20131117

 わたしが問題にしているのは、もっと深いレベルで、遺伝現象、形態形成、適応といったものの基盤にある指示言語その他のなかに、何か問いに似たようなものが現われる可能性がないかどうか、ということである。こうした深い生物学的レベルにおいて、「問い」ということばは何を意味するだろう?
 形態形成レベルにおける「問い」ということでここしばらくわたしの頭にあったパラダイムは、カエルの卵など脊椎動物卵子の受精後に起こる出来事の展開(シークエンス)である。未受精のカエルの卵はご存じのとおり放射対称システムで、二つの極(上になる「動物」極と下になる「植物」極)のあいだには、動物極に原形質が多く集まって細胞核をなし、植物極の方には卵黄が固まるというかたちの分布が見られる。しかし、卵の赤道はどこを見ても変わりない。将来オタマジャクシの左右対称がどの面を軸とするか、その手がかりになるような差異は何もない。その軸面は、ふつう赤道よりいくぶん植物極寄りから精子が進入することによって決まり、この進入地点と二つの極とを結ぶ線が左右対称の腹側中心線となるわけだ。環境はこうして、未受精卵全体に潜在しているともいえる「どこ?」という問いに対する「答え」を提示するのである。
 いいかえると、これに必要な情報は卵子自体に含まれているのでもないし、精子のDNA中に何らかの複雑なかたちで組み込まれているわけでもない。実際カエルの卵に関していえば、精子などなくてもいいくらいだ。繊維質のものかラクダの毛のブラシで卵をつついただけで同じ効果が得られる。そうした無精卵も、半数体(染色体の数が半分)ではあるがいちおう一人前のカエルになるのである。
 問いというものの本質を考えるさい、わたしの頭にはこのことがパラダイムとしてあった。受精直前の卵の状態を問いの状態、つまりある情報を受け取る用意のととのった状態とみていいような気がしたのだ。カエルの卵の場合、その情報は精子の進入によって提供されることになる。
 このモデルとさきにマルクス主義弁証法における量と質について述べたこととを結びつけ、さらにこのすべてを、環境による決定対遺伝子的決定の問題をめぐる論争と、同じく独特の政治的側面をもったラマルク説をめぐる論争とに関連づけてみると、ことによれば問いとは量的なもので答えとは質的なものではないかということに思いあたった。受精時の卵子の状態は、たぶん「緊張(テンション)」といった何らかの量によって記述できるだろうと考えられた。その緊張がある意味で、精子のもたらす本質的にデジタルな、あるいは質的な解答によって解消するわけだ。「どこ?」という問いはひとつの分布量といえる。それに対して「ここ」という答えは、正確なデジタル回答――つまり、デジタルでパターン化された決定である。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「自然と養育のメッセージ」)



6時半起床。歯磨きをして水場で口をゆすぐために中腰になったところで違和感をおぼえた。腰痛が消えている……!たしかにきのう職場でリネンをバラしているときにいつのまにかコルセットなしで作業できる程度には良くなってきているという事実を、端的な回復と見るかあるいは腰痛持ちの身体の動かし方を覚えただけの慣習の産物にすぎぬものと見るかと、ぼんやり悩んだ記憶があったのだけれど、これはひょっとするとひょっとするかもしれない展開なのかもしれず、ぬか喜びをおそれる気持ちが待てはやまるなと先ほどうるさいのだけれど、しかし、これは、いやまさか……!
書き忘れていたけれどきのうこの冬はじめてコートを着用した。
8時より12時間の奴隷労働。腰痛が治ったと同僚らに言いふらしていたのだけれど昼前ごろからふたたび違和感を覚えはじめ、昼休憩を終えるころにはまたいつもの重さ気怠さ危うさをはらんだ爆弾物件と化していた。残念すぎる。蕁麻疹は上々。昨夜遅くに薬を服用したのだけれど十数時間経過しても足の裏にかすかに発疹が出ている以外はとくにこれといった症状は出なかった。アレグラがラスト一錠になってしまうのだけれど念のため病院にいってもう一週間分もらってくるべきかどうかむずかしいところではある。(…)さんとの引き継ぎ時にげんなり。40まわっていまだにイキりはじめた中学生みたいな言葉遣いや物腰やふるまいを持しておりなおかつそうしたおのれの所作にたいする疑いの絶対体なこの欠落。傍から見ていて痛々しいのだけれど、周囲のうわーこのおっさん……という引き気味のリアクションを、自らの力によって屈したものらの媚びへつらいとでも勘違いしていそうなところがまた痛い。まぬけとか小物とかいう言葉がこれほど似合うひとにもなかなか出会えない。
職場で食事をすませていたので帰宅すぐにシャワーを浴びてストレッチをこなし、それから夜中までだらだらとネットをしたり本を読んだりして過ごした。明日からはまた推敲地獄。