが白線の生成運動とからまりあってきわめてサイケデリックであり、しばしのあいだ宇宙の曼荼羅を観察しつづける。ドラッグのようだ、と告げると、この物体の作成者らしいその男性が無言でほほえみ、それから少し照れたような表情を浮かべてとなりのソファに腰かけている老婆に媚びるような目線を送る。
10時起床。もうひとつ起き抜けに携帯電話にメモした夢の箇条書きに「アキーシジャレットシング」という謎の文字列があり、ながめているうちに、「キース・ジャレット」にかかわるなにかであったことを不意に思い出したのであったが、それ以上遡及することはかなわなかった。6時ごろであったか、玄関脇にある小窓越しにこちらに呼びかけているらしい大家さんの声で目が覚めた。いつもならば無視して寝るところであるが、(…)滞在の一件についてなにかしら進展があったのかもしれないという意識が働いたため、起き抜け恒例の立ちくらみにぐわらぐわらしながらあわてておもてに出た。すると横倒しになったこちらの自転車をどうにかして持ち上げようとしている大家さんの姿があって、腱鞘炎をわずらっている手首がまったくもって使い物にならないのだと常日頃から漏らしているのに自転車のような重たいものをもちあげるのはいくらなんでも無理があると、それであわてて手をさしのべたのであるが、起床直後のまだまだ使い物にならないこちらの頭などおかまいなしに、おとなりの部屋やけどな、と唐突に本題を切り出してみせ、きのうあれからよお考えてみたんやけどな、来月からの二ヶ月っていうたら、あんたーほれ、夏休みやさかい、みなさん実家に帰りまっしゃろ、◯◯さんも(…)さんも神学部で、大学も夏休みやさかい、(…)さんは中国の方やからアレやけども、ほやからな、あれから考えてみたんやけども、あんたほれ、引っ越すなんていわんととなりの部屋つこうてくださいまし、とあって、まだ半分ほどねぼけてはいたもののしかしこれはまたずいぶん風向きが良くなっているんじゃあないかと判断するくらいには頭もはたらいてくれたので、ゆえに、どうもありがとうございます、恩に着ます、ご迷惑はおかけしませんので、みたいなことをいってから部屋にひきさがった。ふたたび床に着いたところで、ほかの住人が帰省する期間内であるから滞在オーケーというのは要するに大家さんの懸念というのはやはり他の住人の手前じぶんが女を連れ込んでうんぬんかんぬんしているのを見て見ぬ振りすることなどはできないというアレなのだろうかと思った。ひとり特例を認めればおれもおれもとなるそんな事態を見越しての? どうだか知れない。そもそもの話、夏休みだからといってみんな帰省するとかぎった話でもないし、帰省するとしても二ヶ月まるごと地元で過ごすというひともなかなかいやしないのではないか。
パンの耳に卵をのっけて焼いて食い(最近こればかりである)、インスタントコーヒーをがぶ飲みし、日記をひとまず書き進め、12時半より17時まで発音練習&音読。途中で台湾から帰国したばかりの(…)から連絡があり、この週末は用事があるのでかわりに今晩にでも外に飯を食いにいかないかとあったので、了承。整骨院に行って首と肩をもみほぐしてもらい、帰宅してからジョギングに出かけるその前にバイトあがりらしい(…)さんとばったり水場で出くわしたので、大家さんと交わした今朝のやりとりを報告。うすうすそんな気はしていたけれども、(…)さん曰く、夏休みだからといって帰省するひとなんてほとんどいないんじゃないかとのこと。やっぱりそうだよなぁ。まだまだ二転三転しそうではあるけれどもいざ当人がここに来てしまえばさすがの大家さんも何もいえないだろうしどうにでもなってしまうんではないか、と、いつのまにか(…)さんのほうがことの見通しについて楽天的になっているのがちょっとおかしい。なすがまま、なされるがまま、時の流れに身を任せ、それしかもうない。空腹のためなのかそれとも精神的なアレからなのか、ジョギングはどうも調子が出なかったのでいつもより短い距離ですませた。汗を流すために風呂場にむかうと、大家さんから声をかけられ、あーもう今度はなんなんだろうと思って返事をすると、きのうの菓子折りを暗にこちらに突き返そうとする身振り口ぶりがとられ、じぶんはふだんお菓子を食べることはない、通じをよくするためのバナナやリンゴやヨーグルトしか食べないのだ、みたいなていでは一応あったけれども、これってはっきりいってこちらからの贈与の一撃を回避するための方便なのではないかと思われないでもなく、だったらなおさらのことこちらとしては突き返されるわけにはいかないので、それだったら他の住人のみなさんに配るなどしてやってくださいと応じて返却をかたくなに拒んだ。ひとり増えることになれば便所代も風呂代もひとりぶん余計にかかることになる、そこのところをきちんと認識しておいてくださいよと、認識なんて言葉をここで口にしてみせるところに京都式の迂回話術その核心を見たような気さえするのだけれど、とりあえず月々5000円はお支払いしますから、と応じた。それからお友達はいつ来られるんですかみたいな問いかけが続いたので、ちょうど一ヶ月後の七月末になると応じると、それだったら大学も夏休みに入る頃合いであるし住人はおおかた帰省するだろうから具合がいい、しかしなるべく他の住人には女がいるとはばれないように気をつけてもらってその女にもなるべく早く帰ってもらうようにしてくださいと、ここで口にされる「女」という言葉の異様にそらおそろしい響き! 暗雲がたちこめすぎていてにっちもさっちもいかないようなアレであるけれども、これで住人がだれひとり帰省しないなどと判明した暁にはいったいどうなってしまうんだろうか。ぎりぎりのタイミングでやはり無理だと拒絶されるのがいちばん困るので無理だったら無理といっそのこと早くいってもらいたいくらいだ。それだったらあきらめてこちらとしても引っ越ししようという気になるのだが。
風呂からあがって洗濯物をほしていると(…)がやって来たので自室に招き入れ、その時点ですでに21時をまわっていたように思うのだが、部屋の中でだらだらとくっちゃべってしまって飯を食うために外に出るころにはけっこうな時間になってしまっていてもうサイゼリヤしかない。台湾土産として(…)からいくらかの菓子類と露天で購入したという万年筆をいただいた。ちょっと高値のボールペンを買おうと思って探しまわったけれども結局お気に入りが見つからずにそのままなあなあになってしまったということがこれまでいくたびかあったので、このプレゼントは実にありがたかった。サイゼリヤで手早く簡単な食事をすませたのち逃現郷に移動して食っちゃべった。大家さんにたいする不満やら一ヶ月後に控えている生活の不安やらを(…)にあらいざらいぶちまけ、なにをどうすればもっともすばらしい夏を過ごすことができるのか、思案に思案を重ねるひとりよがりな自問自答に延々と付き合ってもらった。店では超絶ひさしぶりに(…)さんと出くわした。顔を見られるなり、なつかしいひとがおるー!といわれたので、いやいやいやちょっと(…)さん聞いてくださいよ、としょっぱなからの愚痴モードで事の経緯をやはりあらいざらいぶちまけた。すると、まるではじめて(…)さんと遭遇した二年前の夏の夜をなぞるかのごとき突拍子のなさと気軽さで、そんなら(…)ちゃんうちの一階使ってその子といっしょに寝泊まりしたらええやん、と提案されて、実におったまげた。大家さんの剣呑なまなざしをかいくぐるようにして二月も過ごすなんていくらなんでも気の毒すぎるし他の住人に(…)の存在を悟られないようにするというていで一応はやっていく必要があるという条件もいろいろ不便であるし、それだったらいっそのこと必要最低限の荷物だけ持ち込んでうちの一階で寝起きすればいいよと、そういう話で、(…)さんが生徒さん相手に授業をするその時間帯さえ避ければ別にいつどれだけ部屋を使ってもらってもかまわない、風呂こそないもののトイレも洗面もクーラーもあるから十分に生活はできるはずだと、本当にもういたれりつくせりというかなんでここまでじぶんを甘やかしてくれるのかというアレでたまげるほかないわけだが、とりあえずは引っ越しも含めて他の可能性やら何やらをあと一ヶ月の間に探り続けてみる、けれども本当にもうにっちもさっちもいかなくなったら二ヶ月まるごととはいかないもののひょっとするとお世話になることもあるかもしれないと、そう伝えたのは(…)さんが店を出てずいぶん経ったあと、雲行きの悪い幸先のせいでいくらか神経衰弱気味になってしまったというのか、いぜん気絶したときにも見舞われためまいと吐き気の合わせ技のごくごく軽いきざしが認められたので(…)をうながしてもう帰ろうと告げ支払いをすばやくすませ、朦朧としながら店の外に出て歩いているうちに外気の影響もあってかいくらか人心地が着き、そうこうするうちに見えてきた(…)さん宅の玄関先でうごめく人影があって、その人影の正体はもちろん(…)さんだったわけだけれど、小雨の降る真夜中に植木に水をやっていて、ひさしだか屋根だかのせいで雨が降っても水が届かないかららしいのだけれど、(…)さん宅の前を通りかかるたびにどんどん植木が増えていくなぁと思っていたんすよと告げると、実をいうと最近近所を痴呆症らしき老人が徘徊することがよくあってその老人が(…)さん宅の敷地内で立ち小便をするとかなんとか、それをさまたげるための植木の配置ということで、そういうあれこれを話したりしてあとはアレだ、(…)さんの持っている古い英語のリスニング教材のテープをパソコンにとりこんだのちCD-Rに焼いて手渡すという約束を(…)と(…)さんが取り交わしたりして、そんなこんなの立ち話のついでにあらためて、もし必要だったらいつでも部屋を使ってくれていいと、そう(…)さんが言ってくれたので、たとえば本当に(…)さんのお部屋を寝室として使わせてもらうことができるのであれば少なくとも(…)の滞在にかんしては大家さんにごちゃごちゃいわれなくてもすむというか、それでもアパートの共同炊事場でいっしょに夕食を作ったり食べたりしていたら小言のひとつふたつはいわれるのかもしれないし日中だろうと夕方だろうと部屋に(…)をあげていたらそれだけでめくじらを立てるようなところもあるのかもしれないが、しかしそれはあくまでもたとえば普段(…)がじぶんの部屋に遊びに来たりするのと何ら変わりない状況なのだからこちらとしても胸を張って堂々と強気でいられるというか、いやいや泊まったりしませんよ何いってんすか彼女ただ部屋に遊びにきてるだけですよの正攻法も可能だし、だから飯を作って食ったり、あるいはネットで情報を調べたり(…)が両親や友人たちに生存報告したりする時間だけアパートですごして、それで寝泊まりはあくまでも(…)さん宅で、と、そういう方策もあるにはあるわけで、その場合、問題は風呂をどこですませるかというアレで、じぶんは別にアパートに戻っていつもどおりシャワーを浴びればいいのだけれどそのシャワーを(…)が使用するとなると一気にハードルが高くなるというか、それだとほとんどこのアパートに(…)と滞在するのとほとんど変わらないというか仮にオーケーが出たところで水道料金の名目でがめつい請求がくることは避けられないだろうし、というか金でどうにかなる問題であるのであれば金なんていくらでも出そうという話なのだけれど問題は大家さんがとるであろうあからさまに排他的な態度が、言葉の壁など楽勝で飛び越して(…)を傷つけたり不快にしてしまったりするであろうその事態で、だからアパートのシャワーを(…)も利用するという手はなるべく避けたい。すると銭湯に通ってもらうということになるのだが、それだと出費がかさむし、なにより外から戻ってくるたびにシャワーを浴びたがるあの西洋人の本能とでも呼ぶべき欲求を満たすためにはやはり自由に使える水場が欲しい。ということを考えているとたとえば(…)さん宅から自転車で五分もかからないところに以前じぶんが住んでいたアパートがあるわけで、あのアパートには住人共用であるところの10分100円のコインシャワーがある。すでに部外者であるところのじぶんがしかし大家さん夫妻に事情を説明してその設備の利用を許可してもらう、というのはなんとなくうまくいかない気がするというかたぶん100%無理なので、深夜、住人の大半と大家さん夫妻が寝静まったそのタイミングを見計らってそっと使用させてもらう、それくらいのことだったらできるかもしれない。しかしこれではまだ不十分ではある。よりふさわしい術策を編み出さなければならない。
悩みすぎなのかなんなのかとにかく奇妙な吐き気としんどさと息切れに見舞われながら小雨の帰路を(…)とふたりでたどり(「あんたぜえぜえ言っとるやん」)、いちど帰宅してからコンビニに再度出かけてポカリスエットを購入し、そしてがぶ飲みしながらまたもやああでもないこうでもないと計画を立てたり、いっそのことこのタイミングで引っ越してしまうのもやはりアリなんではないかと思って物件情報をネットで調べたりして2時、(…)が帰ったあとでひとり布団にもぐりこんで英語の文法書をながめながらしかしまったくもって頭に入ってはこず、そうこうするうちに3時になってしまったので翌朝の6時半起きにそなえて睡眠剤を導入した。以下、現状考えられる選択肢。
1.引っ越しする(じぶんの人生をどれだけネタにできるか、傍目には馬鹿げているとしか見えないふるまいに出ることができるかどうか、それがいちばん大事なんだよ!目に物見せてくれるわ!)
2.アパートと(…)さん宅をそれぞれ日中と夜間の拠点として利用しつつ実家や友人知人など全方位に協力を求める(みんな!オラに少しだけ元気をわけてくれ!)
3.条件をのんでアパートに滞在する(へ、へ、へ!これはこれは大家さんじゃないですか!いやいや、だいじょうぶ!だいじょうぶですよ!ほかの連中にはまだ女の存在は悟られちゃあいませんぜ!いやほんとうに、まったくもってってやつですよ!あっしは大家さんのいうことをこれっぽっちも――ええ、ほんのこれっぽっちも、です!――うらぎっちゃあいませんからね!へ、へ、へ!)
4.亡命する(もうこの国にはうんざりだ)