20131126

 (…)冥王星は独立の存在としてみれば無生物だ。が、もし冥王星と「わたし」とのあいだに相互作用があったら、冥王星と「わたし」とを部分として含んだもっと大きな全体のもつ特性を調べてみることにも十分意味がある。このより大きな全体は「生命」をもっている。その構成部分である「わたし」が生きているからだ。それはちょうど、「わたし」と呼ばれる全体にも、歯や血清みたいな無機的要素が含まれているのと同じことだな。そこで、もしシステムのある部分(B)を失うことがほかの部分(A)の生命を弱らせたり破壊したりした場合、AはBに中毒してるといえる。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「メタローグ:中毒」)



12時過ぎ起床。15時間近く眠った。二日分の睡眠だ。計算してみると、きのうという一日をじぶんは10時間半の活動と15時間の睡眠で浪費してしまったことになる。クソ忌々しい。こういうことを考えるとものすごくイライラしてしまう。時間がない時間がないと口癖のようにこぼしておきながら結局これかよとはらわたの煮えくりかえるような気持ちになって歯がぎりぎりなる。多少計画が狂っただけでたちまち適応できなくなってしまい自棄に走るじぶんの性向に我慢ならない。死ねよと思う。ほんとうに死ねばいい。口ばっかりだ。
体中いたるところが痛む。最後の二三時間はずっと浅い眠りだったためにぶつぎれの夢をいくつも見たはずなのだが、ほとんど忘れてしまった。ひとつは宮崎駿といっしょに森の神話性について語りながら屋久島を歩いている夢で、散策コースの途中にある休憩所めいた一画に立ち寄り、フロアの水浸しになった公衆便所に入りきたねえところだなと思いながら小便器の前に立ったところで目が覚めた。もうひとつは匿名的な女性、それもおそらく十は年上であろう女性と川端丸太町らしい交差点で信号待ちをしながらなにかしら機嫌を損ねているらしい彼女におべっかを使っている夢で、茶化すような言葉のところどころに何気なく歯の浮くフレーズをおりまぜるというこすっからい戦法でもって対峙していたところ、信号が変わったところでいきなり腕を組まれ、見るからに上機嫌で、なんて単純な女なんだろうと思いながらそのままスーパーに入店し総菜を物色しているところで目がさめた。
ストレッチ。パンの耳とクリームチーズとコーヒーの朝食。「A」推敲。麻痺したところで抜き書きの残りを片付けて17時過ぎにいったん終了。ぶつくさやりながら買い物に出かけたのち筋トレ。それから去年の11月分の日記をまとめて読み返した。この時期はちょうど「ブログ」ではなく「日記」を書いているのだけれど、二勤二休というシフトのせいで完全に病んでいる。出勤日の日記には必ずといっていいほどいかにじぶんの時間がないかという愚痴が書きつけられているのだけれどその愚痴自体にもキレがない。とにかく疲れきっている。読んでいてすごく気が滅入るし気の毒にもなるし胸のあたりがウーッとなる。週三日がやはりじぶんの限度なのだろうとあらためて思った。それ以上働くとぜったいに鬱病になってしまう。疲れた記述のトーンからなんとなく高校時代の鬱屈した日々を思い出した。このあいだ(…)とも喫茶店で話していたのだけれど、高一のときはまだいくらかマシだったとはいえ付き合いのあった連中がいっぺんに退学をくらった高二以降まともに学校に通った覚えがないというか少なくとも一限目から出席したことなんて本当に数えるほどしかない。週に一日は必ず休んであとはだいたい早くても三限目から出席、三限目より早く出席することがあったらだいたい昼休みに帰宅というパターンだった気がする。放課後はそれでもそこそこ楽しかった。だいたいいつも(…)と(…)の三人でだべっていた。どっかからサッカーボールなりバレーボールなりをパクってきてそれで簡易セパタクローをした。放課後から登校したことも何度かあった。はやびきしたところでべつだんするべきことがあったわけじゃあない。筋トレしたりサンドバッグ殴ったり蹴ったりしてあとはずっとテレビばかり観て過ごした。弟が中学から帰ってくるといっしょにSFCマリオカートボンバーマンをプレイした。本も映画も音楽もなかった。ときどき大学ノートに絵を描いた(ノートは上洛を機に捨てようとしたけれども捨てるんだったらおれにくれと(…)にいわれたのでたしかゆずったはずだ)。他校のチンピラにからまれてケンカになったことが何度かあった。安全靴で相手の金玉を蹴飛ばしてやったこともあるし、半泣きになりながら土下座をしたこともある。担任の胸ぐらつかんでどーんとやって窓ガラスをガシャーンとやってしまったせいで校長訓戒をくらった(踵の傷はまだのこっている)。いちばん印象にのこっているのは授業中の教室に入っていくのが億劫で、授業が終わるまでのひとときを便所でひとりなにをするでもなしに待ちほうけたおそろしく退屈なあの時間。あの時期に読書と出会っていたらまだもうすこしは救いのある十代を過ごすことができたんだろうけど。逃げ場なし、出口なし、八方ふさがりの印象しか地元にはない。休み時間になるたびに教室のちがう(…)のところにいって退屈だのつまらんだの生まれてくる時代を間違えただのくりかえしこぼしていた。大学に入って読書に出会ってからひまや退屈という概念が完全に消え去った。それはほとんど革命的な変化だった。きれいな言葉遣いで語る同級生におどろいた。上品な身ぶりや控えめな物腰にあこがれて必死で真似をした。工場労働以外の仕事が、車の改造以外の趣味が世の中にあるのだという事実が、実感をともなってはじめて腑に落ちた。ギャルでもヤンキーでもない女の子と対等な口ぶりでなんでもない世間話を交わしているじぶんになかなかなじめなかった。大学デビューという言葉がこれほど似つかわしい人間もなかなかいないだろうと思った。それがうれしくて誇らしかった。大学では高校以上に授業に出なかった。けれどもじぶんほど大学に入ったことによる恩恵を受けている人間もそうそういないだろうと思う。京都にやってきてほんとうに良かったと何度も思った。
とかなんとか書いているうちに気づいた。通勤のみならず通学さえもがじぶんには週三日が限度だったのだ。つまり強制的にどこかに出ることを余儀なくされるそのような義務をじぶんの肉体は週三度を限度としてそれ以上は受けつけない。
20時半。ここまで書いたところで夕飯の支度をはじめた。玄米、納豆、もずく、鶏胸肉とピーマンとパプリカ赤黄を塩こしょうとマヨネーズとオイスターソースで適当に炒めたやつ。シャワーを浴びてストレッチをしたところで23時半。「A」推敲。2時終了。完全に麻痺った。このあいだブログに引用した亜人が館をさまよう場面のほうを延々とああでもないこうでもないと修正に修正を重ねつづけて結局文章の意味がとれなくなってしまうところまで頭をバグらせてしまった。さっさと切り上げればいいものをずるずると無駄に時間を費やしその分だけ麻痺を重度化せしめるこの不毛な数時間。二重の意味での無駄だ。無駄のはさみうち。時間をどぶに捨てたようなものだ。「A」を片付けないことにはいつまでたっても次にいけない。いちど脱稿した作品を推敲するのにもう丸々二月もかけていることになる。頭がおかしい。どうにかしないといけない。どうにかなってほしい。もはやじぶんの力がおよぶ話ではない。「A」の次なんてものがあるのかどうかさえいまとなってはわからない。この営みはあまりにきつすぎる。書けば書くほどすりへっていくものがある。いまにも死にそうだ。はやく楽になりたい。あたらしい空気が欲しい。