20140122

 僕は、病気のあいだに君の『ヘラクレイトス』を十分に研究して、散逸した遺文から体系を組み立て直す仕事がみごとにできていると思うし、また論争にみられる鋭い洞察にも感じ入った。(中略)君がこの仕事で克服しなくてはならなかった困難は、僕も約一八年前にもっとずっとやさしい哲学者エピクロスについて似たような仕事――つまり断片からの全体系の叙述をやったので、僕にはよくわかっている。ついでだが、この体系については、ヘラクレイトスの場合と同じように、体系はただそれ自体エピクロスの著作のなかにあるだけで、意識的な体系化のなかに存在しなかった、と僕は確信している。その仕事に体系的な形をあたえている哲学者たち、たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式とはまったくちがっている。
(「一八五八年五月三一日ラサール宛書簡」「マルクスエンゲルス全集」第二九巻)



12時半起床。腐れ大寝坊。朝っぱらからおのれの怠惰にイライラするはめになった。朝方に咳きこんで何度かめざめた記憶がある。キリンジのエイリアンズを内容のすっかり忘れてしまった夢のなかで聴いたような感触があったので、歯を磨きストレッチをするあいだ部屋で流した。ここまで完成された「歌詞」というのはなかなかないように思う。内容も響きもメロディーとの(意味的・音韻的)相性も抜群ではないか。咳きこむたびに血の味がするのでトーストもバナナもコーヒーもまずい。Wikipediaに掲載されているカミーユ・クローデルのポートレイトに心を奪われた。はじめてウルフの写真を目にしたとき以来のショックだ。こんなにもあやうくはかない目つきの女性をほかにしらない。
14時より『ゴダール映画史』の続きを読みはじめた。アルバン・ベルク弦楽四重奏団ハイドン弦楽四重奏曲第76番「五度」第77番「皇帝」第78番「日の出」』とStephen Drury『Johm Cage : In a Landscape』とグレン・グールドモーツァルト:ピアノ協奏曲第24番・シェーンベルク:ピアノ協奏曲』とレナード・バーンスタイン指揮『モーツァルト交響曲第40番・第41番「ジュピター」』とサブー・マルティネス『Palo Congo』がお供だった。こんなふうにして聴いた音楽をいちいち律儀に記録していくうちにアーティスト名とアルバム名の一致していなかったのや読み方のよくわからなかった外国人アーティストの日本語読みやらいつになってもなかなか覚えられそうにないクラシックの番号やらがもうちょっとばかししっかりと頭に入ってくれるんでないかというほんのりとした期待がある。作家にしてもそうだけれどなかなか名前をおぼえることができない。クラシックにかんしては本当はBWV244みたいな感じで通を気取りたいのだけれどなんせめんどうくさい。
他人にたいしてもっとも距離を感じるのはその他人がこちらのことを見抜き理解しきっていると思いこんでいるらしいそぶりの透けてみえる瞬間で、しかるがゆえに家族と過ごしているとしばしばほかのだれよりも遠いひとたちといっしょにいるような気持ちになって気だるい退屈を覚えるはめになる。おそらく身内のなかではただ弟だけがこちらのことを理解のできない生き物として見なす視点をある程度もちあわせていて、こちらもこちらで同様の視点を弟にたいしてある程度もちあわせているそのためにじぶんたち兄弟はおそらくそれ相応に幸福な関係を築くことができているのではないかと思われる。じぶんと弟との関係は、その意味にかぎって、じぶんと(…)との関係に似ているところがたぶんある。同性の兄弟というのはある意味では幼なじみみたいなものであるのだから当然といえば当然なのかもしれんが。
ほかならぬこの生のもとめるところにしたがって生活を組み立てていけばじぶんのまわりからどんどんひとが離れていきじぶんのまわりにますますひとが寄りつかなっていくのはおそらく避けられない。そしてその生のもとめにたいして可能なかぎりどこまでもつきしたがうことにするという一種の実験を生きることに決めた身であるからにはやはりそこは甘んじて受け入れるべきだろう。この生のもとめるものを自分自身ももとめなければならない。その困難な過程にあってたとえば弟や(…)と袖を分つべきときもいずれやって来るかもしれない。その可能性は否定できない。覚悟が必要だ。ひとりで歩くことはたやすい。だが、ひとりで突っ立つのは困難だ。それをするすべをじぶんはまだ知らない。
孤立することが目的であるはずもないが生のもとめるところに素直に率直に実直にそして誠実になればなるほど事態はそのような方向にむけて転がりだしていく。そうした見通しのたしかさをたとえば日ごろ口にしてみせたところでほとんどの人間は真に受けようとはしない。ただの気障で格好つけな台詞だとしてうっちゃってそれでしまいだ。で、じっさいにかつての見通しどおりの筋道を描き出したときになって、おまえはひどいやつだと難詰しはじめる。ひどいかどうかはしらないが、あらかじめこちらが予言していた事態ではないか、なにひとつ本気で受け取ろうとはしなかったのはそちらのくせになにをいまさら、とあきれるはめになる。言葉のうえでだけでいきがっているにちがいないと見くびることを相手方に許してしまう日頃のこちらのふざけた態度にも問題があるのかもしれないが。
18時半に『ゴダール映画史』を読みおえたのでコートをはおって家を出た。信じがたいほどの寒さだった。ぶつくさやりながら薬物市場まで出かけて咳止めシロップを買った。三種類くらいあったのでいろいろ表示など見てみたのだけれどどれがいいのかわかったもんじゃないのでいちばん安いのを購入した。現在市販されているブロンは中島らもが愛用していた時代のものとはちがってまったく飛べないらしいのだけれどそれとは別に具合のよいものがあるという話を小耳にはさんだことがあって、ひとつだけ成分表示のところにコデインうんぬんと記されているのがあったのでひょっとするとこれなのかもしれないと思った。あんまり興味ないが。ブロンかあるいは別のシロップのほうだったかもしれないけれども、この製品にはなんとか麻薬成分(?)は使用されていませんみたいな文章がはっきりと表示がされていたのはちょっと面白かった。
薬物市場にむかう往路からしてすでにそのきざしはあったのだけれど復路にスーパーに立ち寄って食材を購入して帰宅するころにはチクチクとした腹痛にすっかり苛まれていて、最初はてっきりコートの締め付けがきつかったとかそういう物理的原因によるものだと思っていたのだけれど部屋着に着替えても痛みは増すばかりで、あるいはきのう下痢ラ豪雨に襲われたばかりであるしひょっとして風邪のウイルスが腸のほうまでおりてきてるんでないかと思われてそうだとすると頭部(頭痛)→咽喉(咳・痰)→胃腸(腹痛)とものの見事に順序よく全身むしばまれているじゃないかという話なのだけれどそれにしては下痢の気配はない。にもかかわらず腹痛は増すばかりでちょっと立っているのもしんどくなってきたものだからこりゃだめだと思って横になってポカリを飲んで、するとすこし具合のよくなってきたものだからいまのうちにと玄米と納豆と冷や奴ともずくとインスタントのみそ汁の簡単な夕食だけ用意して食べた。そのままおとなしく布団に横になってロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』を読みだし、するとまもなく眠気をもよおしたのでめざましをセットして30分ほどの仮眠をとった。仮眠からさめると腹痛は多少よくなっていたが、寝床で読書をすすめるうちにチクチクチクチクとみぞおちのあたりがまたもや全体的に痛みだして本を読むこともままならずうんうんうなる始末で、これちょっと様子が変だぞと思ってデスクから枕元に移動させておいたパソコンで検索をかけてみたところ胃痛の疑いが出てきて、そういえばいちど胃を悪くしたときもこんな感じの痛みだったような気がすると思いひとまず原因を探るためにも枕元にあったバナナを二本食べてみたところあっけなく腹痛がおさまったものだから、さっき簡単な夕食をとった直後も一時的に楽になったことも含めて空腹時に痛みが出るってことはこれやっぱり胃が原因だと思った。風邪で弱っているところにここ数日のイライラが重なった結果だろう。なんて素直な体なんだろうとげんなりせざるをえない。さいわい手元に胃薬があったのでとりあえず服用した。咳止めが切れてきてふたたび咳が出はじめ痰がからみはじめたが、さすがにこのコンディションでちゃんぽんするのはこわかったので控えておいた。つまるところじぶんは攻撃力が高くそしてその分だけ同時に防御力の低い人間なのだろうなと思った。ストレスを感じやすいというのはまぎれもない弱さであるが、しかしそのストレスの正体とは思いどおりに運んでくれない事にたいするいらだちであり、そのようないらだちを頻繁に感じるというのは裏をかえせば思いどおりに事を運ぼうとする攻撃的な欲望の強さのあらわれであって、攻撃性と脆弱制が同居するのはほかならぬこの一点だ。これがじぶんなのだ。もうすこしあきらめのよい人間だったらしかたないの一言でどっしり構えて受けながすことのできる諸々にたいしていちいちいらだってしまう。まぎれもない弱さであるが、この弱さの裏面で燃えさかるあやうさにここまで引っ張ってきてもらったという事実も否みがたくあり、みずからのパッションで焼死する男の戯画がまたよぎる。
咳きこみながら腹をさすりながらそれでもちびちびとブレッソンを読み進めた。死にたくないと思った。早逝だけは絶対にしたくない。じぶんの手によって書かれるべき小説が待ち構えていると思った。そういう感覚ははじめてだった。ためしたい技法がある、書きたい小説がある、そういうこちら主体の焦慮につかれることはたびたびあったが、小説のほうでじぶんを待ち構えているという、こう書いてみたらいかにも陳腐な物言いであるけれども、でもそんなふうな実感につかれたのは今日この瞬間がはじめてだった。ブレッソンの言葉のひとつひとつにそわそわした。あたらしい何かが見えそうだった。これはきのうも感じたことであったが、やはり「偶景」だけでは足りない。満たされない。同時進行でなにかひとつあたらしいものを書きはじめなければならない。「邪道」を書きなおす?これはしかし実をいうときのうすこし試した。それでやっぱり駄目だと思ったのだった。ならば「絶景」のリメイク?あるいは「双生」にふたたび挑戦する?それともウルフ+マンスフィールドをジャンクションしたうえでいよいよなにか書き出すか?あるいはほかになにかあっただろうか?これまでに思いついたけれども実行してこなかったアイディアはたくさんあるはずなのだがいまひとつ思い出せない。そのすべてをこのブログで惜しみなくさらけだしてきたつもりなんだが。リレー小説でない複数人での共同作業による執筆という案がまずあった。あとは典型的なラブコメをなぞっておきながらしかし作中で用いられる修辞がすべて臓物にかかわるグロテスクな表現であるというほとんど出落ちみたいな小説もいちど考えたことがあったはずだ。しかしどれもしっくりこない。いまの気分に合致しない。
薬がきいて楽になってきたのでHAIM『Days Are Gone』を聴きながら、ゴダールを読み終えてからここにいたるまでの経緯を書きしるした。胃に過剰な負荷を与えることになったもうひとつの原因に思い至った。『ゴダール映画史』を読んでいるあいだひっきりなしにコーヒーを飲んでいたのだ。それも強烈な空腹を覚えているところにがぶがぶと。コーヒーの量を減らさなければならない。4時半をまわって床に着いてまもなく眠りに落ちたのだが、猛烈な咳き込みによってとちゅうで目がさめた。空咳ではなくのどもとにしっかりとひっかかるもののある深い咳を延々とくりかえしているうちに首のぼうっと熱く腫れあがってくるような感触さえあってそれよりもなによりもとにかく咳がおさまらず眠れないものだから空腹時に服用してもいいものだろうかと若干不安におもいながら咳止めシロップを飲んだ。したらじきにおさまったのでふたたび眠りについた。6時近かった。覚悟を決めようと寝入りばなの頭で思った。すべて受け入れるか黙殺するかしずかに軽蔑するかの覚悟を決めたうえで黙々と書いてガシガシ名前を売ってじゃんじゃん金を稼いで、それでここだというタイミングで隠居し畢竟の大作の執筆に余生すべてを投げうって集中すればいいのだと思った。覚悟だ。覚悟だけが必要だ。馬鹿な言葉の数々にもいらだつことなく平気の平佐で対峙してみせるしずかな道化の覚悟だけが。つまり、小説をおのれの聖域とすることをあきらめる覚悟が。