20130917

朝方に汗だくになって目覚めた。思えば昨日も同様の寝覚めだった。夜はそこそこ冷えるようになってきたので布団をかむって眠るととても気持ちがよくてぐっすりなわけだけれど、さすがに四時間五時間そのままでいると汗でぐしょぐしょになるくらいにはまだ夏である。それでも布団から抜け出しバスタオルで汗をふいてあたらしい半袖に着替えるころにはやはりそれ相応の肌寒さを覚える午前8時なわけで、ホットコーヒーがたまらない。泣きそうなくらいうまいのだけれど、この泣きそうは純然たる味覚の歓びというよりはむしろ季節の変わり目にたいする感傷によるところが大きい。季節の変わり目に弱い。突発性難聴とクインケ浮腫をたてつづけに喰らった秋以降自律神経がわやになりがちであるし、冬から春にかけてのそわそわする歓びの予感を逆行する夏から秋にかけての道のりにはおそらく程度の差こそあれだれでもそうなのだろうけれどはっきりめっきり気落ちする。精神が滅入る。そうしてときおり無性にせつなくなって消え去りたくなる。こうやって書いているだけでもう12月のきぜわしさをありありとまざまざと触知する気分がある。この春先「偶景」に、そうしておそらくはこのブログにも、冬から春にかけての季節の変わり目にはいくぶん性的な期待感のようなものがあると書きつけたのを思い出した(そしてその期待感はある意味で報われた)。「偶景」ももうずっと書いていない。このあいだ(…)とロフトに行ったとき小さなノートを買って、モレスキンのとか買っちゃおうかと調子こきかけもしたのだけれどじぶんにとってノートというのは使い捨てるものにすぎず、ばりばりに破って壁にはりつけたりそれも用済みになったらくしゃくしゃに丸めてゴミ箱にポアしたりそういうものであるのだからと物欲をなだめて安いものを買ったのだけれど、というのもポメラはやっぱりどうにも書きにくいし、それに「邪道」の続きを書くのならまだしも「偶景」のような断章形式であればメモだろうとチラシだろうとノートだろうとどこでも簡単に書きつけることができるという強みがあって、(…)にふりまわされっぱなしの日々の隙間をどうにかかきあつめるかたちでせめて「偶景」だけでも更新していければと、そういう按配から購入して、そうして事実、彼女と行動をともにしだして以降の日付をふりかえってはネタになるあれやこれやを書きなぐっていたりするのだけれどもやはり偶景というのは鮮度が命みたいなところがあって、思い出せるのはせいぜい沖縄前後あたりから、それ以前となると大きな出来事こそ思い返すことができるものの、とても小さな、それでいて垂直性と特権性の芽をそのうちに認められないこともない、そんな出来事は簡単に風化してしまうというかこの定義ってそもそもバルトの偶景とは大いに逸れているのだけれど、それはいいとしても風化じゃないな、そうした事象や出来事を観察するための感受性をはりめぐらす余力もないままあっという間の気ぜわしさのうちに二ヶ月が過ぎ去ろうとしている、そんな具合であるというのが正直なところで(…)は今日も帰ってこなかった。こういうことを書きつけるとのちのち後悔することになるのはわかりきっているのだが、日記というのはやはりある種ドキュメントのようなものであるのでなるべく正直にをモットーにやっていくのが筋というもので、だから書くと、すでにもうさびしい。このまま別れるのはちょっと嫌だ。だからといって彼女の滞在先にじぶんから訪れるような真似だけはぜったいにしたくないし、仮にむこうから折れてやってきたとしてもそれですぐさま和解というふうにはふるまえないじぶんの性格も知っている。朝食はヨーグルトとバナナとハチミツとパンの耳で、これは完全に(…)に影響である。
BCCKSにログインして延々と「A」の表紙画像を作成しつづけた。gimpで制作した画像をそのまま貼りつけたほうがフォントの種類も多いしレイアウトも自由であるしと思ってそうしようと思ったのだけれど、いざフォントを打ち込もうとしたらなぜかアルファベットしか対応しておらずなんでやねんっとなって諦め、そこからひたすらBCCKSの機能制限ありまくりのエディタで工夫に工夫を凝らしていくつかそれらしいものを制作した。クリムトのダナエを表紙に利用してみるとなんとなくいい感じになって「A」の内容とも絶妙な距離感がとれているデザインになった気がしたのだけれどでもクリムトかークリムトってなーみたいなところもやっぱりあって、そうこうしているうちにそうだ、『フォーエヴァー・モーツァルト』の赤いドレスの女優が度重なるリテイクの後で最高のウィを発するあの浜辺の場面とかいいんじゃないかと思って、それで日本語と英語それぞれで使える画像はないものかと検索してみたのだけれどほんの少ししか見つからず、くわえてその検索の過程でウインドウズだったらgimpでも日本語フォントは使えるのだけれどマックだったらすこし手間をかけなければならないみたいな情報ののっているページにヒットし、ということは逆にいえばgimpで表紙をデザインするっていう線もぜんぜん生きてるわけじゃん、ていうかなんでそれもっと早く調べようとしなかったんだろ、しょぼいエディタで四時間だか五時間だかしらんけど悪戦苦闘する必要なんてぜんぜんなかったじゃんと萎えた。昼には救援物資の冷凍食品と玄米と納豆を食べた。常ならば昼飯は食わない主義であるが、朝食と昼食はたっぷりとって夕食は簡単にすませるという(…)方式に傾いているところもあって、そうなった。昼下がりには大家さんが部屋にやってきてカレーを食べてくれという話で、これ二日か三日ほど前に作ったのを冷凍してくれていたものなのだけれどそういえば大家さんはここ数日(…)のことについていっさい触れない。いつも顔をあわせるたびに今日はふたりでどこに出かけてきたのかと必ずといっていいほどたずねてきたのに今日も昨日もその前もたずねられていない。明日カレーを作る予定だからと風呂場の窓越しに告げられたのはいつだったか、そのときにはイギリスの方にも持っていきますといわれて、あわてて彼女カレーは食べられないからといって家出の事実を隠そうとしたりしたのだけれど、それ以来大家さんがてんで(…)のことに触れなくなったという事実が、おなじ夜だったか次の夜だったか、風呂に入るために大家さんのところにいくと風呂場のそばにバケツいっぱいの花束がいけてあって、そのとき直感的にこれ(…)が贈ったものに違いないと思ったのだけれど、ひょっとして(…)は大家さんにじぶんはもう帰国すると告げたのかもしれない。(…)さんに通訳してもらって?(…)さんとは(…)の家出後なんどか水場で顔をあわせてはいるのだが、あいさつ以上の言葉を交わしていないので真相はわからない。(…)さんもおそらく妹さん伝いに(…)の家出の事実は知っているのだろうと思う。カレーはわずかに酸っぱかった。かまうものかと喰らった。時刻は16時過ぎだったと思う。
17時すぎにようやく重い腰をあげた。地下鉄で京都駅にむかった。台風一過の晴天のもと、鴨川あたりで寝転がって読書でもしようかと考えていたのに、結局日中はずっと作業に追われてしまい、やめどきを失ってひきこもってしまった。これがじぶんだ。ひとり暮らしのじぶん。いつもこう。京都駅にむかったのは地下街にあるアクセサリー屋で(…)のためにプレゼントを買うためで、いつだったか(…)がそこでヘアアクセサリーを試着しまくってこれすごくいいといった一品があったのだけれどでも結局節約のために買うのをあきらめていて、そのときふと、これ別れ際のプレゼントにはちょうどいいかもしれないなと思ったのだけれど、つい数日前だって、たしか家出する前日か前々日だったと思うけれども、わたしもしお金が残っていたら京都駅の店に空港にむかう前にたちよってあのゴージャスなアクセサリーを買うわといっていたのでやはり贈り物にはうってつけである。しかもせいぜい2000円かそこらだ。というわけで向かったのだけれど、というのも空港にむかう前に立ち寄るったって関西空港発の飛行機が昼前の便であることを考えると10時だか11時だか開店の店で当日買い物というわけにもいかないだろうし、別れ際に空港でプレゼントを渡すくらいのことはしたほうがいいだろうと、これはある種の保険みたいなもので、というのも万が一相手がなにか別れ際にこちらにさしだしたときにこちらがそれに応ずることができないというのはちょっとアレなので、そういう意味で必要だと思った次第であるのだけれど、あとは(…)が家出が戻ってくるとしたらおそらく明日か明後日だろうというのがこちらの当初よりの目算で、土日月とこちらが三連勤であることも踏まえたうえでのふるまいだとすればそれで火曜日にいきなり戻ってくるとなるといかにもその意図のあけすけであるのが不細工であるから余分にもう一日追加、というわけで帰還は水曜日以降になるというのがその目算の内実なわけだからやはり買い物には今日いかなければいついくのかという話で、そういう次第の京都駅、くだんのアクセサリー屋に立ち寄ってみたところ商品がすべて秋物に転じており目当ての一品はすでになかった。しかたがないので近くにあった靴下屋で(…)がbeautifulを連呼していた靴下を二足買ってプレゼント用に包装してもらった。これで奴が帰ってこなかったらとんだ間抜けだ。こちらが履くわけにもいかないサイズ24センチである。
思いのほか買い物が早くすんでしまったのだけれどこのまま帰るのも癪なのでヨドバシカメラの近所にあるスタバで読書することにしたのだけれど、このスタバも(…)と二度ほど来たことがあって、というか我が輩の辞書にスタバの字はないというくらいスタバとは無縁な生活をこれまで送ってきたそのせいで肌寒い夕刻にもかかわらず抹茶フラペチーノとかいう氷のガンガン入っている飲み物を注文してしまって、席につけばついたでネコドナルドとそう変わらない客層と喧噪でてんで読書になど集中できない按配だったものだから辞書に書き込まれたばかりの文字をふたたび消しゴムで消した。テラス席についていたのだけれどこちらの前方に大型犬を連れた男性がすわっていて、犬は一見するとバーニーみたいなのだけれどそれにしてはちょっと巨大すぎるものだからセントバーナードなのかなと思いもしたのだけれどほかの客と飼い主の男性がしゃべっているその会話からやはりバーニーであることが判明し、ウィキペディアによるとバーニーズ・マウンテン・ドッグというのが正式名称らしいのだけれどうちの家族はみなあの犬種のことをバーニーという。たぶん図鑑の表記のせいだと思う。もう死んでしまったけれど(…)という雑種犬がかつて実家にいて、もらわれてきたばかりのころに弟が母親といっしょに犬の図鑑をながめて彼の血筋を推測したその候補のひとつがバーニーだったためにバーニーというのはいまでもちょっと特別な犬種として脳裏にきざまれているし、そもそも町であまり見かける犬種でもないので今日のようにめずらしくモノホンを見る機会があったりするとちょっとじっくり観察したくなってしまう。わざわざスタバに連れてくるくらいであるしきっちり訓練してるんだろうなと思ったし、じっさいバーニーは飼い主がテラス席に腰かけているあいだそのかたわらでじっと伏せをしていたのだけれど、ただ時間が経つにつれてそわそわしはじめ、歩行者らの密集するほうにのそのそと出かけていっては飼い主にあわてて引き戻されたり、それから今度は逆にこちらのほうに近づいてきたり、いちばん面白かったのはさすがに退屈にたえかねてしまったのか、たぶんスタバのものであるように思うのだけれどプランターに植えられた植物を根っこのほうからガシガシ食いはじめたときで、さすがにそのときはちょっと吹き出しかけたし、飼い主の男性もクソあせっているように見えた。とちゅうでいちど飼い主が席を離れたことがあって、便所かコーヒーのおかわりかと思っていたらコーヒーのおかわりだったのだけれどその不在の間中バーニーは言いつけられていた伏せの姿勢をすぐさま破っては飼い主が去っていった方角にものすごく悲しそうな目をむけて棒立ちになっていて、ゆきかう歩行者らがかわいいーと声をかけたり写メをとったり頭をなでようとしたりするのもぜんぶガン無視で、ただじっと飼い主の去っていったほうを不安そうにながめていて、この表情をみたら少なくともこの犬がいまとても不安になっているということくらいわかるんじゃないのかと思うのだけれど通行人は関係なしにかまいたがろうとして、これもう少しナイーブな犬だったらガブリといきかねないぞと思いもしたのだけれど犬と暮らした経験のあるなしってたぶんすごくでかくて、犬ってほんとうに表情がゆたかで喜怒哀楽がああもわかりやすい動物ほかにいないんじゃないかと思うのだけれど、ただそんなふうに感情を読んだり察したりできるのもこちらが長いあいだ犬といっしょに寝起きしていたそのためなのかもしれない。そうこうするうちにバーニーはうろうろとロープでつながれたせまい範囲を歩きまわりはじめ、口元なんてとてもゆるんでいるし呼吸はどんどん早くなっていくし、ひんひんひんひん泣き出すのも時間の問題なんじゃないかと思っていたところに飼い主の男性があたらしいコーヒーを片手にもどってきたそのときのバーニーの幸福と安堵のあの顔色!
女子高生の話し声がやかましいのでフラペチーノの氷だけ残して席を立った。手持ちの本は廣松渉『哲学入門一歩前』で、これこのあいだの『神秘思想』だったか『神秘体験』だったかいう本とおなじくスーパーの古本市で百円で購入したものなのだけれどその残りを京都駅の地下街のベンチでまた少し読み進めて、それから地下鉄でふたたび家にもどった。帰宅してからも残りを読み進めて、読み終えて、それからシャワーを浴びに大家さんのところに出かけるとシャワーが直るのは明日だというのでさすがに冷水を浴びる気にはなれず、都合ふつか洗髪できていない。「偶景」書き足したり「A」の表紙画像制作したりしてひさびさの夜更かし。