20131106

ある男が自分のコンピュータに向かってこうたずねた。「お前はいつか人間みたいに考えられるようになると思うか?」すると、コンピュータがしばしジージー、ブンブンやってから吐き出した紙にはこう書いてあった。「そのことで、ある話を思い出したんですが……」
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「メタローグ:なぜお話するの?」)



10時起床。腹筋がすごい筋肉痛になっていて驚いた。トレーニングの方法を変えただけでこんなにも効果に差が出るものか。これまでのやりかたではあまり響くことのなかった奥深いところまでしっかり効いている感じがする。すごい。(…)に感謝。
なにかの拍子にセシル・テイラーが今年の京都賞を受賞しているということを知ってあわててコンサートかワークショップのたぐいはないものかと検索してみると来週の火曜日に田中泯とのデュオがあるとのことですぐさま申し込みメールを入れてみたもののすでに定員いっぱいだった。最悪だ。これを逃したらもうおそらく二度と生で見ることなんてできないだろうに。なんということだ。迂闊にもほどがある。伝説を目の当たりにするチャンスをみすみす逃してしまうなんて。痛恨の極みというほかない。数年前のブーレーズは最前列でながめることができたのに。ここ一年ほどこうしたイベントごとにたいするアンテナの張り方がとてもおろそかになっている気がする。しっかりしないといけない。後悔さきに立たず。いまさらどうしようもない。悔しい。
足下が寒いので押し入れの奥で眠っていたスリッパを出した。12時前より発音練習&音読。16時前に終了。発音練習用にしているテキスト『英語耳』もそろそろ50周とかになってくるのであたらしいものに変えようかなと思っているのだけれど、次はどれにしようかといろいろ検索しているところに続編として出ているらしいこれ(http://www.amazon.co.jp/ベッキー・クルーエルde英語耳-友だちとの会話編-松澤喜好/dp/4048700928/ref=cm_cr_pr_product_top)がヒットして、ネイティヴなスピードで練習できるうんぬんかんぬんとたいそう評判がよいらしいのだけれど、いやーでもこれ買うのはなーちょっとなーという若干の抵抗を覚えなくもない。
職場のできごとや(…)とのできごとなどを小説にしてみればいいんでないかという意見をもらうことがときどきあるというか当事者たち(職場の上司たる(…)さんであったり(…)当人であったり)にそうしてくれとたのまれているといったほうが正確なのだけれど、一癖も二癖もある底辺労働者たちによってつづれ織りされる愉快で不快でどうしようもなく哀れなわれら人間な日々であったり異国で出会った外国人とのひと夏+ひと夏のアバンチュールであったり、どうしようもなく紋切り型なこれらの図式性物語性をしかし逆手にとって、たとえば現実に体験した出来事であるからこそすくいとることのできたリアリティのある細部にのみ焦点をあてた記述を重ねるという手法をもってすればそれ相応のものを書けるんでないかという気はしないでもないのだけれど、しかしいま書きたいとはまったく思わない。というようなことを考えていたおりにふと思い出したのだけれど、もうかれこれ四五年前になるものか、毎日ブログなり日記なりをつけていったとしてそれをたとえば四十歳になった時点ですべて読み直し、その読み直しの過程で当のテキストに注釈を入れたり欺瞞を指摘したりして批評的に読み解き書き加える当のものを作品とする、みたいな壮大な計画をたてていたことを思い出したのだけれど、なんだかんだであの当時からたやすことなく続けられているブログなり日記なりがあるこの現状を思うと、この案はまだ生きているといえる。40歳まであと12年。ちょうど干支が一回りした先だ。生きていて、なおかつまだ書いていたなら、実行に移すかもしれない。
ぶつくさやりながら買い物に出かけた。気分転換にめがねをかけずに外出してみたのだけれど、視界不良の新鮮な経験からなにか得られないものかという魂胆はたちまちジョギングをするときにはつねに裸眼であるという事実の自覚によって打ち砕かれた。帰宅後ストレッチをしてジョギングに出かけた。走りはじめこそやはり多少腰に違和感を覚えるものの、リズムに乗ってくるとどうってことはなくなる。シャワーを浴びてストレッチをし開脚したままの姿勢で中島らも『頭の中がカユいんだ』の続きを片付けた。腰痛緩和剤こと鶏胸肉をかっ食らってから仮眠をとった。めざめると腰の違和感にいくらか悪い変化が感じとられた。眠りの姿勢からではなくおそらくジョギングに起因するものかと思われる。知ったことか。荒療治で治すと決めたのだ。数日ぶりに湿布をはった。
仮眠からさめたのは21時前だった。そこから柄谷行人を読んだものか「偶景」を書き加えたものか英語の勉強を再開したものかと迷ったあげくとりあえずここまでブログを書いた。
それで結局「偶景」を一時間ほどかけて書き足した。計230枚。しかしどうもぱっとしない。WP(マジックポイントならぬライティングポイント)を「A」にぜんぶもっていかれてしまっている感がある。
英語の勉強はとりやめることにして柄谷行人トランスクリティーク』を読みはじめた。すごくおもしろい。先に『倫理21』を読んでいたこともあってわりとすんなりと頭に入ってくる。《彼は宗教をあくまで仮象と見なしているが、それを超越論的仮象あるいは「統整的理念」としてのみ認める。たとえば、普遍的な道徳法則によって生きる者は、現実には、悲惨な目に遭うだろう。人間の不死と神の審判がないかぎり、それは不条理に終るほかない。だから、カントはそのような「信」を、統整的理念(超越論的仮象)として認める。ただそれを理論的に証明するような試み(形而上学)を拒絶するのである。これは『純粋理性批判』における彼の態度と少しも違わない。カントは理論(綜合的=拡張的判断)もまた、仮象であれ、一定の信仰なしにはありえないことをいっているのである》という『倫理21』でも触れられていたカント読解とか、ゲーデルをひっきりなしに持ち出していた語っていたころの残響がかすかに聞こえる。それもよりラディカルに、ただ物事の相対性を強調するにとどまるネガティヴな戦略としてではなく、おもいきりのよい決断のポジティヴなニュアンスによって彩られている公理としての「信」。
季節柄なのか何なのか、夜になるとふいに自死にかたむくような心地にたゆたうことがときおりあるのだけれど、悲壮感とはまるで無縁の、とてもあまやかな、ある種の多幸感みたいにそのかたむきを感じることがあって、こういう感じはいままでおぼえたことがない