20140117

 カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。それはスピノザが概念と観念を区別していたのと同様である。一般性は経験から抽象されるのに対して、普遍性は或る飛躍なしには得られない。最初に述べたように、認識が普遍的であるためには、それがア・プリオリな規則にもとづいているということではなくて、われわれのそれとは違った規則体系の中にある他者の審判にさらされることを前提している。これまで私はそれを空間的に考えてきたが、むしろそれは時間的に考えられねばならない。われわれが先取りすることができないような他者とは、未来の他者である。というより、未来は他者的であるかぎりにおいて未来である。現在から想定できるような未来は、未来ではない。このように見れば、普遍性を公共的合意によって基礎づけることはできない。公共的合意はたかだか現在の一つの共同体――それがどんなに広いものであれ――に妥当するものでしかない。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



10時半に起床して朝いちばんに感じるのが喉のイガイガであるというのはまことにもって不快極まりない話であるなと思いながら歯を磨いて顔を洗いポカリスエットで喉を洗い流してからのどぬ〜るスプレーをしてやくしまるえつこd.v.d『Blu-Day』を流しながらストレッチをした。それからトーストとバナナとコーヒーの朝食をとったのちに今日の昼の部は英語なのでさっそく発音練習と音読に取り組んだのであるのだけれど途中でふとiBooksなるソフトウェアがこのMacBookAirに入っていたことを思い出したのでひょっとしてそれで『A』を読むことができるんでないかと思ってためしに『A』の販売ページからEPUBとやらをダウンロードしてみてそれをiBookで読み込んでみたところいともたやすく表示されてフォントの種類やら大きさやらも自由に選べるらしくそのせいでこちらが想定しているレイアウトが崩れてしまうという難点というかコントロールの行き届かなさみたいなのが生まれてしまうのは仕方ないのだけれど操作性もそれほど悪くないし何よりけっこう読みやすいしでこれBCCKSの「本を読む」アイコンをクリックしてたちあがってくるブラウザでの読書よりずっと快適なんではないかと思うのだけれどデフォルトのソフトでこれだったらたとえばKindleとかあのあたりの読書に特価したブツを使ってみたらいったいどうなるんだろうというかたぶんじぶんが想像しているよりもずっと読みやすくて使いやすいんでないかと思って電子書籍なるほどねと思った。EPUBはすでに30回ダウンロードされているようでこれいったいどういうことなんだろうぐらいにしか思っていなかったのだけれど各自じぶんがいちばん読みやすいデバイスというかソフトというかそういうアレで読み慣れているひとはやっぱり読みたいだろうからそれでデータダウンロードしてライブラリに追加するってことなのかとやっと納得がいっていまこの瞬間こそが電子書籍元年だ。それでiBookで表示された原稿の具合をたしかめるつもりで開いただけだったはずがぺらぺらやっているうちにおのずと目が文字列を追いはじめてしまってやめろ見るな読むなまた推敲したくなる消したくなるボツにしたくなるという内心の声に耳をふさいでしばらく読み進めてしまったのだけれど悪くないじゃんけっこう面白いじゃんという感じでこうやってあらためて時間を置いて読みなおしてみると部隊長がやっぱりいちばんいきいきしているというか彼の登場する場面というのは初稿の時点でほとんど完成されていていちばん手がかからなかったし書いていて無条件に楽しめた記憶のようなものもあってどうしてそうなんだろうと考えたのだけれどたぶん思考を書かずにすんだ唯一の登場人物だからだったんでないかという結論に落着した。あとはきのう(…)くんに送ったメールは完全にまちがっていて狩人のプロフィールにかんする加筆なんてのはほとんどどうでもよい装飾品の追加程度のものでしかなくむしろそのあとに言及した黒ヒョウにがぶりとやられて砂浜にあおむけにぶっ倒れた大佐がおちいる認識の魔境みたいなところのほうの加筆というか改稿のほうがよっぽどでかいんでないかと記憶のなかに残存している初稿の記憶と照らしあわせて思ったしこのくだりはわりと最後の最後まで悩まされた難所のひとつだったのでそれがこうしてまがりなりにもよく書けているの自己評価をくだせるくらいにまではブラッシュアップされたのであるからあながちあの推敲の日々も無駄ではなかったなと思った。
勉強をしている途中に戸をガラガラと引く音がして次いで(…)さんと呼ぶ大家さんの声がしたものだからまたなにか差し入れでも持ってきてくれたんかなと思って出ると部屋代の都合のほうはどうでしょうかと申し訳なさそうにこちらを見上げる目があったものだからあーすんません忘れてました今からそっち持ってきますと応じたのちきりのいいところまで音読を進めてからへそくり封筒の中から二万円抜き出して大家さんのお宅にうかがった。それで家賃19000円を支払ったついでに例のごとくちょっとおしゃべりをしていったのだけれど(…)さんあんた四月もここいてくれますかと問うてみせるのでうわーきたこれぜったい増税にあわせての賃料アップだわと思ってもし頼まれたら元々(…)さんの紹介ということで18000円の約束で入居しているのに去年1000円アップとなってそれで今年も1000円アップとなったらさすがにちょっとこれきっついすわとここは心を鬼にして交渉にのぞもうと思ったのだけれど賃料アップみたいな話はいっさい出ずただ時期的にそろそろ同志社の学生センターかなにかしらんけどアパート仲介の担当者に何部屋空いてますの報告をしなければならないだけの話だったみたいでいまのところ空き部屋はふたつでそのうちの一部屋はじぶんの部屋と接しているものだから大家さんには悪いけれどもできればだれも入居してほしくないというのがこちらの本音なのだけれど話によるとすでにふたり入居希望の相談があったみたいでしかもそのふたりがそろって女性なのだというからたまげた。そもそもここ女の子の住むような環境ではないというか入居者の条件にしたところで男性限定ではなかったのかとその事実にむしろびびるのであるけれど風呂も便所も水道も部屋にない死ぬほどボロいだけが取り柄の(…)さん曰く「西成でもこんなん見たことないわ」な部屋に入居してこようとする女の子っていったいどんだけエキセントリックなんだと思わないでもないので探りを入れてみたところこの春から神学部の通うことになっている大学新一年生の子らしくて離婚か死別かしらないけれども母子家庭だということでそれで金がないからここを選んだんじゃないのかっていうのがどうやら大家さんの推測らしいのだけれどそれにしてもよっぽどの覚悟がないかぎりここに住もうだなんて思わないだろうという話できっと変人に決まってるだろうから19歳の女の子というやばいレッテルに魅入られつつある下心よりも変人連中とはかかわりたくないという安寧を尊ぶ心のほうがおおいにまさるという話でいやー女の子が入ってくるってのもいろいろむずかしいんじゃないすかねーなどといってみると大家さんも大家さんのほうでどうやら断ることにしようかと考えているらしかった。その流れから今度はじぶんの隣室にすんでいるクレー魔ーの話になって最近はそれほどあの議事訴訟状じみた自称「抗議文」を送りつけてくることも少なくなってきたみたいなのだけれど相変わらず部屋から風呂場までの道のりを全裸で移動していて冬場だろうとなんだろうとおかまいなしみたいでやつが洗面器で股間を隠しながら大股で大家さん宅のほうに歩いていくほとんどコントのような光景をこちらもいちど目撃したことはあるのだけれど風呂を使いだすのは大家さんのいうところによるとだいたい夜中の3時半かそこらかららしくてその時間帯というのはちょうど大家さんが夜中に小用を足すためにいちど目覚める時間であるために覚えているのだと本人はいっていたのだけれどそこからじつに一時間半もの間すなわち5時ごろまでクレー魔ーは延々とシャワーを浴びつづけるらしくてそれを聞いたときにはさすがにマジっすかと聞き返したほどであったのだけれど部屋の電気だっていまだに契約していないみたいであんな方わたし昭和43年(48年だったか?)から下宿してますけどはじめてですといっていてまあそりゃそうだろうなと思っていろいろと愚痴など聞いているとひととおりしゃべりおえた大家さんが最後にため息をこぼすようにぽつりと一言あのひと病気ですわと凍てついた声色でこぼしたのでクソ笑った。あとは例のごとくこちらの洗濯と料理の腕前にたいする褒めたおしの言葉と書き物というのはさぞむずかしいでしょうという同情の言葉とそれでもお兄様もお子さんが生まれはったということで次はあんたやとご両親もさぞかし期待していらっしゃるでしょうからという発破の言葉とあんたみたいななんでもかんでもきっちりしはる方のところにきた奥さんは幸せものです果報者ですという再度の褒めたおしの言葉があったのだけれど最後の一言についていえばじぶんのことをよく知っているひとほどまるで正反対のことをいうしじぶんでもそう思う。大家さんは今年で96歳になるのだけれど主治医から癌もなければ乱脈もないしまだまだ生きるでしょうと太鼓判をおされているみたいで小学校の同級生40数人のうち戦死したひとが6人だったかいてそれで生き残ったひとも当然年月の経つにつれて次々と逝っていくわけで去年亀岡に住んでいた女性が死んだそのためにかつて同級生はもはやじぶんと現在滋賀に住んでいる男性のそのふたりだけしかいないのだといっていてなにかにつけてしきりに早くおむかえに来てほしいと祈るようにいうものだからそんなこといわんと百歳目指しましょうよといってみると手首は腱鞘炎で痛いしひざも痛いしで毎日とてもつらいみたいな返事があって息子とふたりで買い物にでかけてもすぐにはあはあと疲れきってしまってなんでこんなにつらいのかといつも思うのだみたいな返事があってそれに次いでまたもや早くおむかえに来てほしいとそんなふうにいわれてしまうとこちらも返す言葉もないのだけれどでも大家さんはあくまでもいますぐに死んでしまいたいと考えているわけではないんだよなとしきりにくりかえされるおむかえに来てほしいという言葉の使われ方からなんとなくそう思った。彼女はあくまでもお迎えにきてほしいのであって死にたいのでもなければ逝きたいのでもない。お迎えに来てほしい。この言葉が慣用句ではなくひとつの具体的な実感として口に出されていると思った。そしてここまで書いたところでこれは「偶景」に使えると思った。書くに値しないとおもわれた日常も書き出してみれば書くにあたいする何かに化ける。あるいはじじつ書かれてしまうことによってそれは書くに値するものであったと事後的に証明される。さりぎわには家賃を払いにいったときもいつもそうであるように手みやげをもらった。みかんともなか各二個ずつだった。
16時を前にしてであったか勉強途中に猛烈な眠気をおぼえたので翌日は出勤であるしそれを考えると仮に仮眠をとるとしても早い時間帯のほうがいいという考えにいたったものだから床につくことにしたのであるけれど15分のつもりが1時間も眠ってしまってでもまあいいやとなった。そこから音読をきりのよいところまで続けたあと買い物にでるのも面倒なのでありあわせの夕食をとることにして玄米と冷や奴とインスタントのクソまずいみそ汁と鶏胸肉とニラとほうれん草を酒と塩とごま油でタジン鍋した犬のえさのような夕食をとった。それからシャワーを浴びてストレッチをしてFenn O’Berg『The Return Of Fenn O'Berg』とショスタコーヴィチ/ヴァスクス/シュニトケの例のカップリングをおともにしてここまでブログを書いてから(…)くんにたいするメールの返信を書いた。この時点でおそらく22時半はまわっていたように思い返されるのだけれどそこからのこり時間わずかではあるけれども夜の部のはじまりでさっそく上に書いたくだりの浄書というわけではないけれどもSTOMU YAMASH'TA & MASAHIKO SATOH『METEMPSYCHOSIS』とTomasz Stańko『Music for K』をおともに(両者ともにはじめて聴いた数年前と印象がうらがえっていた、つまり、前者はいまひとつパッとせず、後者は思っていたよりもかっこよかった)「偶景」用に文章を彫刻しなおしていると0時も間近となったので『ゴダールの映画史』片手に床に着くことに決めた。ちなみに大家さんのくだりは以下のごとく彫刻された。

 いまや白寿もそう遠くはなくその到達もたしかであるとの太鼓判さえ主治医の手により押されてあるらしい老婆が、話題がそこに行き着くたびにしかしいい加減にお迎えに来てほしいものだと羞恥のにごった笑みを浮かべてみせる。まだまだもうひとふんばりと背中を押すつもりで軽口を叩けば、小学校の同級生計四十数名のなかから戦死した男を引いて三十数名、のこされた男女の割合をたしかな口ぶりで正確に数えあげたのち、いまだに生きながらえてあるのはじぶんと隣県に住まう男のふたりだけだといってみせるその言葉のなかに、小学校を出てからは休むまもなく働きづめであったらしい彼女のひとつの土地に根づいてそこを離れることのなかった一世紀もわずかに垣間見える。五体こそ満足であれどいくらかの不自由もやはりまた年相応にきたしつつあるというその逐一を数えあげては痛みと疲れをしきりに嘆き、どうしてこんなにもつらいものかと満足に動かぬ体の衰えを心の奥から情けなくおもっているらしい表情をまえにしては、もはやうかつな励ましを口にすることもできず、とはいえ彼女の願いに同意するわけにもいかない。老いの境にあるものらが強がりのようにいくらか露悪的にこぼしてみせる自嘲とは異質なふうにも聞こえるその願いの真に迫ったようであるのに言葉をかけそびれていると、はやくお迎えに来てほしいとしきりにくりかえす声の言葉をなくしたこちらの耳元にしずかにしみいるようであるのがしだいになにごとか尊い文句を唱えるような響きへと転じていく。自嘲でもなければ悲嘆でもないものの正体がついに見える。お迎えにくる――慣用句ではなくひとつの具体的な実感としてこの言葉をあつかう彼女のうちにあたためられてあるのはすみわたったひとつの希求である。死にたいわけでもなければ逝きたいわけでもない。彼女はただ迎えに来てほしいのだ。

この一週間は音楽のおかげでとてもゆたかだった。また以前のように四六時中なにかしらの音楽は鳴っている部屋での生活を心がけようと思った。デスクの前にかじりついて動きたくなってしまうのが難点といえば難点であるけれども、むしろ去年はいろいろと動きすぎていたのだ。今年は沈潜する。