20131116

 (…)いいか、「時間」には二種類あるんだ。
 パパのいい方って、時間にカッコがついてるみたいにいうのね。
 ん? まあそうだな。わたしのいうのは人間のもってる二つの観念のことだ。それが両方とも「時間」と呼ばれる。もうちょっと専門的にいうと、“共時的 synchronic”時間と“通時的 diachronic”時間だ。あるいは、二種類の変化といってもいい。
 あらゆる出来事(イベント)っていうのはみんな変化なのかしら?
 ああそうさ、もちろんだ。卵がかえるってことは変化だろ。それまでヒヨコは卵のなかにいたのに、いまは外にいる。それは変化だ。しかし、鳥という種の全体的な生命(いのち)についていうならば、卵の孵化というのはただの共時的な変化にすぎん。それは種の生命における変化じゃない。生命という全体的プロセスの進行の一部にすぎんのだ。ちょうど伝統的なバリの暦が、種々さまざまな祭礼システムをめぐりながらどこに行き着くわけでもないのと同じことでね。
 で、「通事的」っていうのは?
 その出来事が「全体的プロセス」にとって外来のものである場合だな。もしだれかが森にDDTを撒き、鳥たちがDDTを食べた虫を食べて死んだら――それはバードウォッチャーの視点からみたら通時的な事件といえる。彼の眼は、たとえばキツツキとかの生命の循環的プロセスに注がれているわけだからね。
 でも、ある出来事(イベント)――ある変化ね――それが共時的なものから通時的なものへ変わるってことある?
 いや――もちろんないさ。「それ」っていうのは何かものではないんだ。それ(変化)は、だれかがたくさんの変化からなる大きな流れから引っぱりだしてきて、話の対象に取り上げた何かにすぎん。説明の対象にしたのかな、もしかしたら。
 なら――ようするに、わたしたちがそれをどうみるかっていう問題にすぎないわけ? たとえば、時計の振子の一ふれを見て、それを共時的とでも通時的とでもとっていいの? その成長が現在の一部であるかのようにして一本の木を植えることもできるのかしら? プランクトンの絶滅は共時的とも通時的ともみなせるの?
 たしかに――しかし、それには想像力をひろげなくちゃいけないぞ。ふつうわれわれは「時計がチクタク動く」といい、そのチクタクを時計が時計であることの一部だと思っている。振子の一ふれを通時的なものとして見るには、視野を狭めて一回の振動よりも小さな何かに注目しなくちゃならん。世界のプランクトンの死を共時的なものととらえるには、おそらく全宇宙にでも焦点を合わせなくてはならんだろう。
 でも、共時的時間って〈永遠の現在〉の別名にすぎないの?
 そうだろうな。表現としては詩情に欠けるが、ほとんど同じものを意味してる。そのいい例が山火事だ。カリフォルニアの丘陵地帯の灌木林でときどき起こるだろう。丘の中腹に住んでる映画スターたちは、その山火事を自分たちの生活を破壊する取り返しのつかない出来事だとみる。そして、警備隊(レインジャー)の連中もその見方に同意する。しかし、昔そこに住んでたインディアンたちは、数年おきにわざと野焼きをしてたんだ。彼らにとって灌木帯が定期的に焼けるのは自然なことだったんだな。
 彼らの方が視野が広かったってこと?
 そう――映画スターたちの方は東洋でいう「執着」をしてるんだ。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「メタローグ:忍び寄ってるの?」)



6時半起床。8時より12時間の奴隷労働。(…)さん欠勤。土曜日の昼間みたいな書き入れ時に(…)さん(…)さんのふたりぼっちで切り盛りできるのかという話であるのだけれどこういうピンチにはきまってヘルプで入ってくれるのがならいの(…)さんが「プライベートな用事」のために代打を断ったという話、(…)さんは拗ねたこどもみたいなアレだろうといい、(…)さんは(…)さんのお店で働く(…)ちゃんを内密にデートにでも誘ったんでないかと予想するのだけれど、ひょっとして就職面接か何かなんではないかというのがこちらのひらめきで、その説を開陳してみたところ、もうそれやったら万々歳やのにな、万事オーライやわ、とは(…)さんの弁。なんだかんだでこのひとがいちばんたまっていたんでないかと、(…)さんにたいするきびしい評価のしだいにあけすけになっていくここ最近の口ぶりから、なんとなくそんなふうに思うこともある。ここをやめて別の場所で仕切りなおすべきだ、身の丈を知ったほうがいい、どこにいったところでもう手遅れかもしれないけど、淡々とリネンを組みながら語るその横顔の印象。
(…)さんがなぜかこちらの出身地を和歌山であると思いこんでいたことが判明したのでいやいや(…)やて何回も言うてますやんとつっこんだ。したら(…)くん(…)って知ってるかというので知ってるっちゃあそりゃもちろん知ってますよと応じると、ワシな、(…)から歩いて帰ってきたことあんねん、というので、帰ってきたってどこまでですかと問うと、いやここ、京都、というので何いってんだこのじいさんはと思った。話を聞いてみるに、どうも友人の運転する車の助手席に乗ってドライブに出かけて(…)にたどりついたらしいのだけれどそのとき急に友人に用事が入ってやばい帰らなきゃならないみたいな話になって、このあたり推測なのだけれどたぶんその友人というのが京都のひとではなくてどこか別方面に在住のひとでじぶんの町にとつぜん帰らなければならなくなってしまって(…)さんを京都まで送っていくことができない、そのために(…)さんに電車賃を渡そうとしたらしいのだけれど(…)さんは自称「かっこつけ」なのでかまへんかまへんと突っぱね、けれど実際は1000円ちょっとしか手持ちがなく、車からおろされて見知らぬ町でひとり、まあ市バスみたいなものを乗りつないでいけば1000円ちょっとでも京都まではなんとかなるだろうと、田舎の実状を知るこちらからすれば生温くて血反吐が出ますわみたいな軽々しい認識で京都にむかってぽつぽつ歩きはじめたらしいのだけれど、いやな(…)くん、あのへんぜんっぜんバスあらへんねん、てっきりワシはな、一日乗車券でも買うてやな、それで帰れると思っとったのにやな、どこにもバス走っとらへんさかい、それでしかたなしに歩いてたらやな、もう山ばっかや、山しかあらへん、そいでもうワシ途中でな、あのーなんや、高速、高速道路見つけたからな、あそこ歩いて帰ったれ思うてやな、それで入ってったんやわ、そしたらな、そこがちょうどやな、あのー店とかはないんやけど、なんていうんや、トラックとかがやな、ずらーと横にならんで停車しとる、パーキング? パーキングていうの? たまたまそんな一画やったさかい、それでワシそこらの運転手にたのんでやな、大津まで送ってもらったんや、そんでそこから電車のって京都もどってな、へへへ、もう大津に着いたころには朝やで、(…)出たん4時やったのに、着いたら朝の8時や、などと無茶苦茶なことをいうのでゲラゲラ笑って、それいったいいつごろの話なんすか、若いころっすかとたずねると、そやな−、もうずいぶん前や、4年くらい前ちゃうかな、とあったので、還暦まわってからのエピソードかよとここで死ぬほど笑った。(…)さんと話しているとニコス・カザンザキスゾルバを思い出さずにはいられない。本当にあのまんまだ。
昨夜蕁麻疹の薬を服用したのが正確には何時であったのかいまひとつ覚えていないのだけれど遅くとも0時には飲んでいる。薬の効用がよくもって12時間であるというこれまでの観察をそこに照らし合わせてみると正午には発疹があらわれるはずであったのだけれど1時半もまわっても問題なしで、例外的に右足の裏だけいくらか腫れあがっていたのだけれどこれはおそらく革靴を履いていたために蒸れ蒸れになっていたのが引き金となって呼び寄せられたものにすぎず、腰回りも内腿もぜんぶ無事で、ようやく回復かしめしめと思った。むろん薬は念のため服用しておいた。
帰路、スーパーに立ち寄り40%割引でカンパチの握りを買って帰って納豆と冷や奴とめかぶといっしょに食した。それからシャワーを浴びてストレッチをした。入浴中にひさしぶりに架空の対談が脳内ではじまったのだけれど初めての英語バージョンで(架空の対談と脳内英会話は別物である)、となると相手は(…)しかいないわけだけれど対話を重ねているうちに議論らしきものがはじまり最終的にはケンカになってすごくイライラした。なんであいつはあんなにも自己中になれるんだろうか、押しつけがましい主張を重ねることができるんだろうか、異なる文化圏の異なる価値観のうち共感作用を媒介とした吸収可能なうわずみだけをすくいとってそれを是としそれ以外を非としてみせるあの断定の調子はなにを根拠に生まれるんだろうか。辟易する。
風呂からもどって部屋でストレッチをしているときに新しい小説のアイディアが浮かんだ。『ドリンクバー』というタイトルの連作短編あるいはオムニバスみたいな一冊で、冒頭に「渇き」というタイトルの作品、そして最後に「水」(あるいは「水道水」?「ミネラルウォーター」?)というタイトルの作品を配置(あるいは前後をいれかえてもいいかもしれない)したその間に「コーヒー」とか「コーラ」とか「ウーロン茶」とか「オレンジジュース」とか「カルピス」というタイトルでそれぞれのイメージに見合った、あるいはいっそのことより単純に作中にそれらのドリンクが登場する(マクガフィンとして、ガジェットとして、ギミックとして、あるいは単なる風景の一個、交換可能な固有名詞のひとつとして)物語をならべるといういくらか気取りの鼻につく安いエンタメめいた構成になっているのだけれど、そうしたすべり気味の洒落た装いとは裏腹にいまだ表象されたことのない都会でもなければど田舎でもない、画にならないほうの田舎の出口なき日常の閉塞感、ジャンク風土の青春、ライブハウスもクラブもバーも古着屋もカフェも喫茶店も美術館もないかわりにただジャスコとファミレスだけがある、もっとも没個性的でありもっとも平坦でもっとも色味のない、地方都市やニュータウンや郊外という語群のもとにかつて召喚され表象された集合体からさえも見放されて滴りおちたこの国この時代のたしかな一画を舞台に、くりひろげられるべきなにごともない日々がくりひろげられていく、心臓をえぐるようにひりひりする地方の八方ふさがり、そういうものを書いてみたいという欲望はわりと以前から持っていたのだけれど、今日はじめて理解した、これこそがマンスフィールドをジャンクションして描くべき小説なのだ。ずっと書きたかった物語とずっと試してみたかった技法がカチリと音をたてて組み合わさるたしかな手応えを力強い予感としていままさにおぼえたのだ。「A」「邪道」「偶景」、これらの諸作に一刻も早くけじめをつけておのれの出自とむきあわなければならない。想起には程度の度合いこそあれ必ずある種「清算」の印象がつきまとうことになる。そのような方向付けの暴力をいかにして回避して書くか、あるいは、そうした逃走線がそのまま文の連なりとして連なりつづける小説というものがありうるのか。この困難は直面するだけの価値がある。
中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』に《喜びもなく哀しみもないことへの怒り》というフレーズが出てきた。