20131127

観察者としてのわたしは、数学者に似た立場に置かれている。単独のものについては何もいえないし、それが存在することを経験から確証することさえ不可能だ。わたしにわかるのは、ものどうしの関係についての何かだけである。もしわたしがテーブルは「堅い」というなら、それは自分の経験の立証能力を越えたことをいっていることになる。わたしにわかるのは、テーブルとある感覚器官ないし感知装置との相互作用あるいは関係に、自分の通常の語彙ではあらわせない特殊な差異的堅さがあるということなのにもかかわらず、わたしは関係のもつ特殊な性質をその一構成要素にすっかり押しつけてしまうことでそれを歪めているわけだ。そうすることによって、関係について知りえたことが、自分には知りえないひとつの「もの」についての言明にすりかえられてしまう。すべての有効な命題が指示対象としているのは、つねにものどうしの関係である。二項関係の一方に「堅さ」が内在しているとする考えは人間のつくりものにほかならない。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「織地のなかの構造」)



夢。会食の現場にいる。畳張りの座敷に背の低い漆塗りの机がずらりと列をなしてならんでいるその一画にあぐらを掻いて座っている。じぶんの目の前の席は空席になっている。そこに(…)が突然あらわれる。予想だにしなかったことなのでおどろく。(…)は片言の日本語でじぶんの身内のだれかに話しかけたあと、ゆっくりとこちらに目をうつす。そうして意味ありげでおそろしげな微笑を浮かべてみせる。途端に、やはり妊娠していたのだ、と思う。おれの子を連れてきたのだ、と。座敷を後にし、(…)くんの住んでいるアパートとその最寄り駅とを結ぶモノレールの高架下を(…)とそろって歩く。スーパーでパンを見繕っているときにふと商品棚の上に黒いニット帽があるのが目に入り、こんなところに忘れてしまっていたのかと思って手に取りかぶる。
夢。チェンマイと京都の合体したような街並のなかを匿名的な恋人といっしょに四足歩行で駆け抜けている。雨が降っている。風も吹いている。両者ともに刻一刻と激しくなりつつある。交差点に達したところでいちど二足で立ちあがり、そろそろ部屋に帰ることにしようと話し合って決める。コンビニに立ち寄り腹をすかせている恋人にむけてうどんやらカレーやら弁当やらをひとつずつ差し出してみせてはどれがいいかとたずねるのをくりかえす。まがりくねった未舗装の坂をおりた先にひろがる断崖絶壁の一画にぽつんとある掘建て小屋にひとりでむかう。風が真横に吹きつけるなか、一組の布団を小脇に抱えながらその小屋にむけて原始人のような叫びをあげながら走りつづける。部屋の電気が灯ったままであるのに、また大家さんが勝手に入ったのかとげんなりする。オレンジ色の携帯電話が充電されたままであるのを見つけ、はてじぶんは充電なぞした覚えはないのにと思うも、やがてそれが恋人のものであることに気づく。
10時半起床。さみーね。やっとれん。パンの耳2枚とバナナ2本とクリームチーズとコーヒーの朝食。12時より「A」推敲。16時半まで。ブレイクスルーの手応え。しかしまだ完璧ではない。難所は計7ヶ所。すべて完成度90%の大台にのせることはどうにかできたが、残る10%の道のりがいちばんきびしい。小雨の降るなか傘もささずぶつくさやりながら買い出しにでかけた。前から歩いてきた小学生くらいの女の子がこちらとすれちがう瞬間に傘でじぶんの顔を隠した。brightとbrightlyの使い分けがわからず電子辞書で調べたら前者は形容詞で後者は副詞とあったのだけれど副詞の意味がわからないのでさらに調べたてみたところ動詞を修飾するのが副詞とあってそうだったのかと目から鱗。文法を覚えておくと便利だぞと(…)のいっていた意味がわかった気がする。英語の勉強、もう十日間くらい離れてしまっている。それもこれもぜんぶ「A」のせいだ。クソ忌々しい。
ジョギングに出かけようかと思ったけれども雨が降っていたし筋肉痛も残っていたし何より金曜日は(…)と四条方面にくりだす計画があるので無理して今日走ったところでどのみち木曜金曜と二連休になることを思えばおなじ二連休でも筋肉痛ののこる今日こそ休息にあてるべきだろうという計算が働いたのでそのとおりにすることにして、玄米、納豆、もずく、鶏胸肉とピーマンとパプリカ赤黄を酒と醤油とオイスターソースと砂糖とニンニクと生姜と塩こしょうで炒めた適当な夕食を喰らった。ただでさえ火力が弱くて炒め物にむかないカセットコンロなのだけれどガスが残り少なくなってきているときなんて文字どおり風前の灯で、強いられた弱火とろ火でちりちりちりちりとろくさい音をたててじんわりと火の通っていく野菜やら肉やらをクソ寒い屋外の水場で立って奥歯をカチカチ鳴らしながら眺めているとまことにもってクソ以下の生活だなというやるせなさを覚える。もういちど一戸建てに住みたい。しっかりしたキッチンのある家を借りたい。そのためには金か家賃を分担できる同居人が必要である。だから金か同居人が欲しい。そう祈っておくことにする。今年は願いの叶う年だから。2013年ラスト一ヶ月、最後の恩恵プリーズ!
20分の仮眠。またもやめざましを無視して朝まで寝過ごすところだった。二度寝におちいるまぎわにハッとなった。「A」に取り組んだところで昨夜の二の舞、麻痺に麻痺を重ねるだけだろうという見通しから気分を切り替えて、毎晩寝るまえに1頁ずつくらいのペースで読みすすめていた中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』の残りを一気に片付けることにした。ちょびちょび読み進めていたときにはあーやっぱり好き勝手にやればそこそこおもしろいの書けるじゃんくらいのアレだったのだけれど、ラリった言葉の氾濫を前に二時間も三時間たてつづけに対峙しているとさすがに圧倒されるところがあるというか、いやいやこれはけっこうな佳作だわと思いなおすにいたった。ほとんど雑といっていいくらいの手つきでヘルハウスの面々の末路が淡々と書き連ねられていく終盤には特にぐっとくるものがあった。水っぽさを遠ざけたうえで感傷を感傷としてきちんと成立せしめてみせる、そんなふうな筆致がほとんど完璧な精度で操られているところがなによりもいい。他の諸作品においてたびたび見られるあの甘ったるく俗っぽい湿っぽさはここでは完全に息をひそめている。《君の笑いには岸辺がない》《開放弦のように愚かなままで》《「元気でやってるかい? おれは病気だ」》《星空のアウシュビッツ》《意味の果てまで、歯車が円盤になるところまで》《聖書にアンダーライン》《掛け算になっていく言語》。以上、洪水の去ったあとで拾いあつめたきれいな貝殻のコレクション。
読むべきものを読みおえたところでそこまで腹が減っていたわけではないもののしかし腰痛治療のためにもとにかく食べねばならぬと、冷蔵庫のなかにあったマルタイラーメンを作ることにしたのだけれどそのままじゃ栄養なんてクソほどもないので湯豆腐用の豆腐をまるっと一丁ラーメンのうえにのっけてさらにその上から生卵を落とすというおそろしくIQの低い夜食をとった。美味いわけがない。むしろ気持ち悪い。
シャワーを浴びてからストレッチをした。風呂に入っているあいだカフカムージルやヴァルザーのすごさを本当にわかっている人間が果たしていまどれだけいるのだろうかと疑問に思った。すごいひとがすごいといっているのだからすごいにちがいないしすごいというていで通しておこうみたいな退屈で見栄っ張りな連中が結局は大半なんじゃないだろうか。ムージルの凄さというのは他二者にくらべるとおそらく格段にわかりやすい。けれどもカフカとヴァルザーにかんしては簡単にはすごいといえないところがあるというか、じゃあどこがといわれたら一瞬口ごもってしまうような、どもりがちになってしまうようなところがあるはずで、にもかかわらず(ヴァルザーはいまだそれほど有名でないかもしれないけれども少なくともカフカは)すごい書き手として抵抗なく受容されているような空気があり、のみならず神聖視されているようなところさえある。その事実がすごく気持ち悪い。これはずっと以前の日記にもたしか書き記した覚えがあるのだけれど、たとえばカフカの謎というのはいったいなにが謎でなにが謎でないかそれすらわからない謎めきそれ自体としてそこにあるわけであって、つまるところ謎という言葉の適用が危ぶまれるそのような謎としてあり、そういう意味ですごくむずかしい。一般的に難解となされるムージルなんかよりもよっぽど難解なのだ。文壇というか小説好きというか文学青年というかどういうくくりで語ればいいのかいまひとつよくわからないのだけれどその手のひとたちってちょっとそらおそろしくなるくらい右へならえみたいなところがあるというか、その界隈で流行りの言説の型みたいなのにけっこう疑いなくのっかってわかった風な口を利いてるひとの姿がちょっと俯瞰してみただけでバンバン目につくみたいなところがあって、それらの言説にたいしてくだされる評価にしたところでその内容の純粋なる是非や精度に焦点があてられるのではなくそのときいちばん勢力を有している言説の型を取り入れることに成功しているかどうか、流行の先端にいるかどうかが尺度になっているそんな空気がわりと感じられて、要するに、最大派閥をかぎわける政治的な嗅覚をフルに駆使したポジショントークでもって自らの立ち位置を確保しながらその瞬間は目新しく映るものの結局は流行り廃りの範疇にあるわけだからいずれは大量生産された古びた言説のひとつとして後世から無視されるほかないそのような言葉だけを排便しつづけるだけの有象無象のように見えて、悪いけどこのひとたちきっと一生なんにも作り出せないなと思う(たぶんじぶんがSNSに手をださない理由の一端はここにある。つまり、その手の連中からの面倒くさいアプローチを避けたいのだ)。本当の作家はつねに時代の鬼っ子だろう。芸術家とは無惨なあだ花だ。そしてもちろんひとびとの手によってかわいがられる鬼っ子もあれば、多くの目によって観賞されるあだ花も世の中には少なからずある。ルネッサンス吉田のおもしろさは「時代遅れ」の実存主義(的苦悩)を、この時代の知性を総動員して賦活せしめているところにこそある。