20131125

 (…)たとえば人と人とのあいだでもそうだし、人と環境とのあいだもそうだ。そこにはAとBが両方なくちゃいかん。Aが人でBが人でもいいし、Aが肝臓でBが結腸でもいい。結腸での適応が起こるには肝臓を変えなくてはいけないんだが、肝臓の方を変えると、また結腸の均衡を崩してしまう。ある特定のコンテクストのもとで正しいことをやるという第一レベルの学習と並んで、次のレベルに進むと、自分自身の反応によって生まれるコンテクストの変化という事実を扱うもっと広い学習が必要になるんだな。ようするに、人生は地獄だってことさ。決まりきった行動をしてればいいのは舞台の役者だけだってこと。
 成長が中毒になることってあるかしら? そうなったらまちがいなく問題よね?
 そうだな、成長にはいつも、均斉(プロポーション)を――ことによれば致命的に――崩さずに成長できるかっていう問題がつきまとう。たとえばヤシの木には幹を取り巻く形成層がなく、成長して背が高くなるにつれ余分な肉をつけて太くなるということができない。ただ先端が伸びてくだけで、最後には倒れてしまうんだ。第一次的な変化が際限なく継続するのは命取りになるんだな。だとしたら、成長の痛みっていうのは第二次的な変化の必要性から生ずるものだろうか? そして、中毒っていうのは何かしら成長の逆か対立物にあたるんだろうか?
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「メタローグ:中毒」)



11時起床。歯を磨くためにおもてに出ると小雨の空気がじつになまぬるい。冬の終わりに冬が終わりであることをいやおうなく認識せしめる、あの春雨のきざしをはらんだ質感の空気にとてもよく似ている。緑色のにおいのする空気。いまとは異なる季節を思うときの感情をいいあらわす言葉がなぜ四季を有する日本語の歴史のなかで発明されてこなかったのか。あこがれがいちばん近い気がする。英語におけるlongの意味でのあこがれ。
なまあたたかい雨の日になると必ず思い出す音楽があってフィッシュマンズのあの娘が眠ってるとSyrup16gうお座なのだけれどたぶん両者ともに雨の日の室内の情景が歌われているそのためで、おなじなまあたたかい雨の日でも前者は春先の雨の日、後者は晩夏にとつぜんおとずれるその日を境に一気に秋めく雨の日というイメージの違いがある。冬の雨は凍てつくので大嫌いであるし夏の雨はべたべたするのでやはり大嫌いなのだけれど、なまあたたかい雨の日(寒→暖の変化をなぞって得られる認識)あるいは肌寒い雨の日(暖→寒の変化をなぞって得られる認識)はけっこう好きで、降りかたがそれほど強くないのであれば傘でもさしておもてをぶらぶらと散歩したくなる。小学校6年生のときに(…)をさそって雨のなかを目的なく散歩した日をよく覚えている。(…)は退屈そうだった。やつの頭の中にはテレビゲームしかなかったからだ。
パンの耳とバナナとヨーグルトとクリームチーズをコーヒーで流しこんでから箇条書きのメモをもとに二日分の日記を再構成した。頭の片隅がいまだに朦朧としてよどんでいるようなところがあったので推敲は後回しにしてひとまずたまっていた抜き書きにとりかかろうと決めたのが15時半。2時間ほどカタカタ打ち込んだところでジョギング。空腹状態で走るとやはりしんどい。コースを伸ばすつもりだったのだけれど結局いつもと同じ距離でノーモアジョギング。シャワーを浴びてからたまっていた洗濯物をまわし、冷蔵庫のなかの残りものを使いきる残飯のような夕食をとったのち、仮眠をとるために寝床に着いた。21時半だった。22時に目覚ましをセットしておいたのだが、思っていたよりもずっと深い眠りにもぐりこんでしまったらしく、次に気がついたときには3時過ぎだった。部屋の電気もパソコンもつけっぱなしだった。21時半に床に着いたことを思うとこれで6時間近く眠った計算になるのだからここで起床するのがベストだろうと濁った頭で考えもしたのだが、いちどスケジュールを崩すととことん崩し続けたくなる例の完璧主義を裏返しにしたやけっぱちが作動してしまったらしく、結局そのまま眠りつづけた。10時に目が覚めたときも同じ論理で三度寝した。