20131108

(…)金属の薄板を一点で支えておいて、その表面に細かい粉をふりまき、バイオリンの弓で縁のどこかを弾く。それによって発生した振動が板全体に不均等にひろがるため、粉は振幅の最大となる部分を避け、振幅の一番小さな部分に集まってくる。この結果現われるパターンを、それを研究した一九世紀イタリアの物理学者にちなんでクラドニ図形と呼ぶ。このような金属板が一枚あると、弓でどこを弾くかによってこうしたパターンがたくさんできる(音楽家が指でいろいろな場所を押さえると、一本の弦から多くの振動音が発生するのと同じ原理)。これらのパターンにもできやすいものとできにくいものとがあって、金属板は前の日に発生させた振動パターンを「記憶」しているらしく、翌日そういうパターンの方が発生させやすいという。
 これと同じ理由から、貴重なストラディバリウスの所有者がそれを初心者に弾かせないのはもっともである。初心者のだすギーコギーコという音を、楽器がコンサートホールで再生してはまずいからだ。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「モデル」)



11時起床。きのうおそくまでブログを書いていたせいで一日のはじまりがずれこんでしまった。よりによって出勤前日に生活リズムが狂うというのもまた皮肉な話ではあるが。冷蔵庫のなかの牛乳がコップ一杯分もないくらいだったのでパジャマにスカジャンをはおって近所のコンビニに出かけ、割高な紙パックを購入した。帰宅して朝食をとっているとamazonからプロテインが届いた。きのうの昼頃に注文したものが今日の朝に届くというのはいったいどういうことだろうと思った。
きのう付けのブログに、かつてはどちらかというと思弁的な記述を書き連ねたり思考の垂れ流しにかまけていたりしがちであったのがこのところは事実の単なる列挙という方面に志向がむかいつつある、みたいなことをこのブログの通時的変化として書いたけれど、最近はたぶんそれですらなくて、事実の列挙よりもむしろその事実や風景を媒介にして召喚される古い挿話のほうに、つまり記憶と想起の方面に記述が傾きつつあるんでないかと思った。できごとや風景を書き記す過程で特定のキーワードからリンクのはられたかつての記憶が想起され、想起されたそちらに記述の矛先があとさきかえりみずになだれこんでいくというような最近のトレンドの発生には、直接的な契機としておそらく去年の夏のタイ・カンボジア旅行がかかわっていて、この濃密な一ヶ月間を旅先にもっていったポメラを相手に箇条書き程度にしか記録することのできなかったという焦りが、それでいて一ヶ月まるまるの出来事をおさらいして書きなおすだけの余力も時間もないという状況との妥協点を探り合った結果、以後の日記で関連する話題が出るたびに小出しにしてそのときそのとき思い出されたその思い出を書きつらねていけばいいんでないかと、これはたしか帰国してから実家で避暑していた一ヶ月間に考えたことで、事実そのとおりに事は運ばれるにいたった。そして同時にそのような記述と記憶と想起の関連がまがりなりにも五年間にわたって蓄積されてあるこのブログのアーカイヴの山とも共鳴しあって、たとえばドキュメントとして外在するこれらの記憶に検索をかけたりときにはリンクを張ったり言及したり批判したり指摘したり驚いたり感心したりそしてなにより引用したりすると、そのようなかたちで置かれた比重もあらわに顕在化しはじめたといえるのかもしれない。想起された記憶に記述の矛先があとさきかえりみずなだれこんでいく、という書き方にかんしていえば、そのようななだれこみの連鎖に次ぐ連鎖によって「現在地」を無効化してしまう、手持ちの記憶だけを頼りにした回想録という書き方もあるんでないかと、これもひそかに温めていたアイディアのひとつである(それは「本線」ありきの「脱線」などというちゃちな営みをラディカルに笑い飛ばすテキストとなるだろう)。おそらくいずれ書くことになるだろう。いつだったかだれだったか((…)?(…)?(…)?)に小説のアイディアをブログで発表したりするのってこわくないとかたずねられたことがあるのだけれど、ひとの記述やアイディアをまるごとパクってご満悦してる程度の、おつむな残念な、捨てさった挟持のかわりに見栄だけがいっぱしのしょうもない愚図どもにこちらの記述を活かしアイディアを展開しつくすだけの能力があるとはまったくもって思えないし、だいたい一億総密告者みたいなこの時代にそんなことしたって何かあったら即バレて叩かれて終わりだろう。残念な馬鹿は残念な馬鹿として放置するにかぎる。
ここまで書き記して洗濯物を干したのち発音練習&音読。13時より17時半まで。今日から『英語耳』のかわりに『英語リスニング大特訓』というものを使用することにした。リスニングと銘打たれてはいるもののこちらの認識としてはあくまでも発音練習である。肝心の勉強はしかしはかどらなかった。作業に一区切りついたところでたとえばどうでもいい調べものをしてしまったりウィキペディアの迷宮に迷いこんだりすることこそたびたびあれど、作業中にブラウザをたちあげてはカタカタとどうでもよろしい情報をサーチしてしまうという今日のような散漫っぷりはなかなかにめずらしい。いつもよりずっと起床が遅れたのと翌日に仕事を控えているため仮眠をはさんだ前・後半制を廃棄せざるをえない金曜日という特殊な時間割のためにきっちりとノルマをこなすことができなかったのではないか、神経質な時間割生活者というのは当の時間割から一歩でも足を踏み出してしまうと途端にその日いちにちを台無しにずぼらにことごとく怠惰に過ごしてしまいたくなるものだから、と、これも折りに触れては書きつけてきた自己分析の結論である。たしか志賀直哉の小説に完璧主義者の床屋の主人が客のひげを剃るさいにあやまって皮膚を傷つけてしまって、それでそのままいっそのことみたいな勢いで客の喉元までバッサリやってしまうみたいな短編があったように記憶しているのだけれど、そういうものなのかもしれない。というか志賀直哉とか読んだのたぶん読書をはじめてまもないころだから20歳か21歳か、そのころに全集を読んで以来のそんな古い記憶がいま唐突によみがえってきたのにびっくりした。記憶の海底をかきまわす手。にごる現在と泥といっしょに浮かびあがる古い挿話たち。
ぶつくさやりながら買い物に出かけて安売りをしていた鶏胸肉を購入してぶつくさやりながら帰宅して、それで丹念に身体をほぐしたあとにジョギングに出かけたのだけれど今日はじめて、ジョギングがきっちりと習慣化したのがいったいいつからであったかよくわからないのだけれどとにかくそれ以降はじめて転倒するというかなにかにつまずき転倒しかけたところであわてて前につきだした左手でアスファルトを掌打し、その反動をもってしてさながらその場でクラウチングスタートを切り直すかのような按配に体勢をたてなおしそのまま何食わぬ顔で走りつづけるという離れ業を、よりによって週末を控えた女子大生らでにぎわう今出川通にてがっつりキメるというおそるべき一幕が演ずることになったのだけれど、あそこで転びきることなく窮地をのりきってみせたおのれの身体反応に日頃の鍛錬の成果を見てとる誇らしげな何かがないこともないというか、しかしそれをいえばそもそも道路のくぼみかなにかにつまずいて体勢を崩すというその時点ではっきり運動不足であるともいえるわけだけれどそんなことはどうでもよくて、ただ離れ業のクラウチングスタートをキメた途端に背中から腰にかけてとても力の入った感触があり、これがのちに響かなければいいのだけれどという懸念がすごくある。一昨日ジョギングを終えたときにもはっきりと感じたのだけれど、腰痛にはジョギングは逆効果であるというか悪影響であるというかとにかく走りおえてシャワーを浴びてストレッチをしてしばらくすると明らかに負担のかかっているらしいのが重く鈍い痛みのじわじわとした顕在化からなんとなく察せられてくるここ最近、さてどうしたものかと思う。とりあえず湿布を貼ったなう。もうしばらく戦時下の根性論でやってぬいてみるか。
鶏胸肉を仕込んでいるときであったか仕込む前であったか仕込み終えてからであったか、あるいはそれらすべての手続きを通してなのかもしれないけれども、頭のなかで言葉を組み立てていて、というか自動筆記のようなものをしていて、料理や洗いものや入浴といった目をつむってもできるような慣れしたんだ手作業の間はいつもそうなのだけれど、頭のなかで日記を書くか自動筆記をするか単語と単語を組み合わせてパズルのような感覚で詩編らしきものをでっちあげるかみたいなことにかまけてしまう癖があって(この手作業が長丁場になったりすると頭のなかで日記を最初から最後まで完全に書きあげてしまうこともある、そういうときは同じものを二度書く手間のわずらわしさから本来のブログの記事が極端に短くなってしまったり更新を翌日にまわしてしまったりする)、これはもう日記を長らく書きつづけているとどうしてもそうなってしまうというところがあるというか要するにモノローグが書き言葉になってしまう現象の帰結としてある無意識の一人遊びであるわけなのだけれど(このあたりの現象については「偶景」に書きとめた)、こういうときたとえば小説のアイディアなんかも浮かびあがったりするのだけれど今日はそうでなくて、「底無しの枯れ井戸に水をもとめて落下しつづける」という短いフレーズが不意にあらわれた。それでひと呼吸置いてから、これはちょっとすごいなと戦慄した。なにかやばいものを掘り当ててしまったと思った。いまもそう思う。この一文にはなにかしらひとをハッとさせるものがある。強力すぎてうかつに小説に使うこともできない。ゆえにここに置いておく。
(…)さんのBL小説で思い出したけれどルネッサンス吉田の新刊がもうすぐ発売だった。もちろんポチった。新刊が出たら迷うことなくポチる数少ない作家のひとり。