20131107

ヘラクレイトスの弟子のクラティロスというのが、師匠に「万物は流動し」、「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」といわれてこれを試みた。おそらく皮肉な戯画(カリカチュア)だとは思うが、クラティロスはことばを使うのをやめて、指でものをさしてまわったというのである。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「モデル」)



夢。滝のように傾斜の急な水の流れを眼前に控えた浅瀬に立って眼下を見おろしている。かたわらには(…)と高校時代の同級生である(…)がいる。70°はあるとおもわれるその傾斜にむけて(…)が頭から突っ込んでいく。ウォータースライダーの要領で気持ち良さそうに滑空していく(…)の後ろ姿をながめながら、あいつは高いところも水もこわがっていたはずなのにと思う。(…)に続いて、こちらは足から先に滑り台の要領で傾斜をすべりおりていくことにする。滝壺に着水したところで、じぶんたちの後ろに控えていたらしい数人の女性から、はやくそこをどいてくれ、でないとわたしたちがすべりおりることができないと指摘される。滝壺には高校の制服を着た女性がひとりいて、これからすべりおりてくる友人らを待ち構えている。(…)がとつぜんその女性の膝丈より長いスカートのなかに頭をつっこむ。そうして四つん這いになるかいなや、いよっしゃ、いつでも来い、いつでもええで、と叫びはじめる。テンションに身を任せた危険な笑いをとりにいくその様子をかたわらでながめながら(…)とそろって爆笑する。爆笑しているわれわれは実家のソファに浅くだらしなく腰かけている。(…)も制服もすでにいない。かたわらにはとある女がいる。彼女はこちらの右脚をもちあげて胸で抱きかかえるようにしている。こちらもその肩に腕をまわす。じゃれあいの心地よさにうっとりしながらも、濡れた靴下がにおうんでないかといくらか気になる。
9時起床。amazonから文法問題集が二冊届いた。11時より発音練習&音読。14時過ぎより30分ほどの休憩。のち瞬間英作文と散歩と所用を兼ねて外に出た。温暖な天候だった。薬物市場で一本300円近くする高価な歯ブラシを購入してみた。(…)は日本製の文具用品にたいしてそそぐのと同程度かそれ以上の興味をもってさまざまな形態の歯ブラシをながめては手にとり、そのうちのいくつかを家族や数多くの親戚や友人知人らへのお土産にと購入していた。日本人はなんでも小さくコンパクトにするだけじゃなくてものすごく便利だったり奇妙だったりするものを発明するのねと彼女は言った。薬物市場を出ると雨が降りだした。狐の嫁入りだった。傘を持っていなかったのでかまうものかとそのまま歩いて図書館にむかった。スエットが濡れて灰色の生地がまだら模様になった。鈴木創士『中島らも列伝』を借りて外に出ると雨はやんでいた。スーパーにたちよって食材を購入し、家路についた。
帰宅してから『中島らも列伝』を少しだけ読み、それから夕飯の支度を整えた。ひさしぶりの早い夕餉となった。16時過ぎだったと思う。背中も腹も筋肉痛であったしジョギングは昨日したしで、となると今日は身体を休めるほかない、そういうわけで省かれた筋トレの分だけいつもより早い食事になった。もちろん今日も今日とて胸肉を食べた。少なくとも今年いっぱいは胸肉で押し通す心づもりである。腰痛が治りさえしてくれれば12月にもういちど上京しようかなと考えているのだけれど、この分だとすこしあやしいかなという気がしないでもない。無理を押して夜行バスのあのせまくるしい座席で一晩をすごせばますます悪化するだろうことは目に見えているので、少なくとも痛みが完全に消え去ってくれないことには上京できないわけだが、こうしてじぶんの身体とコンディションを相談しているうちにも一日また一日と日付は過ぎ去り、一枚また一枚とチケットは確保されていく。ターナーの展覧会は来年神戸のほうでも開催するらしいので最悪そちらにまわすこともできるのだけれど、忘年会を兼ねて東京在住の友人知人と顔合わせするそのついでにそのころにはおそらく完成しているであろう(と信じたい)『A』をバンバン売りつけてやろうというこちらの魂胆はどうなるのだという話である。
夕食をとってからは例のごとく20分ほど仮眠をとった。目覚めてから『中島らも列伝』の続きを読みはじめた。そうして最後まで読み終えた。このタイトルは編集部や出版社の打算によるところが大きいのだろうというのが読後の、というか読中の感想だった。作中で著者本人がそう書き記しているように湿っぽくセンチメンタルな書物だった。そしてこのセンチメンタリズムは確実に中島らも当人のテキストにも通底するところのものだと思った。中島らもがときおり著作に挿入する詩的な記述はおおむねこの湿っぽいくさみをまとっている。それがどうしても気取りのように見えて鼻につく。
シャワーを浴びてから部屋にもどり、数日前より少し喉がいがらっぽいこともあったので、にんにくをすりおろしてたまごを落としたラーメンを作り食した。変化することだけが変化ではないのではないかということについて風呂場で考えた。じぶんの考えや視点やものごとの捉え方が、たとえばここ五年単位でどれほど変わったのか、あるいは変わっていないのか、それを判断することがいったいどうすればできるのだろうと思った。
上岡龍太郎ウィキペディアに《曾祖母は高知で活動していた盗賊団の首領》という記述があった。
(…)さんの新作小説をプリントアウトした。数ページ読んだだけでこれが(知り合って以降の)(…)さんのキャリア最高傑作であることはまちがいないという確信を抱くにいたった。(…)さんの小説を読むたびに抱くことになるふしぎな憧れはなんだろうかと自問した。自問したところで、じぶんのかつて試してみたかった、そしてそのうちのいくつかはじっさいに試してみたものの挫折におわらざるをえなかった、そんな手法の数々(メタフィクション・言葉遊び・タイポグラフィー・人称操作・引用)が手慣れた優雅な手つきではたから見ればいともたやすく実践されているからにちがいないと見当をつけた。
《つまり何であれ彼は、》という文章を目にしたとき、こういう読点の打ち方があるのかとハッとした。じぶんだったら《つまり、何であれ彼は》とやってしまうような気がする。
(…)さんの新作はBL小説なのだけれどじぶんもかつて、もうかれこれ四五年前になるんでないかと思うのだけれど「タマキ」という同性愛者の登場する小説を書いたことがあって、これも例のごとく書くだけ書いておきながらどこにも応募せずにお蔵入りしたものであったのだけれどでもたしかFには読んでもらった記憶がある、村上春樹の「トニー滝谷」に通ずるトーンがあるみたいな感想をもらった記憶もあって、じっさいにその当時たしかに「トニー滝谷」を意識していたような覚えもなくはないのだけれど、鮮明におぼえているのはその作品を書くまえにとにかくおもいきり感傷的な作品を書いてやろう、それでもってじぶんの感傷趣味にケリをつけよう、センチメンタリズムに終わりを告げようと、これ意図せず中島らものくだりに接続されてしまったのだけれど、たとえば当時つけていた日記やブログにしばしばじぶんにあるのは感傷だけだ、感傷だけがじぶんを支配する唯一の法則だ、みたいなことを書きつけていた記憶、これもやはり鮮明に残っていて、それだから書くもの書くものがことごとく感傷的になってしまう、そんなじぶんの傾向に嫌気がさしてそれだったらいっそのことここで膿みをすべて出しつくすつもりで、感傷以外のあらゆるトーンが存在しないそんな小説を書いてやろうと、そう考えて書き出し書き終えたのが「タマキ」だった。と、こんなふうに書いているとやはりなんのかんのいってじぶんの考えや視点やものごとの捉え方というのはそれ相応に変わるものだなと、やはり前段のくだりに意図せず結びついてしまうそのような所感を抱かないでもないというか、けれどそうともいいきれないかもしれない、いまだって十分に感傷的なのかもしれない、ただ感傷という直接的な言葉を使わなくなっただけで、抑圧してしまっただけで、いまなおひとよりずっと濃度の濃い感傷趣味を、感傷にたいする感受性をもちあわせている人間なのかもしれない。よわくみじめな精神の、それでいて意地と誇りだけが身の丈をこえて巨大な、御しがたいひとつの魂。
書きあげた小説にかぎっていうならば「タマキ」の次が「おやすみ、またね」という短編で、これは文學界に応募して最終候補の手前までいった(現在の筆名を使いだしたのはこの作品を書いてからだ)。それで気を良くしたので「絶景」という狂ったテクストを書いて続けて文學界に応募したのだけれど、前回そこそこのところまでいったのであるし選考会で意見がまっぷたつに割れたみたいな選評も載っていたしまた応募してくれという激励もあったくらいなのだからこちらの筆名もバッチリ覚えてもらっているだろうしそうなれば遠慮なし手加減なしの狂った小説を応募しても一次で切られることはまずないだろうという魂胆があった、にもかかわらず余裕の一次落ちで、なんだよそれとたいそうショックを受けたのを覚えている(おもえばこのあたりから新人賞というやつに疑いを抱きはじめたのだった)。「絶景」にかんしてはそれから一年後だったか二年後だったかに早稲田文学に応募してみたところいいところまで残ったという救いもあった。ただ「絶景」を応募してから予選通過の通知があるまでの間に「A」というキャリア最高傑作、これは傑作であるとはじめて手応えを抱くことのできる作品を書きあげることに小説を書きはじめて七年目にしてついに成功したこともあって、こいつで勝負したい、こいつを自身のデビュー作にしたいという気持ちが強かったので、「絶景」はその時点で選考からとりさげてもらうことにした。とはいえその「A」はその後、群像新人文学賞文藝賞太宰治賞、新潮新人賞と、四度にわたる一次落ちという屈辱辛酸を味わうことになったわけだが。「A」のあとには「邪道」、それに並行して「偶景」を書きはじめたわけだけれど、ここ半年ほどはそいつらをほっぽり出してDose your sister like baseball?とかDidn't you like football?とかそんなことばかりやってる。
書いた原稿の大半はデータごと削除してしまっていたのだけれど、引っ越しのときだったかに古いCD-RやUSBメモリが見つかって、そこに古い原稿のいくつかがデータとして残っているのを発見した。「タマキ」も「おやすみ、またね」も「絶景」もすべて残っている。「タマキ」を書いたのが何年前だったのか知りたくてブログ検索してみたところでヒットしない。ゆえにワードファイルの情報をチェックしてみるとデータ作成日は2009年3月10日とあって、これが正確な時期であるのかどうかはよくわからないけれども、とにかくそのあたりの時期のブログ記事をざっと斜め読みしてみてもそれらしき記述は見当たらない。ひょっとしたら読みもらしがあるのかもしれないけれども。
と、ここまで書いたところで「タマキ」は当時運営していたウェブサイト上にアップした記憶があることを思い出した。というわけですでにウェブ上には存在せず手元にデータとしてのみ残っているサイトの残骸をのぞいてみるとたしかにあって、2009年2月28日という日付が認められる。ちょうどブログの更新が途絶えている時期だ。ウェブサイトにはほかにも〈短編〉の項目に「沖へすすむ象(2008.1.15)」(これははっきりと村上春樹の文体で書かれた作品で、風呂場で洗髪しているときにふいに書きたいと思いたつがはやいか体も洗わずに部屋にもどって照明を落としそこからたぶんこれまでの人生でいちばんといってよいほどの集中力をもってして一晩で書きあげたもので、この挿話だけにかぎっていうならば当時はまだ知らなかったカフカの「判決」と重なるところがあるのだけれど、しかしその後のじぶんの書くべき方向性を決定づけるものには残念ながらならなかった)と「小指(2008.4.10)」(これはたしか町田康の文体を意識して書いたはず。駄作)があり、そして〈中編〉の項目に「ミナ(2008.3.6)」(ですます調。文学くさい。駄作)と「タマキ(2009.3.10)」があり、あとは「夢日記」と「詩」と「格言」のコーナーがそれぞれあった。当時どれだけのひとがじぶんのウェブサイトをおとずれていたのか、カウンターのたぐいなどまったくなかったので見当もつかない。おそらくいまとそう変わらないんでないかと思っている。つまり閑古鳥が鳴いていた。いちどだけ、当時のブログを経由してだけれど知らない女性からメールをもらったことがある。いつも見てます、がんばって、みたいな短いメールだった。その子のメールアドレスでググってみるとブログがヒットして、二つか三つ年下のメンヘラの妊婦さんであることが判明した。ときおり言葉遣いが荒れたが、しかし透明な文章を書くひとだった。数年経ってからふと思い出して当のブログを再訪問してみると彼女はシングルマザーになっていて娘は大きく育ち、東京で編集者として働いているらしいことが判明した。その後はしらない。メールアドレスもブログのタイトルも忘れてしまった。ただ彼女のブログでこちらのことが天才として語られていたことだけははっきりとおぼえている。当時じぶんはたしかにじぶんが天才であることを疑っていなかった。疑っていたのはじぶん以外の全員だった。その全員のなかから彼女は離脱していた。たいしたもんだと思った。先見の明がある子だなと感心した。いまは天才がどうのこうのなんて話はクソほどどうでもいい。書いたものが傑作であるかいなか、マスターピースであるかいなかだけが問題だ。当時のじぶんにはおそらく小説を介してじぶん自身を評価してもらおうという野心と顕示欲があった。ひとさまの手により自らの額に承認の烙印を押してもらうべくみすみす頭をさげているようなあわれな節がおそらくまだ残存していた。まことにもってクソほどみじめでぶざまな話だ。しょせんは小便垂れの小僧、自意識だけが立派に肥大化した学生くずれだ。重要なのはじぶんの書いたものにたいしてくだすじぶん自身の判断、獲得すべき基準はそれが傑作であるという自足的な確信、マスターピースであるということのゆるぎない納得、それだけだ。
なんとなく、ほとんどこわいものみたさのような気持ちで「タマキ」をのぞいてみた。ざっと斜め読みしてみてまず驚いたのは、なぜか漢字の開きが完璧であるという事実だった。いまのじぶんの書くものよりもずっと透明感のある字面になっている。さすがに四年も前のものになるとかなり忘れているもので、そもそも断章形式であったことにまず驚いたし、つたないながらも時系列を操作してみせようとする野心のようなものがすでに見え隠れしているのにも驚いた。それから(…)に誉められた断章があったのを思い出した。以下がその断章である(ここまで古いものであるとかえって公開することに抵抗をおぼえないものだ)。

 ユキと付き合っていた当時、彼女といっしょにキリハタのアパートをおとずれたことが二度あった。はじめておとずれたとき、三人はこたつを囲みながら酒を飲み、なんとなしにテレビを観た。会話はおそろしく盛り上がりに欠けた。原因はユキにあった。場の空気をたくみに誘導してなんとか流れにのせようとするキリハタに対し、ユキはなみなみならぬ拒絶の意志をもって相対しているように見えた。二度目におとずれたときも同様だった。ユキの嫌悪感はむしろ増大していたとさえいえた。態度やふるまいのひとつひとつに露骨なまでの敵意が満ちて見えた。訪問の帰り道、タマキはその点についてユキに苦言を呈したことがあった。ユキはまなざしをひそめながら、あたしはこたつというものが嫌いになりそうだわ、と答えた。その日はそれだけしか口にしなかった。
 後日、キリハタの部屋の三度目の訪問計画をユキに打ち明けたとき、彼女は大きくため息をついたのちタマキに目をむけると、親友の彼女の脚を隠れてなでまわすひとなんて一体どうやったら信用できるの、と強い口調で言った。タマキが絶句すると、目を真っ赤にうるませながら、あなたたちの友情を壊すつもりはないから安心して、と付け加えた。
 それ以降、タマキはユキとつれだってキリハタのアパートを訪問することは一度もなかった。用事ができてユキは来れなくなった、と釈明しながらタマキがひとりで部屋を訪れたとき、キリハタは悪びれもせずに、ああとうとうバレちまったか、と自ら進んで種明かしをした。声は笑っていたが、瞳の中心にはあいかわらず一ミリも揺らぐことのない一点があった。おまえはいまおれを殴りつけてしかるべきだぞ、キリハタはそう言うと壁に背もたれながら両手をひろげ、無抵抗の意思表示をした。タマキは黙って首を横にふり、部屋の中央に置かれたこたつのそばに尻をつくと、リモコンを手にとってテレビを点けようとした。そっちはステレオコンポだ。キリハタが口をきくと同時に、スピーカーからはどうしようもなく甘ったるいミドルテンポのロックがしぼったボリュームで流れはじめた。六畳の部屋の四隅にぎりぎり届くか届かないか程度の、子守唄のような音量だった。キリハタはこたつをはさんでタマキと正面から向かい合うようにして腰を下ろすと、おれにだって感傷癖はあるさ、と照れくさそうにつぶやいた。しばらくその音楽に二人そろって耳をかたむける暗黙の時間が続いた。鼻声のボーカルの音程はあやしかったが、それが余計に感傷をそそりたてるようだった。最後のサビを終え、曲がアウトロにさしかかったとき、タマキはこたつの中の手をのばして部屋着がめくれあがってむきだしになったキリハタのすねに触れた。キリハタはぎょっとして脚をひっこめた。そうして音楽が途切れるとほとんど同時に、悪かったよ、と一言つぶやいた。

古い小説のみならず古いブログ記事なんかもざっと斜め読みしてみると、23歳のじぶんはいまよりずっときちんと書けているんでないかと思ったりもしてすこし焦りをおぼえたりもする。比較してみると当時はいまのように生活のこまごまとした細部の描写にむかうのではなくてむしろじぶんの思考のほうに記述の重点の置かれているようなところがある。思弁ではなく風景、アフォリズムや意味の誘惑をふりきり事実の記述へと向かいはじめたのが具体的にどこからかなのかは面倒だから確認する気にもなれないけれども、たぶん古井由吉『白髪の唄』を読んだあたりからなんではないか。あの作品との出会いによって小説における「描写」というものの占める役割の重大さに気づいたようなもので(それまでじぶんの小説における「描写」は単なる頁の水増しや状況説明以上のものではなかった)、文を彫刻することにたいする志向がきざしだしたのもそのころからで、これを契機にそれまでは一日10枚とか15枚とか書けていたのが5枚になり3枚になりついには1枚になったみたいな牛歩化の推移も生じた。
ブログの記述内容あるいは記述対象の変化がそのまま小説と並行しているという事実がある。ブログや日記を書く過程で遭遇するさまざまなエクリチュールの事件を契機として小説に変化がもちこまれ、現在進行形で書きつながれている小説の波及を受けてブログが形式を転ずる。じぶんにとってこのふたつは切っても切りはなせない関係にあるのかもしれない。「A」が世界中の話題をかっさらうほど有名になったらもともとこのブログは閉じるつもりでいたのだけれど(ここには火種が多すぎる)、名前と場所を変えてでも小説とは別の場でひそかに営みつづけるもうひとつの書く営みを持続する必要がおそらくある。