20140119

 近代科学は、道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに成立する。そのとき、はじめて「対象」があらわれるのだ。しかし、それは自然科学だけではない。マキャベリが近代政治学の祖となったのは、道徳を括弧に入れることによって政治を考察したからである。重要なのは、ほかならぬ道徳に関してもそういえることである。道徳的領域はそれ自体で存在するのではない。われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。そのときにのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のだ。しかし、それになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまう。道徳的領域に関しても同じである。
 道徳は客観的に存在するかのように見える。しかし、そのような道徳はいわば共同体の道徳である。そこでは、道徳的規範は個々人に対して超越的である。もう一つの観点は、道徳を個人の幸福や利益から考える見方である。前者は合理論的で、後者は経験論的であるが、いずれも「他律的」である。カントはここでもそれらの「間」に立ち、道徳を道徳たらしめるものを超越論的に問う。いいかえれば、彼は道徳的領域を、共同体の規則や個人の感情・利害を括弧に入れることによってとりだすのだ。
 カントが道徳は快・不快の感情や幸福によって基礎づけられないというのは、そもそも彼のいう道徳が後者を括弧に入れて見いだされたものだからである。念のためにいうが、それは道徳に快・不快の感情が伴うということを否定するものではないし、また道徳がそれらを否定してしまうものでもない。括弧に入れることは否定することではないからだ。カントはむしろ他の次元を犠牲にする厳格な道徳家を否定している。彼にとって、道徳は善悪よりもむしろ「自由」の問題である。自由なくして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自発的であること、主体的であることと同義である。しかし、そのような自由がありうるだろうか。『純粋理性批判』で、カントは次のようなアンチノミーを提示する。

 正命題――自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
 反対命題――およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。(『純粋理性批判』)

 この反対命題は、近代科学の因果性ではなく、スピノザ的な決定論を意味していると見るべきである。スピノザの考えでは、すべてが必然的に決定されているが、因果性があまり複雑であるために、われわれは自由や偶然を想定してしまうにすぎない。カントはこの命題を承認する。すなわち、われわれが自由意志だと思うことは、さまざまな因果性によって決定されているのだということを。《私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような)にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないと考えてみたところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として[自然]必然性に支配され、私の自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている[自然必然的な]秩序に従って出来事の無限の序列――すなわち〈a parte priori(その前にあるものから)〉つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点に自ら出来事を始めるというわけにはいかないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである》(『実践理性批判波多野精一他訳、岩波文庫)。
 しかし、他方で彼は、人間の行為の自由をいう正命題を承認する。そして、つぎのように述べている。

 例えば、或る人が悪のある嘘をつき、かかる虚言によって社会に或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せられるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の経験的性格をその根原まで突きとめてみる、そしてその根原を、彼の受けた悪い教育、彼の交わっている不良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生れ付き、軽佻や無分別などに求めてみる。この場合に我々は、彼のかかる行為の機縁となった原因を度外視するものではない。このような事柄に関する手続は、およそ与えられた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合とすべて同様である。しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されていると思いはするものの、しかしそれにも拘らず行為者自身を非難するのである。しかもその非難の理由は、彼が不幸な生れ付きをもつとか、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或はまたそればかりでなく彼の以前の状態などにあるのではない。それは我々が、次のようなことを前提しているからである。即ち――この行為者の以前の行状がどうあろうと、それは度外視してよろしい、――過去における条件の系列は、無かったものと思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまったく条件にならないと考えてよい、――要するに我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったと見なすのである。(『純粋理性批判』)

 ここで注目すべきなのは、カントが、行為の自由を、事前にではなく、事後的に見ていることだ。事前において、自由はない。確かにカントは「自らの格率が普遍的な法則に合致するように行動せよ」と述べた。ここから、カントの倫理学は主観的なものだという批判、動機の純粋のみを重視してその結果を省みないという批判が出てくる。しかし、カントが「私は私が行為する時点において決して自由ではない」というアンチテーゼを保持していることを忘れてはならない。たしかに、カントは「自らの格率が普遍的な法則に合致するように行動せよ」といったが、そのように思うことと実際に行動することとは別の話である。ウィトゲンシュタインは「規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない」といった(『哲学探究』)。われわれは、そのつもりでいても違ったことをやってしまうし、意志したことがそのとおり実現されることなどめったにない。だが、その場合でも、われわれがそのことに責任をもつのは、現実に自由ではなくても、自由であったかのように見なす時である。カントが「行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい」というのは、そのことを意味する。たとえば、われわれはそれが罪であることを知らずにやってしまうことがある。では、無知ならば、責任はないのか。事後的にそれを知りうる能力をもつ者であるならば、責任があるといわねばならない。
 カントは先に引用した第三アンチノミーとして知られる、相反する二つの命題について、それらはともに両立するという。世界に始まりがあるか否かといった説がアンチノミーによっていずれも虚偽であることが示されるのに対して、なぜこの第三アンチノミーにおいては両方の説が共に成立するのか。そのことは「括弧入れ」を考えれば、別に難解ではない。正命題は、自然的因果性を括弧に入れて行為を見ることであり、反対命題は人々が自由だと思うことを括弧に入れて行為の因果性を見ることだ。だから、それらは両立しうるのである。われわれは前者を「実践的」立場、後者を「理論的」立場と呼ぶことにしよう。理論的領域と実践的領域がそれ自体としてあるのではない。それらは、理論的あるいは実践的立場によって存在するのだ。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



6時半に起床して前夜降っていた雪はどうなっているのかと思っておもてに確認に出ようとすると引き戸の磨りガラス越しにぼんやりと浮かびあがる色合いがすでに白くまぶしくてこれは積もっているなと思って出るとはたしてそのとおりですでに雪は降りやんでいるようであったものの積雪3センチメートルといったところでまあこの程度だったら行けないこともないだろうとの判断から職場には常とかわらずケッタで向かうことにしてトーストとコーヒーの簡単な朝食をとったのち大事をとっていつもより10分ほど早く家をでたのだけれどさすがにぶつくさやりながらではちょっと危なっかしいなというところがなくもなかったので音読用音源ではなくシェンムーのフィールド音楽ばかり集めた移動にはまさしくうってつけの音源を聴きながらゆっくりとペダルをこぎすすめてまだまだ足跡も轍もそれほど多くは見当たらない雪にひとすじの軌跡をのこしつつ走った。鴨川にかけられた橋にさしかかるとふしぎに足跡も轍もひとつもなく未踏の地をゆく最初のひとりとしての特権を得ることができたわけなのだけれどその橋をわたりながら河川敷のほうを見やると不意に京都の町並みに認められる古い時代の名残みたいなものが一気に前景化したような感覚におそわれてこれはいったいどうしたことかと考えてみるにどうやら降りつもった雪によって覆い隠されてしまったアスファルトやコンクリートといった近代的な質感の不在のために古くなつかしい町並みの輪郭や骨格だけがむきだしになってしまったそのためのように思われてこれは「偶景」になるなと携帯電話にメモをした。道のりの途中から雪がふたたび降りだしてやがて吹雪くようにさえなってそのためにこちらは全身雪まみれになってしまったのだけれど職場のいよいよ近くなってきたところでバス停近くにある歩道の側溝に女性ものの鞄がふたつぽつんと放置されておりそのうえに雪のつもりだしているのを認めたのであったけれどあれはいま思うとひょっとするとひったくり被害にあった女性の鞄なのかもしれない。
職場ではいぜん忘年会のときにバーで出会った例の不良外人にまつわる厄介事がもちあがってうちに来るのはいいのだけれどたびたび料金をツケにしておいてくれと頼むものだからちょっとこれいい加減どうにかしたほうがいいんじゃないのという話に最近なりつつあったそこのところへ今日ガラの悪い外人ばかりが合計10人くらいでやってきて横着しようとするものだからちょっと待てとこっちが出ていくはめになってそこでいろいろと交渉した結果どうにか話はまとまり六人はそのまま帰っていって残る四人がこちらの客室を利用することになったのだけれどそれにしたって通常の規約を破るかたちであってそんな日にかぎって(…)さんも休みなものだからお休みのところすみませんけどと電話を入れて事情を説明しこれどこまで強気で対応してやってもいいんですかねとたずねたところ本社と警察の双方の気配をにおわせろとあったので三万円近くツケのたまっている例の男が出ていくまぎわにとっつかまえてこのあいだいっしょに飲んだ間柄であるしこういうことをいうのは忍びないのだがという前置きののちにツケの一件について必要悪を標榜する団体と正義を標榜する団体双方からのにらみをにおわせつつ切り出したのだけれど手持ちの金も口座もないの一点張りでぺこぺこぺこぺこやたらと頭をさげて腰が低くこの低姿勢にみんなだまされちまうんだと思ったのだけれどとりあえずたまっているツケを支払ってもらうまではもううちには出入りできないと勝手に出禁を宣告してやってそれから(…)さんに事後報告したらまあしゃあないわなの返事があった。
きのう朝まで木屋町で飲んでいて知らないあいだにジャケットと帽子と家の鍵をなくしてしまったそのために近所にある交番で一泊して今日出勤したのだと酒のにおいをぷんぷんさせながらも青白い顔の(…)さんが言った。
仕事を終えて帰宅してまもなく(…)がやってきたので『A』を献本したのだけれど金を払うといって聞かないのでいやいやこれは最初から献本ってかたちで差し出すことに決めていたしとつっぱねるとこっちもこっちで支払うと決めていたのだと譲らず十分間ほど延々と小競り合いを続けるはめになって最終的にこちらのごり押しで決着をつけたもののこういうものを身近にいる人間に金を支払わせて買わせることにおおいに抵抗があってあってなぜならいちどそうしてしまうと今後なにかものをつくるたびに相手に無理やり買わせるということになってしまうからで売れないバンドがたがいのデモ音源を付き合いから購入しあっているみたいな構図は端的にいって嫌いであるというかその構図のはらみもつ強制力みたいなものが大嫌いなのでなるべく回避したいというのがあり同じことは金を払う払わないとは別のところでもいえるのだけれどたとえばこのたび本を出版する運びになりましたといってその本を差し出すということは暗黙のうちに相手に読めといっているようなものになるわけで場合によっては今後顔をあわすたびにまだ未読なんですという後ろめたさを相手に覚えさせることにもなるそのために今回の出版にあたってはごくごく身近なひとたちと読み書きする同志のようなひとびとに献本をかぎることにしたわけであるしそもそも自費出版の一件についてもこのブログで宣伝しているかぎりはだれひとりと告げていなくてそれはこのブログを購読しているひとというのは確実に文学ないしは芸術に少なからず興味のあるひとだろうという見込みがあるというのが理由のひとつでもっというならば一個人ではない単なる書き手としてのじぶんに期待をしてくれているひとであるわけだからそのひとたちにたいしてきちんと誠実なかたちで応答したいというのがあって逆にいえばそれ相応の付き合いがあるとはいえ文学ないしは芸術にさほど関心のないひとたちにじぶんの本を渡したところでそれはさっきいったような押しつけがましさと後ろめたさの最悪の関係を生成するいがいのところにはいかないと思うしそしてそれ以上に懸念しているのはなんでもかんでもいっちょ噛みしたがるひとというのが少なからずいてそのようなひとたちが偉っそうなわかったような口ぶりでもっと読者のところに届く小説を書いたほうがいいだとか読みやすい文章にすべきだとか結局あなたはこの小説でなにがいいたかったのだとか糞虫の糞にもならぬ説教節をかましてくる可能性があるからでわからないならわからないとただそうひとこと言えばいいだけにもかかわらずどうしても気の利いた(ふうに一聴すると聞こえる)言葉をひとはいつでもどこでも吐き出したがるのかみっともないったらありゃしないと思うのだけれどとにかくそういう聴く耳を腐らせるような言葉とは精神衛生上なるべく間遠にありたいというのがあって出口のないイライラほどこちらの生活リズムをかきまわし時間割をぐずぐずにするものはないしこのイライラはカフカが父にたいして生涯をとおして抱きつづけたものときわめて近い。にもかかわらずそれでもやはり文学とは縁のない(…)さんに押しつけがましくもぜひともぜったいに献本させていただきたいとそう思ったのはほかならぬ(…)さんが三年前の夏に初対面のじぶんに冷房のついた部屋を貸してくれたそのおかげで「A」を書きあげることができたからで(…)さんの部屋で初稿を脱稿しおえた瞬間のあっけなさの感覚とかいまでもまざまざと思い出すことができるし京都で知りあったひとのなかでいちばん感謝しているほんとうにもう感謝してもしきれぬという言葉がこれほどしっくりくることのないひととして(…)さんがいるからでそれだから(…)とくら寿司にいったあと例のごとく喫茶店へいってそこで今年はじめて(…)さんと顔をあわせてしばらく周囲に人影の見当たらなくなったそのタイミングで『A』をさしあげることにして読まなくてもいいからしばらく取っておいてくださいいずれヤフオクでプレミアがつくはずですからと読まなくてよいのところを重ね重ね強調して献本するにいたったのだけれそこでこちらが秘密にしていたはずの出版の一件がすでに知れ渡っていたという事実が判明して問いただしてみるとちょうどきのう(…)さんが店にやってきてそこで漏らしたということが明らかになってあちゃーとなってそれから時間の経過するにつれてだんだん沈んできて萎えてきて落ちてきていろんなことがまたどうでもよくなってきた。これまた面倒くさいことになりそうだな厄介なことになりそうだなと先行きのことを考えるだけで先取りされたイライラさえ生じてきてどうしようもなく朝っぱらから咳こみつづけていたそのせいで晩にはまったくの掠れまくりでまともに発語することすらままならなくなっていた嗄れ声でおおいにため息をついて沈みがちな帰路をたどるはめになり(…)はずーっと苦笑していてそれでも最終的には河岸を変えればいいだけの話なんではないかというところに落着したのだけれどそういえば(…)さんからすごいまずいけど体によいという飴をいただいて(…)はたしかにこれまずいといっていたのだけれどこちらは存外平気であった。いよいよ来週から週休二日制になるテンションの高い(…)を玄関先に立つ余力もなくただアーロンチェアにぐてっともたれかかりながら力なくおやすみといって見送って(…)は今月の給料が25万あったとかいっていて時給800円で25万とかまことにもってキチガイ沙汰であるように思われるのだけれどそれにしてもどうしてこうも性格も趣味も異なるのにこれほど親密な付き合いがこれほど長期間にわたって(…)とのあいだに持続しているのかと考えてみるに(…)はまったくもってこちらの共感などもとめていないからではないかと思い当たってこれが事実ならいい。腐れ縁というのは他人同士をあくまでも他人同士の距離感のまま癒着させることなくそれでいて親密にさせる力があるんでないか。