死者は、われわれが勝手に感情移入できる相手ではないし、われわれが勝手に代弁できる相手ではない。死者は語らないし、無関心である。死者の名において語る者は、何にせよ、自分を語っているだけだ。死者を弔う者は、死者を忘れるためにそうするのだ。弔ったために、死者が変わるのではない。たんにわれわれが変わるのだ。死者は変わらない。だが、そのことによって、われわれが変わったということを顕わにする。だから、死者は狡猾である、とキルケゴールはいうのである。だが、死者はその意味で、まさに他者である。カントが他者を物自体として見たことは、わかりやすくいえば、われわれが合意をとりつけたり、「表象=代表」したりできないものとして他者を見たことを意味する。ことわっておくが、それはレヴィナスがいうような絶対的な他者ではなく、ありふれた相対的な他者である。絶対的なのはむしろ相対的他者との関係なのだ。
先に、私は、カントの認識論や美学において、「普遍性」が未来の他者を前提していることを指摘してきた。同様に、道徳法則が普遍的であるためには、たんにそれが形式的であるだけでなく、未来の他者を想定していなければならない。そして、それは同時に、過去の他者(死者)を含意する。なぜなら、未来の他者から見て、われわれは死者であるから。
(柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス――』)
10時半にいちど目覚ましで起床したのだけれど寒いし風邪の名残が喉元でうるさいし前夜の懸念のいまだに残存しているのを感じて起き抜けから気が滅入ったので不貞寝して次にめざめると12時半で昨日の寒波を受けてのものだろうけれども腰痛がひさしぶりにひどく悪化しているのが判明して嫌なことというのはいつもたてつづけに生じる。布団をたたんで洗濯機をまわして昨夜の一件にかんして(…)さんに問い合わせのメールを送信してやりとりしてだいたいの顛末があきらかになったのでさてどうしたもんかと思ったのだけれどすんでしまったことはどうするわけにもいかないしとにかくこの時間割生活を妨げるものとしてじぶんのなかで定義されてあるノイズをキャンセルするためになんらかの方策をとらないといけないと頭をめぐらしているうちにいろいろと思い返されてくる過去のあれこれがでてきて朝っぱらからたいそうひどくイライラするはめになりこんなふうにイライラするとまともに作業にならないというのがわかっているのだけれどそれにかんしていえば今朝二度寝してしまったじぶんの甘えたふるまいにもまたイライラするところがあってひさしぶりに部屋のなかで大声で吠えた。両手両足の震えがおさまらなかった。
『Best Of Todd Rundgren』とDavid Sylvian & Holger Czukay『Flux + Mutability』とAOKI Takamasa『FRACTALIZED』を聴きながらクリームチーズトーストとコーヒーの朝食をとって昨日付けのブログを書いたのち『A』の公開を停止した。もうこれしかないと思った。頭がおかしくなりそうだった。
これまで蓄積されていた嫌な記憶がぜんぶいっぺんに噴出して相手とじぶんの単なる「違い」をして相手の「間違い」と転化せしめて難詰する手管にたいする自覚のなさをひとはどうしてああもたやすく抱くことができるのかと考えているとほとんど絶望的な気持ちになってきてこちらが連中のことをなにひとつ否定せずにいても連中はやたらめったらこちらを否定にしかかってくる構図のここ最近はそれほど痛感することもなかったはずの耐えがたい息苦しさがさまざまな過去の挿話を経由していっきにもちあがってきてどいつもこいつもみなごろしにしてやりたくなった。説教がしたいのであれば腐るほどの難点をもちあわせている鏡像にでもむけてすればいい。親切と助言のていをとって繰りだされる言葉のはしばしにひそむ自己正当化の響きにたいしていちいち耳をふさぐことをよぎなくされるその一手間にいい加減倦み疲れた。こちらが働こうが働くまいがこちらの勝手だろう。こちらがじぶんの作品をボツにしようがしまいがこちらの勝手だろう。こちらが何よりもまずじぶんのために小説を書くという動機を持とうと持つまいとこちらの勝手だろう。こちらがいかなる家庭観を持とうと持つまいとこちらの勝手であるし、こちらがいかなる交友関係を持とうと持つまいとこちらの勝手であるし、こちらがいかなる優先順位にしたがって日々を組み立てようともこちらの勝手であるし、こちらがいかなる道徳のもとにあろうともこちらの勝手であるし、こちらがいかなる法をみずからに課そうともこちらの勝手であるし、こちらがいかなる没交渉のもとに自己を隔離しようともこちらの勝手であろう。こちらがいかなる人生を歩もうともいかなる毎日を暮らそうともいかなる生活を打ちたてようともそれはこちらの勝手であるし、その勝手をこちら以外のほかのだれかにおしつけようとはけっして考えないだろう。
極論をいうならばこちらには路上でのたれ死ぬ権利がある。だれにもその権利を阻害することはできない。
なにをしても狂いそうだった。心がざわざわして落ち着かず落ち着いたと思ったら極端にしずみこんで他人にむけられているのかじぶんにむけられているかの区別すらつかないどす黒い炎のような感情がつねに下っ腹でくすぶっていて微風のきっかけひとふきでたやすく燃えさかった。馬鹿な他人の言葉に死ぬほどいらだったいくつもの瞬間が回帰してそのたびにまた燃えさかるものがあった。なぜおまえは間違っているとあんなにもたやすく他者を指弾することができるのか?同性愛者にたいしてあなたの感情は一時の気の迷いにすぎないと頭ごなしに断言してみせるのと同じたぐいの暴力をこれまでいったい幾人の相手にたいして感じとってきたか、それを考えるだけでこの世間にはかかわりをもつにたるだけの人間などほとんどいないのではないかと思われた。そしてそのたびごとに結晶する冷めた軽蔑がじょじょに黒い炎にとってかわった。冷めたまま狂うということはありうるのか?狂うのではなく狂わされていく身のみじめをつくづく噛みしめた。
なにもせぬまま17時をむかえた。どうにかしないといけない。単純作業だったらできるだろうと思い抜き書きにとりかかろうとしたが本のページをめくることができなかった。それからイライラするのは連中とおなじ土俵に立ってしまっているからだろうという当然の気づきがあった。腑に落ちた。冷めた結晶がここにきて極まったのかもしれなかった。聞き分けのないものはただしずかに軽蔑すべしの原則にたちかえる動きがあり、すると次の瞬間にはすとんと平静な心に落着していた。窮屈をおぼえるのであればただちにそこから移動することだ。これもやはり簡単な原則である。
頭を洗濯するために寝ることにした。17時過ぎだった。目覚めると20時半だった。すっきりしていた。明晰だった。これでやれると思った。今後の方針を冷静にたてた。イライラの大半は解消していた。過去のできごとを思い返してイライラするのは馬鹿げている。すんだことに思い悩まされる時間がもったいない。『A』をふたたび公開した。この作品に罪はない。おおくの事柄に罪はない。だからといってなにもかもを許容できるわけではないが。厄介事や面倒事の気配を感じたらただちにその場を離れるというだけではまだ足りないのかもしれない。おれは離れたぞと周囲に印象づけるすべが必要なのかもしれない。これは職場の同僚らとのいざこざを通してじわじわと育まれつつあった考えでもある。
近所のスーパーはすでに閉店している。外は雨である。出歩くのが面倒なので最寄りのコンビニでたいして美味くもないパスタを買って食ってウェブを巡回した。レジで温めますかと問われたのではいと応じようとしたところできのうにひきつづき声がかすれてまったく出ないことに気づき、そしてまたこの瞬間にいたるまで今日という一日を一言の発語をともなわずに過ごしてきた事実に気づき、ただ首をかるく縦にふって応じた。
書くことによってドツボにはまるということもあるだろう。連想によって呼びまねかれた過去の記憶にますますイライラしてしまうというのもじつに馬鹿げた話だ。いま生じつつある厄介事だけに的をしぼって考えればたいしたことではない。なぜあれほどまで絶望的になり憎悪をたぎらせなければならなかったのか、澄んだ頭でふしぎに思い返されるほどだ。ただしこのすみわたりが多かれ少なかれ暴発の副産物であることも忘れてはならないが。
風呂に入った。悪化した腰痛を思ってゆっくりと湯船に浸かった。部屋にもどりしっかりとストレッチをしたのち眠りのまえに書きつけた文章を読み返してみるとまるでいまからひとでも殺しそうなほどあやうく見えた。もうすこし上手にじぶんを飼いならす必要がある。「こちらが連中のことをなにひとつ否定せずにいても連中はやたらめったらこちらを否定にしかかってくる構図」にいちいちいらだってしまうというのは、裏をかえせば、「おれはおまえのことを否定しないからおまえもおれのことを否定するな」式の妥協的な歩みよりを希求する弱腰の言い分のようにも聞こえるし、さらに敷衍すれば、「どうしておれはこんなにも我慢しているのにおまえたちは我慢できないのだ」式の論理にも重なりかねないところがあるのではないかと危ぶまれた。たとえ論法それじたいにあやまりはなくとも、響きの具合ひとつで印象のおおいに変わる言葉ではある。
デニス・ラッセル・デイヴィス指揮『フィリップ・グラス:交響曲第三番ほか』とTipographica『God Says I Can’t Dance』とMasayuki Takayanagi and New Directions『Independence:Tread On Sure Ground』とFeist『Let It Die』とDavid Sylvian『Manafon』を聴きながら柄谷行人『トランスクリティーク』と原民喜『夏の花』を抜き書きした。それからAlbert Ayler『Music Is The Healing Force Of The Universe』とJohn Zorn『Naked City』とFlorian Hecker『NEU CD』とMouse On Mars『Niun Niggung』を聴きながら『ゴダールの映画史』の続きを読み進めた。夜中にいちどレトルトのカレーを食べた。咳はあいかわらず止まらず痰もしょっちゅうからんでうっとうしかった。7時半になったところでそれほど眠いわけでもなかったが生活リズムを考慮して床に着いておくべきだろうと考えて布団のなかにもぐりこんだ。すると案の定すぐに眠気をもよおし、十分と経たぬうちに眠りに落ちた。眠ろうと思えばどれだけでも眠ることができてしまえる。つくづく便利な体質だ。