20130809

何時に起きたかなんていちいち覚えていない。消費期限の切れまくった開封済みの小豆を(…)が甘く煮詰めてそれをヨーグルトに混ぜたのをパンの耳にのせて食べた。地下鉄で京都駅までいってそこからJRで山崎駅までむかった。今日もたいへん暑く京都駅に到着した時点で(…)はすでにバテバテだった。駅で電車待ちなどしていると(…)は必ずこちらの肩に顔をうずめたり身体ごともたれかかってきたりする。人前で馴れ馴れしくするのはこちらの趣味ではないが、こういうひとときがケンカの火種を消してくれるのだと思えば、人目も気にはならない。消費期限の切れまくった開封済みの小豆をまだだいじょうぶだと主張する(…)にこちらが難色を示したときも、たとえばこれが去年の夏であれば、というかつい先週までならばまず間違いなくケンカに発展していただろうに、いまはこちらの不快感を察するがいなやむこうからスキンシップをとって事をやわらかな方向に収束しようとする程度の配慮は示してくれるし、その効果は実際問題バツグンである。ならんで歩いていると腰に手をまわしてくることも多々あるのだが、これは落ち着かない。ふつうに手をつないで歩くほうが動きやすい。細部の文化差をおもしろく感じることはときどきある。パツキンを連れて歩いているとさすがに目立つ。いけ好かない野郎だという目つきでこちらを覗き見する男の敵意を感じることも多々ある。電車で少し気分が悪くなった。朝食をとりすぎたのに加えてとなりの座席に腰かけた(…)がこちらのみぞおちに彼女の重心がのしかかるような姿勢でもたれかかってきたのが原因である気がする。駅から出ている大山崎山荘美術館行きのシャトルバスに乗った。乗客はわれわれのほかに老人がひとり、彼は目的地につくまで運転手と終始世間話をしていた。コインロッカーにリュックサックをあずけて美術館に入った。バーナード・リーチの諸作品を見てまわったあと、一階の展示室の片隅にある黒革のソファでわれわれは休憩をとった。(…)はソファにあおむけに寝そべり、むきみの両脚を同じソファに腰かけるこちらの両腿に上にどしりとのせてみせるのだった。窓の外の木漏れ日がカーテンを透かしてますます細かくちぎれてゆらめきながら彼女の裸足を虹色に染めた。その虹色に左手の指先で触れた。爪をひたした。それから開いた手のひらで虹をすくい、次いで指先をゆっくりとたたみこんで手のひらに閉じ込めようとした。虹はつかまえられないわ、と彼女はいった。とても素敵なミュージアムね、と続けた。あなたこの建物に住んでいるじぶんの姿想像できる、と問うので、簡単ではないな、と応じると、わたしできるわ、と彼女は誇らしげにいった。居心地のよい沈黙がつづいた。わたしの身体に触れるときのあなたのやりかたとても好きよ、と彼女はいった。とてもジェントルだから。一階の展示室をすべてまわり、典型的な安藤忠雄様式の建物を地下にもぐりこみ、モネの睡蓮をながめた。あまりにも美しかった。遠慮をしらないはずの(…)がほかに見学者もいない空間でしかし声を落として静謐にこちらに語りかけるのだった。睡蓮の花はまだわかる、葉もぎりぎりわかる、けれどあの水の表面はいったいどんなふうにしたら描くことができるのか見当もつかないと漏らすと、何度もレイヤーを重ねるのよ、薄く、何度もくりかえして、と彼女はいった。そういう話をしているつもりではなかったが、得意気な顔で語る彼女に水を差す気にはなれなかった。いちど館外に出た。庭園を見学している途中、苔の蒸した石のつるつるに足をとられて無様にも池に着水してしまった。両脚が脛まで水に浸かった。情けなくもしかし大笑いした。転んだ瞬間ビニール袋に入れて持ち運んでいたペットボトルが石にぶつかって大きくうつろな音をたてた。(…)はそれをこちらの両脚の折れた音だと思ってとても心配したといった。庭園で休憩をとり、それからふたたび館内にもどって、二階の展示をみてまわった。喫茶室の見晴らしのよいテラス席で紅茶とケーキを注文した。われわれの希望したケーキはすでに売り切れていた。ワインケーキならあるというのでそれをオーダーした。運ばれてきたものを見るなり(…)はスポンジケーキじゃない!と絶望的な表情で叫んだ。こんなのケーキじゃないわ、がっかりよ、スポンジケーキなんてものはケーキの材料にすぎないのよ、それ自体はケーキじゃないの、と彼女は悲壮感あふれる表情でまくしたてた。彼女はおしぼりで顔を拭いた。おしぼりがぬるくなるたびに水の入ったコップに巻きつけ、十分に冷えたところでまた額にのせたり首筋をぬぐったりして暑気を追い払うのだった。ぶつぎれの雑談がいくつかと、簡単なキスと、昨日話題になった真顔のにらめっこが続いた。彼女の瞳を美しかった。水色。灰色。緑色。黄色。むかって右の目はやや緑がちで、左の目は黄色が勝っているようにみえた。あなたの瞳は茶色いのねと彼女はいった。ボーイフレンドの話をしても気を悪くしないと問うので、ぜんぜんしないと応じた。hundred percent?と彼女は念押しした。それは彼女の口癖だった。このあいだ彼とスカイプしたときあなたのことを聞かれたの、きみの友達はどうだいって、わたしそのとき……してしまったわ。うまく聞き取れなかったので曖昧な表情をしてうなずくと、あなたきっと理解していない、わたし……したのよと彼女はくりかえした。電子辞書を用いて彼女の意図を汲み取ろうとしたが、あいにくリュックサックはコインロッカーの中にしまいこまれていた。彼女は別の単語を用いてあらためて説明を試みた。きみの友達はどうだいって聞かれたときわたし一瞬だけ固まってしまったのよ。それできみのボーイフレンドは何かを察したの?わからないわ、でもたぶんなにかしら勘づいたんじゃないかと思う、彼わたしがあなたと去年の夏ずっと一緒に行動していたってことも知っているし。それから彼女は溜息を大きくついた。わたしずっと考えていたの、率直にいってわたしあなたといっしょにもっとたくさん時間を過ごしたいって思うわ、あなたと一緒にいる時間が好きなの、でもときどきやっぱり罪悪感をおぼえるわ。きみが罪悪感をおぼえる必要はない。どうして?わたしからぜんぶけしかけたのよ。そういう状況をつくったのはおれだよ。うそよ。本当さ、すべて意図的に仕組んだんだ。嘘つき。あの木のむこうにある黄色い葉っぱが見える?ええ。あそこだけもう色が変わりはじめている、まだ八月なのに。日当りがいいからでしょうね。きっと夏の終わりはあそこからはじまるんだよ。二度目のトイレからもどってきた彼女がなにかをこちらに問うた。聞き取れなかった質問は無視して、おれは昨夜とても長い文章を書いたんだけどと切り出した。きみの寝息を背後に感じながらたぶん三時間か四時間くらいずっと書きっぱなしでいたんだ、それでそのとき突然気づいたんだよ、おれはずっとじぶんひとりじゃないと文章を書くことはできないと考えていた、でも昨夜きみの寝息を感じながらきみがじぶんの背後にいることを意識しながらそれでもとても長い文章を集中して書くことができたんだ、わかるだろ、そのときおれは希望めいた何かを発見したような気持ちになったんだ。彼女はにこりと笑った。おれだってときどきじぶんの感情を表明することはある、ほんのときどきだけどね。あなた知ってた?あなたがそんなふうにじぶんの感情を口にしてくれるときわたしはいつだってとても幸せな気持ちになるのよ。われわれは美術館を後にした。電車に乗るまえにすませておきたいからと館外に設置されているトイレに彼女はふたたび立ち寄った。外のベンチに腰かけて待っていると突然警報音のようなものが聞こえだした。彼女の名前を呼ぶと、(…)が笑いながらおもてに飛び出してきてこちらの手をひっぱった。水を流そうと思ったのだけれどスイッチがたくさんあるし日本語で書いてあるからぜんぜん読めなくて適当なのをひとつ押しちゃったの、そうしたら警報だったみたいと彼女は早足で下り坂をおりながら大笑いして語った。とりあえず目についたスイッチを押してみるというこの行動はとても象徴的だと思った。彼女の性格を完全に言い当てているように思われた。電車に乗って京都駅に行き、地下鉄で鞍馬口までむかった。歩いてスーパーに行こうという(…)からのめずらしい提案があった。西日はまだまだ強烈だった。われわれは家族について語った。買い物で一悶着のきざしがあったが、やはり大事になることはなく冗談めいた物言いとスキンシップで両者のわだかまりはたやすく解消されるのだった。一週間のうちに三度もこちらが航空券を購入するからよその国に行ってくれというところまで行き着いたケンカをくりかえしていたあの日々はなんだったのだろうか。軒先に巣を作っているツバメを発見した。カメラをわたすと、必要ないわと彼女はいった。帰宅してから夕飯を作った。おもての水場でならんで野菜を切ったり洗ったりしていると同じアパートの住人の(…)さんに、いやー(…)さんいいですねーといわれた。サーモンと白菜の味噌蒸しは彼女の口に合わなかったらしく見えた。食後強烈な眠気をもよおしたので畳の上に寝転がった。まどろんだ。(…)に起された。こっちに来たらといわれたので、たたんだ布団をソファ代わりに半ばあおむけに寝転がるようにしてmansfield collectionを読み進める彼女の脇に寝転がってしがみつくようにしてふたたびねむった。身体を起した彼女の気配でまた目が覚めた。彼女は部屋の電気を落とした。それからこちらにむかいあうようにして寝転んだ。ことがはじまったが、やはり最後までいくことはなかった。とびきりロマンティックなシチュエーションにその一線を温存しておこうという彼女の趣味によるものか、それとも単純に生理がおわっていないからなのか、どちらにせよなにもかもが時間の問題であるように思われた。尋常ではない激しさは西洋の流儀ではなくむしろ彼女個人のスタイルだった。われわれは肩で息をするほど疲れきっていた。全身が汗ばんでいた。洗い物をするためにおもてに出た。過食のためか腹をくだし、三度もトイレに駆け込んだ。禁煙しようと思うと(…)はいった。メディテーションがはじまればいやでも禁煙せざるをえないじゃないかというと、まだ返事がないし行けるかどうかもわからない、それにわたしはいますぐはじめたいの、煙草を吸うたびにわたしは有毒物質がわたしの身体を破壊してその一部始終をはっきりと感じるのよと応じた。わたし禁煙してもいいかしら?あなたに迷惑をかけるかもしれないけれども。わかった、サポートする。本当に?本当にいいの?イライラすればおれを殴ればいいよ、ののしってもいい。あなたってひとは!シャワーを浴びた。それから(…)に連絡をとった。ほぼ同時に(…)さんから電話があり、(…)が(…)さん宅に忘れていった下着があるからというので、これから喫茶店にむかうつもりであるしそこで落ち合いましょうという話になった。(…)が仕事のことで悩んでいるらしいから話をききにむかうと(…)に嘘をついた。彼女はインターネットで禁煙に役立つスパイスやハーブについて検索していた。喫茶店で(…)や(…)さん相手に日本語でたくさんおしゃべりした。愚痴とものろけともつかぬ何事かを口にしているという自覚があった。それから間男の立場を存分に満喫しているだけのじぶんの冷酷さを思った。彼女はロマンティックな奇蹟を信じたがっている、その性格を利用してじぶんは甘い汁だけを吸おうとしている、たくさんの嘘を平気でついている、そうしてあるいはこのような言い分さえもがもはやじぶん自身にたいする一種の嘘でもあるかもしれないという可能性を否定できないでいる。