20130926

関係の袋小路を横切れ黒猫

(…)との二ヶ月を経由することでもたらされた数々の変化のうち目立って自覚されるものがふたつあってひとつは昼飯時に腹が減るようになったということで、というかもともと空腹を感じることはあったのだけれどコーヒーをがぶ飲みすれば当座のしのぎにはなったというか要するに我慢ができたのであったのだけれど、その我慢がならぬほど強い飢餓感に見舞われるようになってしまっているおのれをここ数日まざまざと実感していてこれはひとまず食欲にまつわる変化であるといえる。もうひとつの変化はまったくもって興味もなければ食指の動くことすらなかった洋物ポルノがやたらと親密に感じられるようになったという変化で露悪を承知で率直にいうならば実用に耐えるようになったということなのだけれど、この変化はある意味では予想できていたというか性欲というかフェチズムというか嗜好というのは要するにそういうものであってたとえばEさんはかつて胸のおおきな女性にまったく興味がなかったのだけれどいちどそのような胸の持ち主と関係を持ってしまって以降自他ともに認める巨乳フェチになったと語っていてこの手の変化の筋道というのは世の中にあふれかえっている。児童ポルノがうんぬん規制がうんぬんと騒がれてひさしい昨今であるけれどこの手の喧々囂々は大麻解放論と似ているところがあって、規制派が飛び石理論を根拠とするのにたいして規制反対派はガス抜き理論を根拠とする。そうして両者が両者ともにおのれの正しさを主張しあって一歩も譲らない。アホか。飛び石理論、ガス抜き理論、両者ともに一理あり、これに決まっている。(…)食欲と性欲の変化について書いたのであるからにはやはり睡眠欲の変化について書くべきなのだろうが、朝方に転じていたこの二ヶ月の生活リズムも今日をかぎりにかつてのリズムを刻みなおしはじめているのでなんともいえない。夕食をとってからひさしぶりに仮眠をとった。仮眠!なつかしい響き!(…)は昼食後しばしばナップをとりたがった。屋外でナップをとるとき彼女はかならずあぐらを組んで地べたにすわりこむこちらの脚を枕代わりにした。それは映画でよく見る西洋人男女の光景だった。
仮眠をとるまえには夕食をとった。夕食をとりながら観たのはアッバス・キアロスタミの『トスカーナの贋作』だった。真作と贋作、オリジナルとコピー、真実と虚構、手垢のついた二元論を中核に据えているにもかかわらずかくも魅力的なのはジグザグ道三部作からはじまって『桜桃の味』のラストシーン、そうして『クローズアップ』にいたるメタフィクションの過激な筋道の地平線上にこの作品があるからにほかならなかった。主演ふたりによる車内でのぎくしゃくしがちな対話、そうしてジュリエット・ビノシュが喫茶店の女将と交わす淡々として味わい深く形式的にも切り返しを多用した小津安二郎をしのばせる会話、それらのしみわたるような美しさにときおりハッとさせられながらもしかし意識の片隅には常に次々に展開されていく口論といさかいのさまざまなヴァリエーションが思い当たるところのおおいにある苦々しさと重なりあって、いまだ感傷のかさぶたすら実らぬ苛立ちに膿んだ月日を想起させるのだった。主演ふたりの会話は気づけば英語から仏語へ、仏語から英語へと転じていた。その基準を探り批評の軸足とするにはあまりに個人的な記憶と重なるところの多くこちらの注意をかきみだす映画であった。形式を透過しようとするまなざしがことごとく近い過去に曇らされた。
曇りがちな日ではあったが、晴れ間もむろんあった。風が強かった。図書館のむかう途中これは春一番かもしれないと考え、考えた次の瞬間に春ではない、秋であると思いなおしたが、だからといって木枯らしといいきってしまっていいものかどうかはわからない。Y字路の中州にもうけられた公園にたちよって瞬間英作文の続きに取り組んだ。朝から自室にこもりイヤホンを通して語られる日本語を延々と英語に言い換えていたその営みの窮屈さにたえかねて70ある単元のうち50まですませたところで気分転換に図書館に出かけたのだった。図書館ではSIDEを返却して高橋幸宏冨田ラボを借りた。本日返却という札のもうけられた背の低い棚の中に鈴木道彦によるプルーストの研究書があった。中州のベンチにひとりで腰かけて残り20単元をかたづけた。日が照ると肌の灼けるじりじりとした粒立つような暑さを感じたが、曇れば途端に風が冷たかった。今年はじめての秋服を身につけていた。ベンチに腰かけながら何の気なしにながめていた車道をまたいだその先にある建物に外国人の行列がスーツ姿の日本人二人組に先導されて入っていくのが見えた。留学生用の寮かなにかなのかもしれないと思った。金髪と白い肌を目にするとかすかにうずくものがあった。それは(…)が家出をして以降ずっと続いているみじめな反射だった。スーパーで芋とカボチャを買った。根菜が安い。市場はすでに冬のよそおいである。
米の炊けるのがまちきれなかったのでラーメンを食していると、あるいは炊けた米をサランラップに包んでジップロックに収納していたときだったか、網戸にしてある小窓越しに聞き慣れぬ声を聞いた。見遣ると黒いスーツ姿の中年男性がいて、お食事中のところすみませんという。小窓越しに話を続けようとするので玄関の引き戸をひいておもてに出ると、こちらの部屋の裏手にあたるのは教会かと問う。大通り沿いに教会らしい建物があることにはもちろん気づいていたが、その建物が自室の裏手に接しているのかどうかは定かでない。なにかしらの建物に接しているのはまちがいないのだが、いまだにその正体はつかめないというか位置関係のまったくもって定かでないところがあり、(…)にせよ(…)さんにせよ、それからたしか(…)も同じ疑問を口にしたことがあったような気がするが、この部屋をおとずれたことのあるひとはみなベニヤ板いちまいで仕切られた東の壁のむこうがわにいったい何があるのかとたずねてみせる。わからない。おとついはじめてその壁の向こう側でひとの動く気配を感じた。勘違いだったかもしれない。南側に接している抗議文の男の足音をそれと誤解しただけかもしれない。どうでもいい。あの教会は空いているんでしょうかと男はたずねた。知るわけがなかった。ごまをするような仕草や物言いがなんとなく気にいらなかったので冷たくあしらった。そういうふるまいをとるじぶんがときどき情けない。
めっきり秋であるのにいまだに水場まわりには蚊が多い。最後に一花咲かせんという気負いすら感じられる獰猛さでむきみの両脚に次々とたかってみせる。夕飯の支度をしているほんの十分の間に六匹は叩きつぶした。叩きつぶしたものの残骸をながめるとたしかに腹の縞模様になったヤブ蚊の多いように感ぜられた。先週の出勤日、この時期になってくるとシマシマ模様の蚊がたくさん出てくるから痒いやろと(…)さんがいうのを聞いて、ヤブ蚊とは夏の終りに盛んになる種であったかとはじめて知る知識に疑いと驚きを同時に覚えたのであったが、真相はしれない。ウィキペディアでもチェックすればいい。水場に立って調理していると、腕や脚に蚊のとまる感触をしばしばおぼえる。そのたびに平手をおおきくふるうのが癖になっているのだけれど、ふるう寸前に該当箇所にすでに標的の姿がないことを視認している、それにもかかわらず思いきり平手を打つということがたびたびある。これは偶景になりうる。
いつでもお風呂に入ってくださいと例のごとく不必要な通知をもって部屋の戸を勝手にあけてあらわれた大家さんが畳の上にごろりと置かれたままになっているブロックを見るや否や、その上にたてられた蝋燭の残骸に釘付けになってこれはなんでっしゃろというので、まさか木造畳の一間で毎晩のように蝋燭を灯していたとはいえず、かといって咄嗟のことに有効な弁明をひらめくこともできず、ゆえにただただどもり、それからもう終わったんですとわけのわからない言い訳を続けて口にした。すると、えっ?蚊取り線香?という耳の遠い返答があったので、そうです、そうですと応じた。思わぬ角度からの助け舟だった。これは偶景になりえない。そうでもないか。
仮眠をとってから薬物市場に出かけて「偶景」の続きに取り組んだ。プラス3枚で計221枚。日付がまわって帰宅して、腕立て伏せをしたあとにジョギングに出かけた。すずしかった。途中で腰が痛みだした。シャワーを浴びて外にでると湯冷めしそうな夜だった。すばらしいウェブサイトをながめて寝た(http://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/24C4HVTMLWVZP)。