20140116

 ブランケンブルグは精神分裂病を「生きられる現象学的還元」であるといった(『自明性の喪失』)。現象学者は自明性――私が在り対象世界が在るというような――を括弧に入れていくが、その括弧をいつでもはずすことができる。しかし、精神分裂病者においては自明性は失われたままである。分裂病者は、私があるとか物があるということをわかっているが、それを実感できない。彼らにとって、現実があるとか私があるとかいった自明性の世界をもつことが、すなわち、括弧をはずすことがとてつもなく困難なのである。しかし、現象学者が、任意に括弧に入れたり括弧をはずしたりすることができるとしたら、何によってか。
 たとえば、ヒュームはデカルト的な思考主体を疑った。多数の私があり、同一的な主観なるものは政府のようなものであり、習慣上存在するものだと、彼は主張する。彼はこのような懐疑についてつぎのように述べている。《私にできることは、普通になされていることをただ見守ることだけである。それは、こうした難問はまれにしか、というよりけっして考えられていないということ、かつて心に現われたとしてもすぐに忘れられ、わずかな痕跡しか残さないということである。きわめて精妙な推論はわれわれにほとんど、というよりけっして影響を与えない》(『人性論』土岐邦夫訳、「世界の名著32」、中央公論新社)。しかし、こう書いた後、彼は直ちに言い改める。

 しかしながら、きわめて精妙な形而上学的反省がわれわれにほとんど、あるいは少しも影響しないとは、なんということを、いま、言ってしまったことか。私のいまの感じと経験からこうした考えを見直し、異を唱えざるを得ないほどである。人間の理性に見られるこれらさまざまな矛盾と不完全さとを強烈に見せつけられて動揺を与えられ、頭は熱して、私はいまにもすべての信念と推論をしりぞけてしまいそうであり、どんな意見を見てもほかの意見よりいくらかもっともらしいとか、よさそうだとか思うこともできないでいる。私はどこにいるのか、なんなのか。私はいかなる原因から私の存在を得て、いかなる状態へ帰るのだろうか。私はだれの好意を求めようとするのか、まただれの怒りを恐れねばならないのか。どんな存在が私を取り巻いているのか、そして私はだれになにか影響を与え、だれが私になにか影響を与えているのか。私はこれらすべての問題にとまどい、想像しうる限りの最も嘆かわしい状態に自分があり、このうえなく深い暗闇に包まれ、肢体も機能もその使用をことごとく奪い去られているように思い始める。
 はなはだ幸いなことには、理性がこうした雲を吹き払う力を持っていないからには、自然みずからがその目的を十分に果たして、心のこうした傾きを和らげるなり、あるいは感覚機能がなにか気晴らしを求め、生き生きとした印象を得てこういう妄想をすべてぬぐい取るなりして、この哲学の憂いと錯乱とから私を癒してくれるのである。私は友人たちと食事をともにし、すごろくで遊び、会話を交して楽しむ。こうして、三、四時間、気を紛らしたあとで、さきほどの思索にもどろうとすると、これらの思索はきわめて冷ややかで、強いられた、愚かしいものに見え、これ以上入り込む気にはなれないのである。(『人性論』同前)

 ヒュームは、このあとも、この懐疑が空疎で些末なものでしかない、と同時に自己破壊的に作用するという、矛盾した事柄を延々と述べている。このような記述は、デカルトにおいてと同様に、ヒュームにとって、懐疑がたんに知的なパズルのようなものでなかったことを示している。それはほとんど病的な状態を招いているのである。しかし、彼は友人たちと会食するとそこから自明性の世界をとりもどす。それは、カントの観点からいえば、超越論的自我(統覚)が「在る」ということを意味するのである。カントがいう統覚はその欠如においてこそ露呈する。ハイデガー風にいえば、それは存在者としては無であるが、存在論的な働きとして「在る」のだ。
 ヒュームにとって、超越論的還元をしたり、さらにそれをはずして日常的な自明性の世界に戻るというようなことは、自在な作業ではない。ところで、もしそうした往還が自在にできるのが哲学者であり、できないのが病者だという区別がかりに正しいとしたら、ヒュームはむしろ病者であろう。しかし、哲学者――哲学研究者ではない――とは、むしろその意味で病者であるといわねばならない。哲学者は、たんに自明性を疑うのではなく、むしろ自明性を奪われているのである。もちろん、私は哲学者が分裂病者に近いといいたいのではない。哲学において、「超越論的還元」はたんなる方法ではありえないといいたいのだ。
 ソクラテスはその懐疑の開始をアポロンの神託に求め、デカルトは夢に求めている。それらは彼らの懐疑がたんに自発的な意志によるものではないことを意味している。いいかえれば、疑うことは人が任意に選ぶゲームではなく、ある種の作為体験なのだ。疑うこと、そして疑う主体は、現実的に存在する差異、あるいは他者性から来るのである。そのような主体は、超越論的主体とは別のものである。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



10時起床。今日の目覚めはいまひとつで布団のうえに体を起こしてみてもまぶたが重たく体が気だるくそれに寒さのせいで腰痛も悪化しているし喉にからむものがいまだなおあってこれもまたうっとしい。きのうは結局薬をひとつも飲まずに過ごしてしまったのだけれどそのかわりに四六時中のどぬ〜るスプレーを噴射していてそのおかげで今朝も起き抜けに一発かまそうとしたら中身が切れていたのでこれは薬物市場にまで足をのばして買い出しにいかねばなるまい。歯をみがいて凍てつく真水で顔を洗って部屋にもどりストレッチをしてからトーストとバナナとコーヒーの朝食をとりつつひさしぶりに図書館のウェブサイトでめぼしい音源はないだろうかといろいろ検索をかけたのだけれどやっぱりノイズとか実験音楽とかは見当たらないというのは図書館を利用しはじめた七年前と変わらずそのかわりジャズとクラシックは有名どころにかんしてはそこそこそろっているのでそのあたりくらいしかせめるところがないというかジャズとクラシックに共通するのはネームバリューと作品のクオリティがだいたい比例しているという点でこれはジャンルとしてとても幸福なことだなと思う。
今日の昼の部は作文なのでさっそく「偶景」にとりかかることにしたのだけれどすでにストックは切れているのでその場合はこれまでに書きためたものの改稿にあてると決めていたのでそうすることにしてこれけっこう厄介であるというかなかなかに面倒くさい作業であるし要するに一種の推敲であるわけでそのぶんすりへるものもあるわけだけれどそれでもときには手を加えることで見紛えるばかりにきらめき輝きはじめる断片というのがあってそんなきらきらをみずからの手でこねあげることができた瞬間のよろこびとたしかな手応えだけを推進力として黙々と延々ときりもなければせっそうもなくひたすらにひたむきにキーボードをたたきつづけていたら15時半になっていてとても疲れた。そして目がしぱしぱする。作業BGMはジム・オルーク『Corona-Tokyo Realization』とデニス・ラッセル・デイヴィス指揮『ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第8番』(この弦楽四重奏けっこう好きなのだけれどカップリングとしてペトリス・ヴァスクスという作曲家とアルフレット・シュニトケという作曲家の曲も収録されていてこれいままでまともに聴いたことがなかったし調べてもいなかったのでいま調べてみたところ前者はエストニアの作曲家でエストニアということはアルヴォ・ペルトであるしリトアニアの隣国であるしで妙に親近感を抱いてしまう。後者はショスタコーヴィチと同じソ連の作曲家らしい。そしてついでに指揮者のデニス・ラッセル・デイヴィスについてはウィキによると「特にミニマル音楽やバルト三国の作曲家などの現代音楽を得意とし」とあるのでちょっと気になって図書館のウェブサイトで検索してみたところジョン・ケージフィリップ・グラスストラヴィンスキーのアルバムが一枚ずつヒットして前二者にかんしてはとっくの以前にインポート済みであった)とカール・ハインツ・シュトックハウゼン『ヘリコプター弦楽四重奏』とジョルジュ・リゲティ(ジェルジュという表記にどうしても慣れない)『自動演奏楽器のための作品集』とマジカル・パワー・マコ『マジカル・パワー』(「チャチャ」みたいな音楽つくりたい……)とペンギン・カフェ・オーケストラ『Music From The Penguin Cafe』。「偶景」はしょせんは断章のつらなりにすぎない作品であるためにどんな音楽をおともにしてもさほど気にならずに作業にはげむことができるという利点があることに気づいた。短距離走の集中力を発揮すれば問題ない。
『A』の売れ行きや閲覧数を定点観測していてわかったのはやはりTwitterの偉大さというものでだれかがつぶやいてくれるたびに紙本が売れて一冊売れるそのたびにこちらに400円が転がりこんでくるこの作用はじぶんのふところ具合とあわせて考えてみるとほとんど経済効果であると断言してもさしつかえないレベルでとくに(…)さんのつぶやきはやはりでかいのでこれはもういずれお礼として生八つ橋と賞味期限の偽装されていない赤福をセットで贈らなければならない。いまからでも遅くはないからじぶんでもTwitterをはじめるべきなんではないかという気もして作文中にちょっといろいろ考えていたのだけれどたとえばムージルとかヴァルザーとかカフカとかベケットとかウルフとかマンスフィールドとかその手のキーワードで検索をかけてヒットしたアカウントをことごとくフォローしてそれであとは一日につき一度か二度ほとんどbotのように「ムージルの未発表原稿発見だって!」とか「カフカの日記で言及されていた幻の小説とうとう翻訳されたみたい!」みたいな虚言とともに『A』へのリンクを張るみたいなことを毎日の習慣として延々とくりかえしつつときにはオバマビル・ゲイツ相手に@マークをとばして“Hello. I wrote a new Bible. Thank you very much.”と語りかけるという離れ業をみせるi_want_moneyというアカウントを作成してプロフィール欄には「一世一代のステルスマーケティングです」と紹介文を書き記すみたいな計画を思いついたりしたのだけれど思いついた時点でもうすっかり満足してしまって結局実行に移さなかった。だけれどもいずれ売り上げがぜんぜんのびなくなってきたらやはりなんらかの対策は打たなければならないと思うし前の前の職場すなわち中古ゲーム店で京都市最低賃金を大幅に下回る時給680円でバイトしていた学生時代に同僚の(…)くんというひとがいてそのひとはチップチューンを作っていたのだけれどハードコアなことをやったりアングラなことをやったりするのであれば作品それ自体と同じレベルでセルフプロデュース力が重要になってくるみたいなことをけっこうしきりに口にしていてそれはやっぱりまあそのとおりなんだろうなと当時から思いつつも結局いまのいまにいたるまでそこのところをサボり続けてきたというかむしろ意図的に避けてここまでやってきたみたいなところがたぶんあってでもこの方針もひょっとするとぼちぼち変更するべきなのかもしんないしそうなったらまずいちばん最初にすべきなのはかねてから言いつづけているようにこのブログを閉じることだろう。
薬物市場にまで例のごとくぶつくさやりながら歩いて出かけてのどぬ〜るスプレーを購入してそれから生鮮館にたちより食材を購入した。帰宅してからさて筋トレでもするかと順繰りにこなしているメニューの関係上腕立て伏せをしようとしたのだけれど右手首に違和感をおぼえてこれおそらくきのうダンベルを使ったさいに痛めたものでそれだから大事をとってお休みすることにしてかわりに懸垂と腹筋をした。それから玄米と納豆と冷や奴ともずくと鶏むね肉とチンゲンサイと水菜とニラを酒とコンソメとごま油でタジン鍋したしょうもない夕食をかっ喰らいたまっていた日記の読み返しをこなしてから(…)くんの送ってくれた「A」感想メールにたいする返事を書いたのだけれどこの感想メールは激烈なるエゴサーチの結果発見した(…)くんのものとおもわれるブログにそのままアップされているのをじぶんのメールボックスに届いていたものを開封するよりもはやく読んでいたので彼の流儀にならってこちらもこちらでしたためた返信をイニシャルトーク仕様に変更したうえでここに転載しておくことにする。

おお、わざわざ丁寧な感想をありがとう。楽しめてもらったようでよかった!
推敲にはたしかにかなりの時間をかけたことになるわけやけど、でもじつをいうとおおまかな変更っていうのはあんまりないんちゃうかっていうのが、書き手としての実感なんよな。いちばんおおきな変化としては、やっぱり漢字とひらがなの割合の変化やろうけど、それ以外となると、読点の位置やらこまかな言葉遣いの変更やらぐらいで、要するに、文章のリズムをととのえるにひたすら終始しただけっていう気がするんよ。だからスカイプで話したときにもいうたし、ブログでもたびたび書いたように思うけど、読み手からすればなんのこっちゃかわからんような、ほとんど無益な労働をひたすら続けとったっていうような三ヶ月間やったよね(でも、そういうこだわりこそが、すくなくともじぶんにとっては、ものを作るにあたっていちばん強烈な指針としてあるわけやから、ぜったいに無視することはできやんのやけど)。だから、たとえば(…)くんが指摘してくれた探検のくだりにかぎっていうなら、狩人のプロフィールについて説明するくだり、あそこはたしかにまったくあたらしい「要素」をひとつ加筆した。あたらしい「比喩の星座」をかたちづくるにたるだけの、ひとつの(その他のものにくらべればごくごくちいさいものやけど)点をうったよね。それはまちがいない。でも、それ以外にかんしては、初稿の時点でもともとあったものを、もうすこしこっちの気持ちにしっくりくるかたちにブラッシュアップしただけって感じかな。大佐が小蟹と対峙するくだりも、黒ヒョウにがぶりとやられたあとのくだりも、たしかにずいぶん書き直したはしたし、強烈にうっとうしくなやましい難所ではあったんやけども、でも両方ともあくまでも文章をととのえたっていう域にとどまっとるっていうのが、こっちの実感(ただ、がぶりとやられたあとの大佐のモノローグ、あそこにもやっぱりごくごく小さいものながらもあたらしい点を打ったっていう気はするけども)。
(…)くんのいう「思考のずらし」っていうのが具体的にどこを指しとんのか、ちょっとわからんのやけども、「邪道」の影響っていわれると、やっぱりちょっと答えにくいなあ。なんせ、いちどすでに書き終えてはおる作品なわけやし、いちおう「改稿」とは銘打ちはしたものの、何度もいうように、しょせんは文章単位の洗練でしかないわけやから、「邪道」の執筆を経由して獲得した「論理」の挿入する機会っていうのは、今回の推敲をとおしてべつになかったんちゃうんかなって、じぶんではそう思う。でもまあ、そういうのは、傍目から見たほうがあんがいくっきりするものなのかもしれんね。なんせおれ、「A」は死ぬほど読み直しとるし、そんでそのたびに変更を加えとるわけやから、(…)くんに渡した初稿がどんなやったかっていうのも、正直よくおぼえとらんのよ。じぶんでは今回の決定稿とそんな大差ないって思うとるんやけども、ひょっとすると、けっこうがらっと印象が変わるくらいやったりするんかな。さすがにそれはないと思うけど。
小説、まだまだ書き続ける気まんまんみたいで、よかった。惰性でつづけるくらいなら、さっさと気持ちをきりかえて、べつの楽しみをあてにして生きていったほうが断然いいと思うし、そっちのほうがきっと健康的やとも思うけど、ほかにとりかえのきかへんよろこびがそこにあるんやったら、どういうかたちであれ、やっぱり書きつづけるんがいちばんやと思うよ。そういうよろこびって、よっぽど運のよい人間しか出くわすことができへんもんやから。おれも(…)くんも、だから、すごく運のいい、心底めぐまれた人間なんやと思うよ。「小説を一生続けていく」って(…)くんはいうけど、要するに、そんなふうにちからづよい断言をできるくらいじぶんを魅了してくれるものに出会えることのできるひとが、いったいいまの世の中にどんだけおるんやろうってこと。おれも(…)くんも、めぐまれとる。そんでもって、すごく運がいい。だからこそ、めぐまれてないひと、運のわるいひとにたいして、妙な敵対意識をいだきすぎやんようにね。たしかに連中、しばしばすんごい頭にくる。おれもいまだに、思い出してむかむかするようなこと、掃いて捨てるほどある(今日もひとつ、頭にくることを思い出して、イライライライラしてしもて、作業にならんひとときがあった)。でもそこには、罠があるよ。気をつけよう。誇りの使いどき、おたがいにまちがえやんようにね。
100冊売れて、印税が入ったら、(…)くんも連れて、みんなでまわらん寿司でも食べにいこう!

この返信をカタカタやっているときに当の(…)くんから携帯のほうに感想メール送ったんでよろしくとあったのでいまそれにたいして返事書いとるからあせるなと返信して書きあがって送信したところで携帯のほうでも返事送ったよといちおう念押ししておいてそれから床にもぐりこんで仮眠をとった。15分の仮眠ののちシャワーを浴びて部屋にもどってからストレッチをしてそれでなんとなくニュースサイトをチェックしていたら芥川賞直木賞の結果が発表されていてクソ今年もまたおれは落ちていたのかと思った。時間割生活を再開できたことじたいはとてもありがたいしうれしいのだけれどそれにともなって首から腰にかけてのポンコツどもがまたさわぎつつあってこれ寒気の影響もおおいにあると思うのだけれど今日はとにかく首が痛くてあー頸椎症だーという感じであるのをそれでもごまかしごまかししながら今日の夜の部は読書の時間なので大岡昇平『俘虜記』の残りを最後まで読んだ。面白かった。いずれ『レイテ戦記』も読みたい。それからネットで偶然発見したスモーク=リーというウェブ漫画家の「スカイスイマー」という漫画と「愛してその悪を知る」という漫画をたてつづけに読んで今年にはいっていちばん笑ってこの笑いの質ってどこか木下古栗に似ているなと思ってドツボにはまったのだけれどギャグってツッコミ不在のまま真顔のテンションでくりだされつづけていくのがいちばん面白い。スーパーで購入していたカニクリームコロッケをふたつ食ってカニクリームコロッケよりも偉大な発明をいまだ人類は成し遂げたわけがないと思うのだけれどそのような偉大な発明品で小腹を満たしたあとは『ゴダール映画史』をぱらぱら読んだ。BGMはSalon Music『Sleepless Sheep』と宇多田ヒカルHeart Station』とアストル・ピアソラ『La Camorra』とFenn O’Berg『The Magic Sound Of Fenn O'Berg』。4時すぎに寝た。