20140115

 ある言語の規則はそれをしゃべっている者ではなく、それを学ぶ「外国人」の側から考えられたものである。ということは、私自身は、自分のしゃべっている日本語の文法を知る必要がなく、また知ることができないということを意味する。しかし、私は、外国人が日本語をしゃべるとき、その文法的まちがいを指摘することができる。ということは、私が文法を「知っている」ということになるだろう。だが、私は外国人のまちがいに対して、その文法的「根拠」を示せない。たんに、「そんなふうにいわない」というだけである。その意味では、私は日本語の文法を「知らない」のである。私はたんに「用法」を知っているだけである。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



10時に起きていよっしゃ今日も一日気合い入れてやるかと歯を磨き水場に出て顔を洗ってから部屋にもどり布団をたたんでストレッチをしてから洗濯機をまわして干しっぱなしだったほうの洗濯物を取りこんで畳んで収納してさてひと息ついたところでルー・リード『Berlin』を流しながらトーストとバナナとコーヒーの朝食をとったのだけれど昨年末に考案した英語・作文・読書の三単元を一日2コマの時間割に当てはめて転がしていくという時間割を昨日から適用しており昨日は昼の部を英語にあてて夜の部を作文にあてたので今日は昼の部を読書にそして夜の部を英語にあてることに必然的になるわけで読書というくくりでまとまった時間をこうしてとることになるのはとてもひさしぶりな気がして(…)来日に備えて英語の勉強を開始しはじめた昨年4月ぶりなんではないかというのが実感の正直なところなのだけれどここ最近ちびちびちびちび読み進めていた大岡昇平の『俘虜記』がさしあたりの読み物で俘虜にまつわるほとんど百科全書的な記述とその生活のなかでくりひろげられる無数の挿話とそしてなかば文化人類学的でもあり社会学的な実験と観察のようでもある収容所というひとつの圏内で発生し展開していく文明の通事的な見取り図とのけっして大きな言葉のもとに集約されることもなければ結実されることもない単なる連鎖だけがこの小説の推進力でありそれゆえにこの小説を読んでいるとたびたび小説を小説たらしめる臨界のようなものをおおいに意識せざるをえないのであるけれどたとえばなぜじぶんはジャングルで偶然出会ったあの米兵を撃とうとしなかったのかとひたすら自問する序盤のいかにもそれらしい文学的主題に彩られたくだりというかおのれの心理の襞をとことんかきわけて探求していくような記述が結局はいかなる心理=真理にも落着することなくただ撃たなかったという事実だけがあったのだという認識のうえにとどまりそしてそのままいともたやすく打棄られてしまって二度とかえりみられることのないその点だけとってもこの小説が物語であることを否定し文学の大文字に依拠することを拒絶していることの証左としては十分である。二度とかえりみられることのないとか勢いで書いてしまったけれどじっさいはまだ読み終わっておらず明日の夜の部でおそらく読了することになるのだろうけれども読書中はグレン・グールドの演奏するブラームスの間奏曲集とビル・エヴァンス『Waltz For Debby』とHenry Flynt『You Are My Everlovin' / Celestial Power』とthe pocketsを聴いてどいつもこいつもすばらしくて胸のふるえるたびに本当にここ最近音楽を聴いていなかったのだなと改めて痛感しほとんど反省に近い気持ちになったというかこのような豊かな経験を放り出しておれはいったい何をやっていたんだろうかと取り返しのつかない数ヶ月間に歯噛みした。昼過ぎに空腹をおぼえたので(…)の実家でいただいた伊勢うどんの残りを茹でて食べたのだけれど茹でるための湯1リットルをティファールで湧かすその待ち時間を水場のそばに設置されてある大家さんがしばしばそのうえに腰かけてひなたぼっこをしている丸椅子のうえに同様に腰かけて本の続きを読んでいたのだけれど日差しがたいそう心地よくて体感温度だけなら外にでているほうが窓のないうすくらがりの自室にこもっているよりもずっと暖かかった。はやく春になれ。
16時前になって読書を切りあげてから歩いて図書館にでかけてその間は例のごとくぶつくさやり通していたのだけれどそろそろこの教材での音読も終わりなのかもしれないと思うしそもそも音読自体がまったく面白くないのだけれどしかしもっとも効率的な勉強のうちのひとつらしいので読むにとどまらず書くにとどまらずしゃべるための英語を身につけるという目標のあるかぎりはやはり続けなければなるまい。図書館で二週間以上延滞してしまったCDを返却したその帰りにそのままスーパーに立ち寄り食材を購入し帰宅してからは例のごとくダンベルを使って腕と首回りの筋肉を酷使してそれから玄米と納豆と冷や奴と鶏もも肉と白菜と水菜とにんじんを酒とこんぶだしと塩こしょうと味噌でタジン鍋した常とほとんど代わり映えしない夕食をかっ喰らいながらウェブ巡回に励んだところで『A』の紙本があらたに3冊売れていたのを発見したのでいよっしゃあ!毎度あり! ついでだから本の紹介欄に受賞歴と銘打って2011年第55回群像新人文学賞一次選考落選・2012年第49回文藝賞一次選考落選・2013年第29回太宰治賞一次選考落選・2013年第45回新潮新人文学賞一次選考落選と年表みたいに羅列してみることにしたのだけれどじっさいに更新したその羅列をブラウザで確認してみると文字数の関係で見栄えが悪くってそれだからひとまず年号だけ削除して体裁をととのえてさて輝かしくも惨憺たる苦渋と辛酸にまみれたわが「亜人」の歩みをここに開陳することにしたのだけれどこれは大西巨人が『巨人の未来風考察』に収録されているエッセイのなかでみずからがいかなる文学賞とも無縁であることを逆手にとって自著の帯文に「◯◯文学賞非受賞!」みたいなことを羅列すれば案外売れるんでないだろうかみたいなことをちょっと慣れないユーモアの筆致で書いていたのを思い出したからででもこれだと編集部と下読みさんらにたいするしょうもない恨みがましさというかみっともないルサンチマンというかなかば八つ当たりめいた憤りみたいなものがありありと露呈してしまうんでないかとの懸念もなくはないというかこれはちょっと稚拙だな大人気ないな子供みたいだな新人賞というゲームの規則にのっかった以上はその規則に従うべきなのだからここで不満をたれるほうがむしろよっぽどみっともないよなといくらかの羞恥心とともに思わないこともないのだけれどもういいや知ったことか! というわけでひとまず落選者の狼煙をここに高々とあげさせていただくことにして講談社文芸春秋と新潮社は50万円そして筑摩書房にかんしては100万円じぶんが本来新人賞受賞とともに獲得する予定であったこれらの賞金相当額を支払ってくれんかぎり連中の雑誌には一行たりとも書かん!
仮眠とってシャワー浴びて部屋に戻ってから菊池成孔&南博『花と水』を聴きながらストレッチをしてここまで日記を書いたら22時半でそれから本日の夜の部ということで英語の勉強をはじめたのだけれど発音練習も音読も退屈きわまりないものなのでけっこうぐだぐだな案配であったというか勉強にかんしてもなんというか最初に決めた回数ややり方をたとえ勉強の過程でそれがいかに非効率的なアレであるかが判明したところで容易には曲げずできれば最後まで貫こうとするわけのわからない意気地の勝つところがじぶんにはあってよほど非効率的な場合はそりゃあ路線変更もするのだけれどその決断にいたるまでがたぶんけっこう長くて退屈や苦痛を感じるたびにしかしこの退屈と苦痛の先にこそひらかれる地平があるのではと期待してしまう気持ちのようなものがおそらくありこれはしかし背負った荷物の重さを誇るタイプの奴隷道徳と相通ずるところがあるはずで一般にストイシズムと呼ばれるものの弱点もやはりまたここにある。要するに体育会系の根性論なのだ。喉の痛みがひいたかわりに痰が絡むようになって絡むそいつのせいでいつからか咳が出はじめて咳をしてもひとりで風邪というやつは治りぎわに咳風邪に転嫁してしまうと完治するまでけっこう時間のかかることになってしまうという経験則があるのでこいつマジで邪魔くさマジでめんどくさマジでしぶしぶ床に着く3時半!