20130807

朝から(…)の機嫌がよい。狂ったように歌って踊って跳ねて朝食を用意してくれる。なにゆえの躁転かと思ったが、どうやら昨夜の言葉がうまく響いたものらしい。朝から何度もキスした。国際交流会館でゲットした外国人用のイベント表を見て芸者とご飯を食べたいと言い出したので弱った。例の黒いドレスを着てクラシックを聴きにいきたいともいう。クラシックに関してはまあ構わない。ドビュッシーが好きだという共通点もある。スーツはあるのかといわれたので喪服ならあると答えるとそれでかまわないわたしはモーツァルトのレクエイムが聴きたいというので喪服でレクイエムって!と笑った。おむすびを作って外に出た。どういうわけかATMから現金の引き出しができず難儀していた問題であったが、外国のクレジットカードを日本で使用する際の限度額というものがあるらしく、引き出し金額を5万円から3万円に変更した途端にうまくいったので、Finally!とさけんでセブンイレブンで抱きあった。それから抹茶ソフトクリームを購入した。(…)は抹茶アイスクリームをこよなく愛している。ロンドンのジャパニーズセンターでは購入できない一品だという。それにロンドンではアイスクリームを食べることなど滅多にないのだ、一年中秋のような気候なのだから、仮に食べることがあるとしても震えながらである、だからわたしは夏に食べるアイスクリームの美味しさをこの二ヶ月間に目一杯体験しておくのだ、と、しかしそう語ったのは昨日のことである。セブンイレブンではアメリカ出身だという老人がわたしもまた似たようなトラブルに悩まされていたものだよと声をかけてくれた。日本に滞在する外国人ならばだれもがいちどは通過する儀礼のようなものらしい。地下鉄今出川駅から国際会館駅にむかった。それからバスに乗りつないで貴船口まで行き、そこから30分ほど歩いて貴船神社にむかった。彼氏にたのんで日本にマッシュルームを送ってもらおうか考えているというので、最近法律が変わったばかりでいろいろきびしくなっているからと制した。いわゆる床形式のレストランがいくつもあった。そのうちもっとも高級と思われる一件で(…)はトイレを借り、次いで店内を勝手に散策しては写真を撮りまくった。こういうとき日本人としての良識を備えているじぶんは若干の後ろめたさを感じてしまう。貴船神社に到着してからおむすびを食べた。それから境内の一画に坐りこんで山の中の涼気にひたった。キスした。ヨーロッパのキスと日本のキスは違うと彼女は指摘した。彼女はキスのエキスパートだった。はじめてキスしたときは17歳で、そのときは他人の舌や唾液がじぶんの口内にすべりこんでくるというその事実が気持ち悪く、直後に唾を吐いたという。それからどういうわけか一転してキスが好きになり、気づけばキス魔になっていた。いちどなどパーティで出会った男と夜中から明け方まで七時間ほどキスし続けていたという。キスだけなのとたずねると、それ以上はなにもなかったわと平気で答えるので、きみはすごく残酷だなといった。キスはとてもおもしろい、本当にひとりひとりがちがうやりかただから、あなたフレンチキスって知ってる?そうたずねるので、すごくライトなやつだろと、間違いであることを知りながらあえてそう応じると、ぜんぜんライトなんかじゃないわ、とてもヘヴィなやつよというので、じっさいにやってみせてくれよといった。たしかにものすごくヘヴィだった。わたしはじぶんがキスが上手だってこと知ってるわ、そういって笑った。それから不意に『ビフォア・サンライズ』について言及した。あれってあなたからのメッセージでしょ。聞かなくてもわかるだろ。きっとこの夏が終わってあなたはショートストーリーを書くんでしょうね。何についての?典型的じゃない日本人についての物語。その日本人は神社の片隅で本場のフレンチキスを体験する。わたしだってわからないように書いてね、あなたわたしの知られたくない過去をたくさん知ってるんだし。フランス人女性ということにしようか。フレンスキスだけに。フランス人女性と中国人男性の物語。決まりね。それから山をくだった。バスの車内で彼女はこちらの肩に帽子を脱いだ頭をあずけ、いくらか芝居がかった口調で、この夏が終わったらわたしはもう二度と日本に来ないでしょうねといった。行きのバスの車内でもやはり彼女は、この二ヶ月が終わればあなたにはもう二度と会うこともないでしょうねといったのだった。おれがいつかロンドンに行くかもしれないよ、ためしにそう言ってみると、あなたはそう思うの?というので、きみはどう思う?とたずねかえしてみると、わからないわという返事があった。その瞬間、この子は結局いまだに永遠を信じたがっているのだと確信した。変わらないたしかなものをだれかに保証してほしがっている。それがたとえ束の間のフィクションであれど。ロマンティストの定義がここに極まった。帰宅してから昨夜こしらえたカレーの残りを食した。それから布団にくるまって小一時間ほどじゃれ合った。首筋をきつく噛まれたので、噛みかえした。そうして裸に触れた。夜から五条坂の陶器市に行く予定が潰れた。それからYouTubeジム・キャリーオールマイティー』を観た。英語の勉強だと思って退屈を耐えた。コメディが好きな彼女はそのあと続けざまにMr.ビーンを視聴しはじめた。付き合わなければならない空気だった。なんてレベルの低いコメディだろう!しかし彼女はいちいち大笑いするのだった。ある程度の険悪さ、剣呑さ、空気の悪さ、そのようなものであればいまやボディタッチのひとつやふたつでたやすく解消できてしまえる、そのような空気がふたりの間に醸成されつつあった。この段階までくると気難しく頑固な異国人同士が二ヶ月をともにすごすことの困難もずっとやわらぐのだった。