重要なのは、カントが「普遍性」を求めたとき、不可避的に、「他者」を導入しなければならなかったこと、その他者は共同主観性や共通感覚において私と同一化できるような相手ではないということである。それは超越的な他者(神)ではなくて、超越論的な他者である。そのような他者は「相対主義」をもたらすのではなく、それのみが普遍性を可能にするのだ。
(柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス――』)
たとえば、全称命題(普遍的命題)が成立するためには、われわれは限りなく(無際限に)事例を集めなければならない。しかし、そうしても、それが「無限」に至ることはない。たとえば、ギリシャ以来、初歩的論理学では、「すべて人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、ゆえに、ソクラテスは死ぬ」というようなことが三段論法の例にとられる。しかし、「すべて人間は死ぬ」という命題は、経験にもとづく一般性(無際限)であって、普遍性(無限)ではない。死なない人間がいるかもしれないのだ。だが、われわれは、誰かが死なない人間がいるという反証を出さないかぎり、この命題を科学的な真理であるとみなしてよい。むろんそんな反証は不可能であろうが、とりあえず、ありえないことではないと考えなければならない。そこで、全称命題の成立の根拠は「他者」に求められるのである。普遍的ということが「他者」を導入させずにいないのだ。
(柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス――』)
10時にめざましで起きるなり勤務あけの平日はいつもそうであるのだけれど今日から時間割生活を送るというよろこびに目がきりっとさめてあさいちばんのハイテンションで布団をたたんでから歯をみがき口をゆすぐためにおもてにでるとすみわたった快晴でなんとも景気のよろしいものだと思ったのだけれど頭痛も発熱もすっかりなりをひそめてしまったそのかわりに喉がかすかに痛くて鼻をかめば青っ洟でさっさと完治させなければいつまでたってもジョギングに出ることもできないだろうからひきつづき薬をがぶ飲みしていこうと決めた。赤塚不二夫のトリビュート版に入っている電気グルーヴとWhy sheep?をくりかえし流しながらストレッチをしたのは昨夜抜き書きをしているあいだじつにひさしぶりにヘッドフォンでたっぷりと音楽を聞いたその名残によるところもおおきくて昨夜はDavid GrubbsとArto LindsayとAnimal Collectiveだったのだけれど後者ふたつにかんしては円町時代ほとんどまったく外出せず外出したところで同僚もいなければ来客とのコミュニケーションも敵対的な意識以外はほとんどまったくない勤め先のアダルトショップであったあの時代の徹底して没交渉だった記憶に直結していてとてもなつかしく思い返される。最近はめっきり音楽を流す時間が少なくなってきていたのだけれどやはりちょっとした生活の隙間でもなんでも利用して手持ちの音源のなかからアルバム一枚ゆっくり通して聴くぐらいのことはしたいなと思ったのでトーストときのう職場で去り際(…)さんからいただいたチョコレートを食べながらコーヒーを飲んで簡単にウェブ巡回する朝のひとときとそれから昨日付けのブログを一部加筆修正するひとときとそれらをアップしてから今日付けのブログをここまで書き記すまでのあいだなんとなく目についたオリヴィエ・メシアンを流してメシアンを聴くのなんていったい何年ぶりだろう!
ストレッチをしているときに玄関の引き戸をたたく音がしたのでさては荷物だなと思いながら出るとそのとおりでジョーシンからのお荷物ですといわれてエディオンと記されたダンボール箱を受け取った。それから食パンにチーズをのせてトースターに設置しようというところで今度はノックも何もなくいきなり引き戸をひくものがあってやはり宅配便で引き戸をひいたその先まぢかにトーストの用意をしていたこちらがいたものだから不意打ちのようにとつぜん至近距離で目があってノックのひとつやふたつくらい覚えたほうがいいんでないかと若干不快感を覚えなくもなかったのだけれどさすがに相手も相手でみずからの無作法に思いあたったものらしく若干動揺し目をふせるそんな身振りの視認されないこともなかった。運びこまれたダンボールにはBCCKSとあったのでサインして受けとってから部屋にもどってダンボールを解体して中にはいっている20冊のうちの1冊をとりあげて表紙の出来を確認しそれから中をぺらぺらとめくって乱丁などないかだけチェックした。文章に目を通すときっとまた推敲を重ねたくなってしまうだろうことはまちがいないのでざっとチェックしたあとはふたたびダンボールにつめなおして視界から遠ざけた。
なによりもまず献本の準備をするべきだと思ったのでひとまず(…)兄弟と(…)とふたりの(…)さんと(…)さんの計6人分の封筒を用意してそれぞれに宛名を書いて(…)兄弟にかんしてはいまさらどうのこうの断りをいれるものでもないだろうとのアレから中身は本だけで次いで(…)には年賀状かわりのメッセージと去年の秋木屋町の焼き鳥屋で支払わせてしまったじぶんの飯代に若干の利子をつけて3000円を同封することにして一方の(…)さんにはブックカバーとポニョの件についてあらためて短いお礼の手紙を書いて同封して(…)さんともう一方の(…)さんにはやはり「A」読者第一号第二号のおふたりであるのでいろいろ思うところもあるというかしみじみと回顧されるようなところもなくもなかったのでやはり短い手紙を書いて同封して最後に(…)さんにたのまれていたサインを「A」の後ろのほうのページにある略歴の欄の余白に記入した。手紙は原稿用紙に書いたのだけれど書いていてあらためて痛感したのはじぶんは手書きであるとまったくもってまともな文章を書くことができないという事実でそもそも文章というものにたいして意識的にとりくみはじめたのが二十歳かそこらでそのときにはすでにパソコンがありそしてブログ文化の夏真っ盛りでありそれゆえに文章とはすなわちキーボードを用いて書くのが当然である現代っ子みたいなじぶんがいるわけであるというか少なくとも意識的に自発的にそして楽しみとともに文章を書いた最初の体験というのがキーボードを用いての作文であってひょっとするとそれ以前に携帯電話のメール機能で(…)相手に馬鹿話をポチポチポチポチやっていたのが最初だったのかもしれないけれどもいずれにせよ紙とペンではまったくなくてそれゆえに削除と加筆にたやすくアクセスできるデジタルな書き方を前提として書きはじめたじぶんにとってはそれら一手間要するアナログの書き方が困難であるというかその前提が奪われてしまうともはや簡単な文章さえ書くことができないみたいな状態になってしまう。それだから(…)さんにたいする手紙を最初に書きはじめたのだけれど原稿用紙で10枚近く書き損じてとても疲労した。ゆえに手紙を書くときはこれまでずっとそうしていたようにやはりいちどリッチテキストファイルを開いてそこにカタカタやって完成させたものを手書きであらためてなぞるというのがベストであるように思われたのでふたりの(…)さんに続いて手紙を書くにいたったときはそうした。したらたやすく仕上がった。すべて終えると14時をまわっていた。
コンビニにいって食器用洗剤とゴミ袋を購入して一万円札を崩して(…)のもとに送る封筒に同封する現金の準備をととのえてそれからすべての封筒の封を閉じようとしたところで糊を切らしてしまっていることに気づいたのでしかたなくホッチキスで口を閉じてから歩いてスーパーまで出かける途中にある郵便局にたちよって郵送手続きをした。郵便局を出てスーパーに向かおうと歩き出したところで前方からやってくる自転車に気づいたので道を譲ろうと左によったのだけれど自転車も同じ方向によってきたその結果としてとおせんぼしているみたいな感じになってしまいここまでならべつだんよくある光景だというか一種のあるあるネタみたいなものなんだろうけれど仕切り直しというかたちでふたたびさらに左手によったこちらとまったくおなじ動きを自転車に乗ったマスクの女性のほうでもまたとってその結果第二次とおせんぼとなってというのが幾度となくくりかえされていくうちに最終的に第六次とおせんぼくらいにまで数のふくれあがることになってしまってこれ奇跡のようなシンクロだと思うのだけれどさすがにそれだけつづくと笑わずにはいられないというものでどうもすみませんと笑いながら頭をさげあったのちにようやくすれちがうことができてこれはまずまちがいなく「偶景」入りだなと思った。
買い物を終えて帰宅して炊飯器を洗ってスイッチを入れてそれから腹筋と懸垂をしたあとに英語の発音練習を一時間ほどこなすと米が炊けたので納豆と冷や奴ともずくと鶏もも肉と白菜をしょうがと酒と塩こしょうで蒸し煮したものをかっ喰らいながらウェブを巡回しているそのときだったかに母から電話があってその表示を携帯のディスプレイに認めたとたんにとうとう祖母が逝ったのだなと思って出るとやはり祖母の話でしかし告げられた内容は予想とはまるで正反対で祖母が退院することになったというものだった。それはよかったと素直にいうことができないのは口にしたとたんに母からその言葉を否定するような残酷な呪詛がこぼれるんでないかというおそれがあったからでそんな言葉はなるべく耳にしたくないから報告についてはなにひとつ感想をもらさずただわかったとだけ応じるとたがいがたがいにややためらうところのあるような沈黙がながれてその沈黙をたちきるように母は姪っ子が入院したでもだいじょうぶだなにひとつ問題はないと告げた。
20分程度の仮眠をとってから英語の音読をはじめたのが20時半で二時間ほどやったところでやめにしてシャワーを浴びて部屋でストレッチをしてそれから「偶景」の執筆にとりかかった。やけに眠たいなとおもってふと時計をみると一瞬で3時近くになっていたものだからおどろいてこれはけっこう集中したのだなと思った。結果プラス2枚で計218枚。初期に書いたいくつかの断章を方針の定まりを得てから採用している文体で書き直すのにいささか手こずったのだけれどもしかしこれでこの断章群をつらぬくひとつのまとまりのようなものを構築することができたんでないかと思うしそういうまとまり・色調・統率をもとめてやまぬ神経質なところがじぶんにはたしかにあってこれはひとつの弱点であるのだけれど同時におそらくは強みでもあるはずでいずれにせよ「偶景」にたいするモチベーションはこのまとまりのもつ美しさの実感によって今後確実に保たれるであろうと確信することができたので「邪道」につづいてボツにならずほんとうによかった。執筆中はたくさん音楽を聴こうとおもってiTunesを勢いよくスクロールさせたその先で偶然目に入った灰野敬二とデレク・ベイリーが共演しているアルバムをまず最初に流してそこからは連想のおもむくままに裸のラリーズ→リュック・フェラーリ→エドガー・ヴァレーズと転がってそうして最後の最後でどんでん返しのジョアンナ・ニューサムでしめくくったのだけれどこうやって固有名詞をならべていると三年も四年も前のブログを書いているみたいだ。あのころのじぶんはブログ上に固有名詞をならべることでひょっとするとひそかに仲間をつどっていたのかもしれないとかなんとか思ったがそれは後づけの感傷にすぎずじっさいはただ固有名詞をならべるのが楽しくてたまらなかったというただそれだけのことであっていまもやっぱりちょっと楽しい。