20140118

(…)固有名に関するクリプキの論点のもう一つは、固有名による指示固定が私的ではありえず、共同体による命名とその歴史的な伝達の連鎖によってあるということである。この場合、クリプキは「共同体」といっているけれども、厳密にいえば、それは共同体と共同体の間での伝達であり、すなわち、それは「社会的」でなければならない。事実、固有名は他の言語に翻訳されないのである。言語学者が言語の考察において、固有名を排除したがるということも、そこから説明できる。それは固有名が言語を指示対象とつなげてしまう誤解の源泉だからではない。それが言語を一つの閉じられた差異的な関係体系(ラング)として見ることを妨げるからだ。むしろ、固有名が対象の固定的指示をもたらすのは、それが複数体系に関係しているからである。固有名はラングに属するとともにその外にある。
 確かにヘーゲルがいうように、単独性は言語によっては表現されえない。しかし、表現されえないからといって、それが無いということにはならない。言語は、個別性―一般性の回路に回収されない残余をもつのだ。そして、固有名がもたらすパラドックスにおいてそれがあらわれる。そこにおいて、われわれは逆説的に単独性がいわば「社会的」なものにかかわることを見出すのである。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



昨夜は結局眠れそうにないからと夜遊びをしてしまいそのせいで床に着いたのも2時をまわっていたんでないかと思い返されるのだけれど例によっていまひとつそのあたりの詳細ははっきりとせずただ今朝めざましの音で6時50分に目が覚めたときにたいそう身体が重く胸も悪くこれ無理すると吐きそうなパターンだなと思いながら歯をみがき顔を洗い手短なストレッチをすませてからバナナ2本の簡単な朝食をとって家を出た。ぶつくさやりながらケッタを漕いで職場に到着するとこちらよりも一時間出勤時間の遅いはずの(…)さんがすでに到着しており元ヤクザだろうが人殺しだろうが前科者だろうが(…)さんはおじいちゃんはおじいちゃんであるので朝はやく目が覚めてしまい家でじっとしていても仕方ないからという理由でいつも規定時刻よりも一時間早く出勤しだれにいわれるでもなく仕事をするのだけれどその報酬というか見返りというかそういうアレから本来ならば料金を支払って飲むのがルールとなっているディスペンサーのジュースやコーヒーのたぐいを(…)さんががぶ飲みするのを(…)さんは見て見ぬふりすることにしている。
12時間の奴隷労働はしんどいといえばしんどいのであるけれども平日五日間を自室にこもって世間と没交渉のまま過ごす身にとってはある種の気分転換になっているというのもまた事実で労働というものをまがりなりにもそんなふうにポジティヴなかたちでたとえ部分的にであれとらえることのできるようになった我が身の変化に驚きもするのだけれどそれかといってまた以前のごとく二勤二休のシフトにもどりたいかといわれればそんなわけがあるはずもなく当時つけていたじぶんの日記はあまりに痛々しいというか書くための時間を持つことができないという状況が肉体的な痛みと同じぐらい具体的な痛みとして日々感受されているのが言葉数の少ない一日平均二三行の日記のなかにありありとあらわれていて読んでいるとつらいし胸のあたりがぐらぐらするしとにかくきわめて無惨であり救いがたくみじめな日々だった。どうでもよい日記をどうでもよく書きつづけるだけのゆとりがある生活が必要だ。ゆたかさとは無駄のことをいう。
夕方というか時刻はすでに18時をまわっていておもても真っ暗だったから夜というべきなのかもしれないけれども仕事を早上がりした(…)がこちらにやってきて目的はといえばじぶんと(…)と(…)さんの三人でやる内密の新年会についての相談であってこれ別に三人きりでやるとも内密にするとも約束したわけでもないのだけれどなんとなく雰囲気的にそうなっていて(…)の立場からすればこちらの職場の頭のおかしな面々とはなるべく関わりたくないというのがあるだろうしというか今日もふと思ったのだけれどたとえば仮にもしこの職場での日々をリアリズムの筆致でもって小説化したとしていったいどこの誰がそれを語の素朴な意味でリアリズムとして受け取ってくれるのだろう。まずまちがいなくこの作家はデフォルメされた人物や山あり谷ありのエピソードに頼ってばかりでまったくもって写実的ではないと断じられるに違いないと先取りして考えてしまうくらいには頭と経歴のイカれた面子が勢揃いしていてほんとうによくもまあここまで出そろったものだとしきりに感心するしある意味ではいまこの空間に居合わせていることはラッキーなのかもしれないけれどもあまりにできすぎていて作り物めいてみえるこの状況下にある我が身を思うときの嘘くささやらせくささ信じがたさというのは(…)との二度にわたる夏の関係を俯瞰するたびに感じるのと同種のものだ。(…)と(…)さんの三人でぼつぼつ話しているときにふと違和感をおぼえてなんだろうこの感じとおもって胸をよぎったものの尾を慎重に引っ張ってみたところ狂った連中の狂った論理にチューニングをあわすことを余儀なくされてあるいつもの空間に多少なりともまともで常識的で一般的な感性をもちあわせている三人があつまり多少ともまともで常識的で一般的な対話をしているという状況のその齟齬のようなものに由来するものだと行き当たってあらためていかにここがふつうでないかという実感をおぼえてこの実感をわすれちゃあ駄目ださもないともう戻ってこれなくなるミイラ取りがミイラになっちまうと思った。そんな面々のおりなすきわめてむずかしいパワーバランスを操作するのが上司としての(…)さんの役割であってこれ面子が面子だけに難易度S級だと思うし傍で見ているかぎりこんな連中をどうにかかたちのうえでだけでもとりまとめることができるのはまあこのひとくらいしかいないだろうと思ってそういうときにはいつもカリスマ性という言葉が頭をよぎる。条件がちがえば(…)さんはなにかしらでかいことを成し遂げていただろうなとこんなふうに書いているとほとんど手放しで賞賛しているようであるけれども他人にたいしてそこまで思うことなんて滅多にないというかたぶん今までにいちどもないのでやはり(…)さんはたいしたものだと思うのだけれどその(…)さんにしたって当然のことながらひとの子でたまるものもたまりまくるわけであるしそのたまりにたまったものを受けとめるのがふしぎといちばん勤務日数がすくなくていちばん若いじぶんの役割だったりするのでここでひとつの循環が完成されてしまっていると思うしその循環のことを考えるとやはり新年会はわれわれ三人で内密にやったほうがいいのだろうと思う。
引き継ぎのときに昼は業界人として働いている(…)さんからじぶんでも知っているような有名芸能人にまつわるゴシップというかあいつマジで態度むちゃくちゃ悪い的な話をいくつか聞かせてもらってこれはありとあらゆる領域において最近とみに感じることであるのだけれど典型的な人物というものは実在するしステレオタイプを地でいくものは決して少なくなどない。ここに差別の構造にかかわる厄介な問題がひそんでいる。
帰路に蕁麻疹でないほうのスーパーにたちよったのだけれど手頃な半額品を購入することができなかったので納豆と豆腐と牛乳だけ購入し帰宅してからコンビニで買ったポトフと一緒にかっ喰らって今日も昨日にひきつづき体調がいまひとつよろしくないというか痰がからまって咳が出てその咳のたびかさなるせいで頭痛がしてという悪循環ができあがってしまっているので筋トレはぬきにして職場の風邪薬はタダなので昼はそれをがぶ飲みしてずいぶん楽になったのだけれど薬の切れてくる夜はそれ相応に咳がうざい。シャワーを浴びて部屋にもどってくるとますます咳がひどくなっていてそういえばいちどあれは円町のねずみ屋敷に住んでいたころだったように思うけれど咳風邪があまりに長引くので病院で診てもらったときに咳のでるときは湯船に浸かってはいけないますます咳がひどくなるからと指摘されたことがあってなるほどそれで風呂上がりはいつもちょっと苦しいのかと晩になるといつも日中にくらべて症状のひどくなるようであったここ数日に納得がいった。
風呂からあがったあとはパブロ・カザルスの『無伴奏チェロ組曲』を聴きながらブログをここまで書きそれから歯をみがくためにおもてに出るとべちゃべちゃの雪が降っていて参った。『ゴダールの映画史』をパラパラしながら寝た。