20130805

7時半にセットして足下に置いておいた目覚まし時計を右足の指先で止めた。何度も目を覚ましてはそのたびに指先で触れ合った。12時をまわってようやくそれより先に待ち受ける何事かがないことをあきらめたかのように布団から抜け出し、パンの耳と前日の夕食の残りの蒸し野菜で朝食をとった。あなた昨日わたしがメイクをして待っていたのにいちどもきれいって言ってくれなかったわねというので、あまりにきれいなものを目の当たりにするとなにもいえなくなるものだよと返した。メイクアップした彼女の顔を最初目の当たりにしたとき、ふざけてやっているのか本気なのかよくわかりかねて戸惑ったのは、眉毛を黒く、太く、ほとんどコントかと思われるほど強調して描いていたからで、その眉毛は今日もなお彼女の顔の中央やや上方にて存在感を放っている。どう考えてもすっぴんのほうが圧倒的に美しいのだが、西洋と東洋の美意識の差異がここにあるのかもしれない。嵐山にむかう予定は立ち消えた。そのかわりに四条に出かけて巻き煙草を購入した。前夜とうとうタイで購入したタネが底をついた(…)はやむにやまれずコンビニでメンソールのシガレットを購入したのだったが、食品であれ煙草であれケミカルな一品は彼女の欲するところではなかった。ようやく手に入れることのできたナチュラルなshagに彼女は諸手をあげて歓び、われわれは人目をはばからずハグした。手持ちの現金が尽きかけていた。現金をおろすために銀行に立ち寄った。SのVISAカードはここでは取り扱っていないという話だった。別の銀行にむかった。カードの期限が切れているという警告が出た。カード会社に連絡したが解決の目処がたたなかった。さらに別のATMを利用した。今度は暗証番号がまちがっているという警告がでた。なにもかもがうまくいきそうになかった。部屋にもどってからネットを介してカスタマーセンターにコンタクトをとればいいという話になった。われわれのモットーはbe economicalとbe positiveだった。その事実をあらためて告げると(…)は破顔した。いつもならば空気のぴりぴりと張りつめてたちまち険悪になってしまうにちがいない状況をわれわれはとうとう笑顔で乗りきることに成功したのだった。おおきな進歩だった。(…)は生理だった。朝から腹痛を訴えてやまなかった。カフェでいちど休憩をとろうという話になった。レモンが欲しいと(…)はいった。ビタミンCが腹痛をおさめてくれるのだ。寺町商店街の近くにある路上駐輪場にさしかかったところで夕立がふりはじめた。われわれは小走りになって笑いながらアーケードに駆け込んだ。それからいちばん最初に目についたカフェに入った。(…)はレモンが丸ごとひとつ必要だといった。ウェイトレスに希望を告げると彼女は困惑した顔でマスターらしき男性のもとに相談にいった。オーダーが通った。(…)は紅茶とレモンひとつ、こちらはレモンスカッシュを注文した。わたしこのカフェあまり好きじゃないわ。あんまりロマンティックなカフェに連れてきちゃうとまたやっかいなことになるだろう。あなたそこまで考えていたわけ?今後もきみとカフェに来るときはなるべく面白みのない典型的なカフェを選ぶようにするつもりだけど。わたしはもっとロマンティックなカフェともっとロマンティックな音楽が好みなの。だけれどおれの部屋でロマンティックな音楽をかけるのは危険だろう。わたしあのとき流れていた(…)の音楽だいすきよ。おれもだよ、でも今度からきみがあの曲を聞きたくなったときはいってくれよ、そのあいだおれは外にでも出てるから。外に出てなにをするのよ?そこらの女の子にたのんでお願いするんだよ。なにをお願いするの?なにかだよ。馬鹿じゃない。沖縄にいったときはなるべくロマンティックなカフェに行きたいな、そうしたらおれはきみにそこでお願いするんだ。なにを?なにかだよ。あなたってnaughtyね。どういう意味?辞書で調べてごらんなさい。なるほど、たしかにおれはnaughtyだ。意味わかった?でもこれはおれの性格だから仕方ないな。
外は雷鳴がひどかった。われわれは店の外に出るとOPAにむかった。(…)は沖縄にそなえてビキニが欲しいといっていたのだった。その前にLOFTに立ち寄った。ユニクロなら安くで水着が買えるかもしれないと(…)が言い出したのだった。ユニクロは今年のわれわれと去年のわれわれをつなぐひとつのキーワードだった。チェンマイのナイトマーケットをぶらぶらしているとき、あなたユニクロって知っていると(…)がたずねたのだった。安いからとても助かっているというと、ユニクロが安いだなんてとんでもないと(…)は言ったのだった。東京のユニクロで下着を購入した(…)はたしかにあなたのいうとおり日本のユニクロはわりとチープねといった。翻意はここにきて極まった。水着はとりあつかっていなかったが、夏服の大半がセールで半値近く値引きされていた。(…)は歓喜して店内をかけまわった。そうしてたくさんの衣服を抱え込んで試着の鬼と化したのだった。彼女は衣裳を着替えるたびに試着室のカーテンをあけてこちらの感想をうかがった。じぶんの意見を持てときみはよく言うじゃないかというと、いまはあなたといるんだからわたしはあなたの意見を参考にするのよという返答があった。日射病予防のハットの他に、彼女は四点の衣服を購入した。その中には黒のロングドレスがあった。それはかねてから彼女が欲しい欲しいと言い続けていたものだった。これでとうとうレストランに行くことができるわと彼女はいった。四条からの帰路でも、それから部屋に戻ってからふたたびとりおこなわれた試着タイムの際にも、彼女はおなじことを口にした。おそらくレストランでの食事とクラブでのダンスは彼女の中で回避することなどありえない必須事項であるらしかった。ロマンティックな小芝居に今後付き合わなければならぬことを考えるといくらか気の滅入るところがあった。紋切り型とはかねてから受け入れ難い何かだった。仮に付き合ったところでその先でなにかが待ち受けているわけでもないだろうという馬鹿らしさもあった。大満足のショッピングのおかげで(…)の気分はずっと向上したようだった。腹痛すら消えてしまったと彼女はいった。OPAの水着はどれもこれも一万五千円前後するものばかりだった。こんなの買えないわと彼女はいった。このあたりでもっと安い店はないか聞いてみてよと彼女はいった。予算はいくらとたずねると、最大で三千円ねとあった。ギャルギャルしたスタッフに問うと、その価格帯はちょっと難しいと思いますという返事があった。イズミヤのようなショッピングモールならどうでもよいようなものが数千円で購入できるかもしれないと思ったので、またあした嵐山にむかう途中で立ち寄ってみようと提案した。われわれは帰路に着いた。今日のわたしは典型的な女性だったわ、気を悪くしていたらごめんなさい。ときには典型的な女性もいいものだよ。それがわたしだったらなおさら?たぶんね。どうもありがとう。
帰路の途中スポーツ用品店が目についた。水着があるかもしれないと思って立ち寄ってみると、OPAで見たものよりもずっと低い価格帯ものがいくつか見つかった。われわれの趣味はあまりに似通っていた。(…)のピックアップするものがことごとくこちらの趣味にかなっているのだった。カラフル&サイケデリックがわれわれの嗜好だった。彼女は三着のビキニとともに試着室に入った。あなたは外にいなきゃだめよというので、なにかあったらすぐに呼んでくれてもいいんだよと応じた。それから彼女はやはりまた一着身につけるたびにカーテンをそっと開いてからこちらの名前を呼び、ほかの男性客に姿を見られないようにしながらこちらの意見をうかがうのだった。「もう五分間だけ見せてよ」「着替え手伝おうか?」「きみが部屋にいるあいだずっとその恰好でいてくれるんだったらおれが支払ってもいいよ」。威勢のよい軽口ばかりが飛んだ。最終的に彼女はオレンジ色のビキニを購入した。とてもよく似合っていた。ユニクロで購入した衣服の傾向からして、彼女がオレンジやイエローに惹かれているのは明白だった。きみにとてもよく似合う色だというと、うれしそうに笑った。
ここまで書いたところで(…)に眠れないと呼びかけられてまたもや長話とあいなってそれでも0時。翌日こそ早起きするのだと勇んで21時すぎには寝床に着いたのだった。だが彼女は眠れなかった。そしてこちらはひさびさに「偶景」に取り組むつもりでむかったデスクを前に、ウォームアップのつもりで書き出した日記がながながと間延びしていまや終着点を失いつつあるのだった。(…)は疲れていた。帰宅すると同時に布団の上に横になった。冷蔵庫の残りものを処理するつもりで蒸し野菜とみそ汁を作った。それに玄米と納豆と豆腐で簡単な夕食をとった。深夜に会話がもりあがって夜更かしすることになるのはよくない、トークはなるべく早い時間にすませておくべきだと食後(…)はそういうと、部屋の明かりを落とし、かわりに蝋燭に火をつけた。ラップトップからは長谷川健一の「ふたり」が流れていた。ロマンティックすぎるのはダメよという彼女の意見を尊重してセレクトしたつもりの楽曲だったが、これもまたやはり一種のラブソングなのだった。なにか話をしてよとうながす彼女にあいまいな返事をしてごろりと畳の上に横たわると、彼女はやはりあのときのように炎をまたいでこちら側にやってき、それからユニクロの紙袋の中に手をつっこんで一着ずつ試着しては姿見の前に立ちこちらの意見をうかがった。着替えのたびに彼女はturn aroundとまるで犬に命じるような口調でこちらに呼びかけ、犬のようにしたがうじぶんがいた。黒のドレスを身につけた彼女はロンドンからはるばる持ってきたらしいおおぶりのネックレスを身につけ、恍惚とした表情を浮かべながらこれでいつでもレストランに行けるわといった。それから元の部屋着に着替えると、たたんだ布団を枕がわりにして寝転がるこちらのとなりにどさりと倒れ込み、手をにぎった。われわれはそろって寝転び、手をつなぎながら、しかしそれ以上先にはやはり進むことができないのだった。「ふたり」が五回ほど繰り返される間、われわれはひとことも口をきかなかった。つないだ手の握りが徐々にほどけていくその感じから彼女が眠気を感じはじめているのは明らかだった。潮時だった。起きあがり、水を飲み、それから彼女の目が見開いてこちらにそそがれているのを認めた。ねむいのとたずねると、うなずいた。おれはたぶん深夜まで眠れない、だから今から喫茶店に行くことにするよ。今から?明日じゃなくて?うん、今から。身支度を整えたところで、外に出ていく前に風呂に入ろうと思いなおした。入浴道具をひとしきりそろえたところで、ふたたび彼女のとなりに寝転がり、それから名前を呼んだ。おれも男だからね、このままここにずっときみといたらまずいことになりかねないだろ、だから今から喫茶店に行く、パンの耳をもらうだけじゃなくてすこしだけ小説も書くつもりだ、たぶん深夜まで戻ってこないだろう、いいかな?すると小さな声で了承の返事があった。
風呂に入った。シャワーを浴びた。選択肢をあやまったと感じた。ポメラで文章を書くのはあまり好きじゃなかった。パソコンのほうがよほどうまく書けるのだった。けれどそのパソコンまでうばって(…)をひとり自室に残していくのはしのびなかった。なによりじぶんの気持ちにたいする不誠実さ、はきちがえた謙虚や思いやりがここにはあると思った。部屋にもどった。PCにむかった。トイレに立った彼女にむけて、気が変わった、部屋で小説を書くことにする、ひょっとしたらきみの眠りをさまたげることになるかもしれないけれども、そう告げると、彼女はノーノーノーといった。それから部屋の照明を落とし、ヘッドフォンからかすかに漏れる音楽をやさしい夜のスピーカーかわりにしていくつかの音楽を流しながら助走のつもりが奔走になってしまった日記を書きつづった。その途中、どうしても眠れないのと彼女から呼びかけられた。紅茶でも飲むかとたずねると、そうしたほうがいいかもしれないとあったので、湯を沸かしに外に出た。あなたは寝るまえに珈琲を飲んでもだいじょうぶなのというので、毎日がばがば珈琲を飲んでいるからなんともないんだよと応じた。彼女は紅茶にミルクを少しとたっぷりの蜂蜜をそそいだ。開封済みの牛乳パックのたたまれた注ぎ口をどう開封するのかわからず苦戦しているので手助けしてやると、origamiとこぼした。祖母が冬になると送ってくれるピュアな蜂蜜の美味について、それから故国の森で採集することのできるベリーについての話があった。故国の大自然について語るときの(…)はいつも恍惚としたよろこびの表情を浮かべる。食べ物の話になっちゃったわねと彼女はいった。お腹が空いたのかとたずねるとほんの少しと笑っていった。それじゃあおにぎりでも買おうかといった。みそ汁の残りとあわせて食べればいい。ふたりでそろって近所のコンビニに出かけた。このお店は深夜でも空いているのねというので、24時間オープンだと応じると、ロンドンでは24時間オープンのお店を見つけるのはむずかしいわという返事があった。どうして?店が閉まってるからよ。完璧な解答だね。部屋にもどり、われわれは温め直したみそ汁とともにおにぎりをひとつずつたいらげた。フリーメーソン、ロックフェラー、HARP、人口調整について(…)は語った。どういうわけかサイケデリックな人間というのはほとんど例外なく陰謀論の類に強い興味関心を持つようだった。それからとうとう捕鯨問題についての話題が切り出された。情報を調べれば調べるほど、そうして考えれば考えるほど、じぶんは混乱してしまうのだ、ときどきどうして他人がああもたやすく社会問題や国際問題についての意見を開陳してしまえるのかとてもふしぎになるというと、彼女は表面的には少なくとも同意してくれたようだった。映画の話になった。コメディとラブストーリーが好きだと彼女はいった。ホラーは絶対だめ、どんな内容のものでもいちど見てしまうと一ヶ月は眠れなくなるから、暴力的なものもいや、とにかくショッキングなものは嫌なの。きみは子供みたいだな。アニメーションもオーケーよ、ニモやトイストーリーは大好き。きみは完全に子供だ。ふふふ。きみは映画が観たいの?ええ。近所にレンタルできる店があるから明日でも明後日にでもいけるよ。あなたはダウンロードしないの?ダウンロードはしない。レンタルできるのってでも日本語でしょ?字幕は日本語だけれど音声はもとのままだよ、だから英語の映画を借りればいい、そうしたらきみは音声で、おれは字幕で理解できる、ふたりそろって楽しめるわけだ。小説を自費出版する可能性についてまた話した。「A」をBCCKSあたりを利用して製本してやろうかという魂胆はかなり以前からあるにはあったのだが、群像・文藝・太宰治と一次落ちが続き、おそらくは新潮もそうなるであろう目算の高くなったいま、新人賞頼りの一辺倒でいるのもいいかげん馬鹿らしくなってきたのだった。製本して、このブログ経由で販売・拡散することによって、出版社の度肝を抜いてやろうか。知るひとぞ知る小説を、この辺境の地から異なる辺境の地へと送り出してやろうか。小金が手に入り次第東南アジアに移住する計画もあるというと、彼女は驚いたようだった。もしタイにあなたが引っ越したらわたしきっと行くわ、そうしてあなたの家の庭にココナッツの木を植えてあげる、ココナッツってたった三年で実をつけるようになるのよ、南国の植物は成長が早いから、あなたはそのココナッツを食べればいい、そうしたらもう気絶しなくてすむわよ。
音楽をかけなおすために立ちあがったところで、小説の続きを書くつもりと問われたので、もう少しだけねと答えた。オーケイ、それじゃあ部屋の電気を消してくれる?もともと豆球だけになっていた照明をいちどだけ引っ張って部屋を暗闇にひたすと、おやすみと彼女はたどたどしい日本語でいった。おやすみなさいと返した。それから日記の続きを書いた。日記だろうと小説だろうとどうでもよかった。散文を書いているというたしかな歓びがここにはあった。書き物をしているじぶんの背後で寝息が聞こえる。するとおのれの宿命として禁じられているはずの両立があたかも可能になったかのような幻視が働くのだった。
われわれはきっとうまくやっていけるだろう。