20131031

山の上で僕は一晩を過ごしたことがある。百歳の樅の木の下でひとり草の上に横たわり、夢を見た。太陽が灼熱の炎を僕と草地に投げかけていた。平地からピイッと鳴る音と鉄道の騒音が昇って来た。僕は全世界から遥か遠く離れているような気がした。僕は何も眺めていなかった、そうやって自分を眺めさせていた。少なくとも一匹のリスは、長いことそうしていた。リスは呆気にとられ不安げに僕を見下ろしていた。僕はリスの好きにさせていた。トガリネズミが岩石のあいだで飛び跳ね、太陽は沈み、牧草地は黒々として透ける影の中でつやつやと光っていた。ああ、なんという憧れ。何に憧れているのか、わかればいいのだけれど。
(ローベルト・ヴァルザー/若林恵・訳「フリッツ・コハーの作文集」)

のんきでおさないムージルといった感。



9時半起床。寒いので朝起きるのがむずかしくなってきた。どうにかして身を起こしたところでなかなかスイッチが切り替わらない。歯を磨きながらうとうとしてしまう。窓がないためにさしこむ日射しもなく、おかげで部屋の空気はとても冷たい。毛布をおもてに干してダニスプレーを噴いた。
どういうきっかけであったかWikipediaルー大柴の項目を目にすることになって、というか基本的にWikipediaでぜんぜん縁のない人物の経歴やトリビアをながめるのがとても好きなのでこういうことはしばしばあるのだけれど、とにかくクソおもしろく、《関根勤のことを「トム」、その娘の麻里のことを「メァ〜リ〜」と呼び、前述の伊集院光のラジオ番組内では、恩師・勝新太郎のことを「“ビクトリーNEW太郎”」と呼んでいた》とか《近年は舞台活動をメインにしていて「ルーさん最近テレビに出てないね」と“風のボイス”を耳にしたルーと、ルーのマネージャーとの話の中から「50歳になって、今までの自分にないことをしよう」というきっかけで、自らのブログを開設する事にした》とかの記述で腹をかかえて笑った。とくに「ビクトリーNEW太郎」がツボに入って五分間くらいずっとひとりで笑っていた。というかこれを引き写しているいまも笑っている。
12時前より「A」推敲。16時半まで。23/40枚。じぶんが引っかかりをおぼえるところがいったい何なのかだんだんとわかってきた気がする。いちばん許せないのはたぶん主語と述語がきちんと結ばれていない文章で、息の長い記述のとちゅうで視点が微妙に食い違ってしまっていたり能動と受動が混線していたり時制にあやしいゆらぎがもたらされていたりすると、すごく落ち着かない(しかしそのような居心地の悪さが魅力になるケースというのも多々あって、たとえば中原昌也の文章なんかはとくにそうだ)。読点のむずかしさについては、書き言葉としての絵面と話し言葉としてのリズムのいずれを重視するかによって解の異なるケースというのが稀に存在し、そこで悪戦苦闘するはめになる。ただ、絵面については周囲の漢字をひらがなに開くことによって案外バランスがとれたりすることもあるということが最近ようやくわかってきた。漢字の開きなんてこれまでほとんど気にしたことがなかったけれど、これは意外に重要な要素らしい。記述には絵画的側面と音楽的側面がある。この交差路においてこそ事故は多発する。そこをいかに食い止めるか。
作業途中トイレにいくためにおもてに出ると、きのうKJが越してきた部屋から白髪まじりのおっさんがひとり出てきて、見覚えのある顔だとおもったらいぜん勤めていたAV屋の常連客だった。というかこのおっさんは以前にもアパートの周辺で見かけたことがあり、たしか近所にあるお祭りかなにかの実行委員みたいな法被というか白装束みたいなものを身にまとっておとなりさんと立ち話をしているのを目撃してブログにもそう書きつけた記憶があるのだけれど、検索をかけてみてもうまくヒットしない。こんにちは、と声をかけてみたら、こんにちは、と返事があった。気づいているかどうかはわからない。仮に気づいていたとしてもぜったいに反応などしないだろうが。日曜日の朝に来てはジュニアアイドルのイメージビデオを必ず一本買っていく客だった気がするが、顔を見たとたんに反射的にイラっとしたことを思うと、長々と滞在しては結局何も買わずに出ていくかあるいはやっすい特価本を一冊だけ買って帰っていくようなたぐいのアレであったかもしれない。どうでもいい。おれもきさまもろくなもんじゃあない。
ここ二週間ほど毎日のようにおなじ原稿を読み直し書き直ししているそのせいで頭がどろどろになっている感があり、作業中なども唐突な無力感に見舞われることがときおりあるというか、今日などはじつにひさしぶりにものすごい強度でいますぐ死ぬべきではないかという衝動に突き動かされかけたりもしたのだけれど、買い物にむかうために外を歩いているとそれだけでぐずぐずした気持ちのあっというまに晴れていくようなところがあり、外に出ることと身体を動かすことのこの二点は精神衛生上ものすごく重要であるなと、当然の事実を当然のように認識しなおした。歩きながらもちろんブツクサ英作文をやっていたわけであるけれど、帰路などははやく帰宅して走りに出かけたいという気持ちがたいそうな勢いでふくらみだし、それだから帰宅してすぐにPから誕生日プレゼントにいただいた例の自重トレーニング本を参考に腰に負担のかからない腹筋をこなし、念入りにストレッチをして、それで走りにでかけた。じゃなかった、その前に大家さんのところにいって扇風機をあずかってもらったのだった。ジョギングは走りはじめこそ腰に違和感をおぼえなくもなかったけれど、じきに気にならなくなって、それどころかむしろだんだんと気持ちがよくなってくるというか、別段ランナーズハイうんぬんになるほどがっつり走りこんでいるわけではないのだからこれは単純に血のめぐりが良くなることによる快感というか身体の火照りみたいなものだと思うのだけれど、基本的に冷え性で手足の指先など夏でも冷え冷えな人間であるのでしっかりと血の巡っている感みたいなものは得がたく快感である。しっかり走って汗をかいてそれでシャワーを浴びていると大家さんが扉越しに話しかけてきて、なにかとおもったらちょうどNHKで御所の無料拝観がうんぬんとやっていたものだからアレだったら明日にでも見に行ってこればどうかという話だった。大家さんはまったく同じ話を、なにかの用事で大家さんのもとをおとずれたらしいKJかパワー型ユニットにも伝えていた。風呂からあがって飯を食おうと思ったら米がなかったので参った。マッシュドパンプキンを米代わりにしてひさしぶりに満願寺とうがらしを炒めた。満願寺とうがらしはうまい。
(…)のことを思いのほかなつかしく思い出すことがない、当初想定していたような感傷が芽生えてこない、予想をうらぎられたその驚きを介してのみ彼女のことを思い出しているじぶんを自覚した。
食後15分ほどの仮眠をとったのち(…)に出かけた。今日明日の二日間で原稿を仕上げなければならないことを考えると、終日自室にこもって効率の悪い作業をするのはよくないなと、アーロンチェアがあろうとなかろうとそんなのは関係なくて一日のうち半分は外に出て作業をしたほうがぜったいにはかどるということを経験的に知っているので、コーヒー代をケチっている場合でもなしということで出かけた。そうしたらむちゃくちゃはかどった。都合何周目になるのかぜんぜんわからない推敲がこの日をもって完了した。サンプル本3.0をゲットしたらまた手を加えてしまうんだろうけれど、いずれにせよひとまずこの周回には目処がついた。きりがないきりがないとはいいつつも、それでも周回ごとに確実にひとつずつ難所を潰すことには成功しているのであるし、いつかは完璧にたどりつくこともあるのかもしれない。書籍を制作していることについては誰にもいっていない。隠しているわけでもないのだけれど、問わず語りするほどのものでもないだろうと思う。小説を書いているというと必ずといっていいほど読ませてくれという反応があるのだけれどその大半が社交辞令だろうし、そうでなくてもふだん小説を読まないひとがじぶんの書くようなものを読んだところで苦痛にしかならないだろうこともよくわかっているのでこれまでずっと適当にお茶をにごしてきたわけであるし、そのごまかしをひとまずは今後もつづけるつもりでいる。小説を書くときに具体的な読者像を想定することはまったくないし新人賞に応募してきたのだって多くのひとに読んでもらいたいみたいなアレでは全然なくて、というかそもそもじぶんはひとにじぶんの書いた小説を読んでもらいたいのかどうかいまだによくわからないところがあってこれ考え出すとけっこうやっかいなのだけれど、でも最近おもったのは以前のように書いたそばからデータを削除したりすることがなくなったということで、この変化が意味するところはすなわちじぶんはじぶんの書いたテキストをこの世界に存在させておきたいという欲望を有しているのではないか、だからたとえば執筆途中の「邪道」や「偶景」が今後だれの目にも触れなかったとしてもべつにそれはそれでかまわないのだけれど(とはいえそれはすでに余生を労働なしで過ごすことのできるだけの金をもっていればの話であって、労働に時間を割く必要がある現状として書きあげた小説は新人賞に応募するだろうしほかに金に変換する道はないかと右往左往もするだろう)しかし書きあげたそれらのデータが消えてしまったらまずまちがいなく大号泣するだろうと思う。プロデビューしさえすれば書いたものが多かれ少なかれ金に変わるわけであるし金が入ればそのぶん働かずにすむのであるし働かずにすむのであればその分書くための時間を確保できるのであるしというこの正なる連鎖だけがじぶんをプロに駆り立てる推進力であり、今度の書籍制作だってこれをきっかけにしてうまい具合に話が転がりだせればいいのだけれどみたいな下心があるわけだけれど、ただそれとはまた別に、このブログをのぞいていてくれているひとたちのうちじぶんと直接面識のないひとというのは純粋にじぶんの書くテキストになんらかの興味をもって追いかけてきてくれているわけであってそのひとたちにこういう書いているんですわとぶっちゃけたいという気持ちもある。下手に面識のあるひとたちよりもこのテキストを介してじぶんに興味をもってくれているひとたちのほうがよほどじぶんには親密に感ぜられるし、これはずっと以前にも書き記したことがあるけれどもこの日記の読者のほうが下手な友人知人顔見知りよりもじぶんのことをよほどよく知っている。そういうひとたちとのひそやかな共犯関係を強化するものとして今度の紙本制作はある、みたいなことをときどき感じないこともない。これまでさんざん大口を叩いてきたそのわりにはじぶんの書いたものをおおっぴらには公開してこなかった、そこのところをいっちょう帳尻合わせにかかるか、みたいな。というわけであらためて宣言しておくと、「A」は明治以降に発表された日本の小説上位50位に余裕でランクインする傑作である。いましばらく待たれよ!