20140124

 シュティルナーは、人はエゴイストであると主張する。だが、同時に、彼は通常エゴイストと見なされるのはエゴイストではない、という。たとえば、人が利益あるいは欲望の追求に「憑かれて」(所有されてpossessed)いるのであれば、それはまさに「私の所有」を失うことであり、エゴイストではありえない。だから、彼がエゴイズムをいいながら、連合(アソシエーション)を志向することは少しも矛盾しない。むしろ、彼はエゴイストのみがアソシエーションを形成しうるし、また、アソシエーションはそのようなものであるべきだといったのである。彼はプルードンの構想するアソシエーションに、教会や共同体の臭いをかぎとっていた。彼はそれが強いる道徳性を否定した。しかし、そのことによって、彼はむしろ新たな倫理を提起しようとしたのである。シュティルナーはいう。これまで、人々は、個人を、同じ家族として、同じ民族として、同じ国民、同じ人類としてのみ承認してきた。つまり、「高次の存在」を通してのみ個人を認めてきたのであって、個人をたんに個人として認めたことは一度もない。

 だが、私が君を愛し、私の心が君に養いの糧を見、私の欲求が満足を見出すがゆえに、私が君を敬いまた育くむとき、それは、君がそれの聖化された体となっている何かより高次の存在のためでもなければ、私が君の中に亡霊を、つまりは君において現象する精神を見るためでもない。それはまさしく、エゴイスト的な喜びのためなのだ。君の本質をそなえる君自身が、私にとって価値があるのだ。けだしそれは、君の本質が、何らかのより高次の本質ではなく、君より高くより普遍なるものではないから、君がそれであるがゆえに君自身であるというそのようにして唯一であるからなのだ。(『唯一者とその所有』上)

 シュティルナーがいうのは、家族、共同体、民族、国家、社会というような「類的存在」が押しつける道徳ではなく、それらを媒介せずに、現に目の前にいる他者を自由な人間として扱う、そのような倫理である。シュティルナーが「エゴイストたちのアソシエーション」として社会主義を構想したのは、その意味である。さもなければ、社会主義は、「社会」(共同体)の優位ということに帰結するだろう。このように、シュティルナーは、オーウェンプルードンのアソシエーションに、個人を従属させる共同体を見出してそれを批判したのである。しかし、プルードンは、シュティルナーが批判するような「共産主義」とは異質であった。彼はその意味でのアソシエーション(結社)を否定していた。プルードン社会主義は、むしろ「エゴイストたちのアソシエーション」だったといってよい。そのことは、のちに『連合の原理』において明らかにされている。連合の契約とは《限定された一ないし多数の目的のための双務的、実定的な契約であり、しかも、その基本的な条件は契約当事者が、彼らが放棄した以上の主権と行動とを自らに留保するものである》(『連合の原理』「プルードン」3)。
 一方、シュティルナーフォイエルバッハ批判がドイツにおいてもった意義は、もっと哲学的なものである。青年ヘーゲル派は、ヘーゲル唯物論的に転倒した。しかし、彼らは、ヘーゲルにおける、個をつねに一般者(類)において見る思考を疑わなかった。彼らは、一般者(精神)を実在としてみる考えを斥けたが、それを個に内在させた。だから、一般者は別の形で残ったのである。それに対して、シュティルナーは、一般者をすべて幽霊と呼んだ。しかし、これは個物のみが実在で類は観念に過ぎないという唯名論的な発想とは違っている。彼は実在論だけでなく唯名論をも批判したのだ。この点で、シュティルナーが「私の所有」について語ったことは示唆的である。実際、唯名論者は個体の個体性を固有名proper nameに、いわば、「所有」(property)に見出すからである。ところが、固有名は、個―類(個体性―一般性)の論理からはみ出てしまう。第一部で述べたように、固有名の問題を突きつめていくと、われわれは個体性―一般性とは別の、単独性―普遍性(社会性)という軸に転換せざるをえない。シュティルナーは、たんに個を唯一の実在としてとりだしたのではなく、個―類(一般性)で考えること自体を斥けたのだ。だから、彼がそのようなエゴイスト(唯一者)を見出したとき、それはただちに、「エゴイストたちのアソシエーション」に帰結するのである。《アソシエーションの中では君はエゴイスト的に生きるのに対して、君が雇われる社会の中では君は、人間的つまり宗教的に、「この主人の体の一肢体」として生きるのだ》(『唯一者とその所有』下)。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



10時半起床。ひさびさに首から肩にかけて筋のたがえたような痛みをおぼえた。もうかれこれ二週間ほどジョギングできていないし筋トレも一週間近くしていないことになる。そのせいでデスクワークの負荷がどんどん蓄積してきているのだ。パンの耳2枚を食べた。我慢できずにコーヒーを飲んだ。細野晴臣Omni Sight Seeing』。
12時。昼の部:作文。BGMはNirvanaNevermind』とSyrup16g『My Song』。本来は読書にあてられるべき時間であるのだけれど、昨夜の作業がいまひとつ納得のいかないものだったので、それだけきっちり片づけておくことにした。ふるい作品から引っ張ってきたものを「偶景」仕様に鋳直すという退屈な仕事に従事し、どうにかこうにかひとまずの完成をみたところで、あらたに書きくわえるべき断章はない。ゆえに頭から順に推敲していこうかと思ったが、どうにも気が乗らない。せっかく推敲地獄から脱出することができたのに、その先でまちかまえているのがまたしても推敲というのでは、どうにも気が滅入る。やはりあたらしい小説を書き出すべきだ。と、昨夜とまったくおなじ思考をなぞり、その結果としてひとまず「絶景」のリメイクに挑戦してみようと思ったのだけれど、一行目を書き出そうとしたところで若干の吐き気をともなう抵抗をおぼえた(じっさいにオエッと嘔吐いた)。無理。あんなにつらかった執筆の日々は二度とごめんだ。書こうとすると細胞がサボタージュする。無理無理無理。まだそのときじゃあない。構想に見合うだけの筆力がない。もっとうまく書けるようになりたい。文章の基礎体力が欲しい。小説の息遣いを覚えたい。小説というものをどうやって書いたらいいのかいまだによくわからない。とりあえず一行書いてみたらいい、そんでその続きの一行をさらに加えればいい、そのくりかえしにすぎないとはわかっているのだけれど、それをするためには信じられないくらいの勇気と体力と信仰がいる。小説の執筆という営みはほとんど人智をこえている。だからまともな小説を書いている人間は多かれ少なかれ全員頭がおかしい。人間のそとにはみだしているから。
メールボックスをチェックしてみたところ、(…)さんから『A』の感想メールがとどいていたのだけれど、そのなかに含まれていたするどい指摘に目から動揺の鱗がこぼれおちまくった。これには参った。ぐうの音も出ない。まったくもって思い至ることのできなかった死角をぐさっとひと突きやられたような気分だ。ふがいない。まだまだ行き届いていない。ちょっと調子にのりすぎていた。指摘を受けてさっそく修正したくなったが、有効な指摘を受けるたびにいちいち書きなおしていたらきりがないし初版を買ってくれたひとたちにちょっと申し訳ないというのもあるしで、半年間隔か一年間隔か、たとえばそれくらいのアレで部分的に手を入れなおしてそのたびに版を更新するというのがベストかなと思った。誤字脱字のたぐいもなんだかんだいって今後出てくるんでないかという見通しもあるし。不完全なものを公開したままにするというのはじぶんの性格的にかなり、というか尋常でないほど苦しいものがあるのだけれど、しかしこうした責め苦にたいする耐久力もいい加減養わなければならないということも最近わかった。こと小説にかぎって発揮されがちなこの過剰な神経質っぷりを「克服」する必要などないのだろうけれど、しかしときに「抑圧」してみせる程度の処世術くらいはやはり必要だろう。
それでその(…)さんが『A』を読書メーターに登録してくれたらしいので((…))、みなさんがんがん登録してがんがん感想書いてがんがん広めてください。ここで大金をつかんでおかないとムージルカフカやヴァルザーにならびうる大傑作を書くための環境を構築することができない!
新規のテキストファイルにむかってはみたもののまだまだあたらしいものが書けそうになかったのでWillits+Sakamoto『Ocean Fire』とCan『Ogam Ogat』とArvo Part『Alina』を順に流しながらロベール・ブレッソン『シネマトグラフ』の続きを読んだ。そしてそのまま読み終えた。すばらしかった。十数年にわたる長い年月をとおして書きつながれてきた書物であるはずなのに最初から最初までなにひとつ主張が変わっていない。同じことをひたすら手を変え品を変えくりかえしているだけ。おそろしい。ブレッソンの「モデル」理論をたとえば小説にインポートするとして、その場合はやっぱりいっさいの心理描写を排した小説ということになるんだろうか。しかしこれではいかにも表面的なインポートだ。もっとも、これはこれでちょっとためしてみる価値もあるんでないかという気がしないでもないが。たとえば『快楽の館』のロブ=グリエみたいな筆致で? あるいはこの映像作品(http://vimeo.com/77489382)のように?モノローグもダイアローグもなく、ただ隠された物語に沿って行動するひとびとのその身振りだけを端的に連ねて記述していく?でもそれだけじゃ駄目だ。もっと強力なきっかけが必要だ。こちらを執筆にかりたてるもっと強力なひとつの軸となるひらめきが。そのおとずれを待たなければならない。まだ書けない。まだ書いてはいけない。ナタリー・サロート『生と死の間』の「ぼく」のように伏して待つこと。コノテーション錬金術にたよらずポエジーを産出する方法をもとめて。
へそくりから二万円財布にぶっこみ、ぶつくさやりながら薬物市場に出かけて、ネット料金を支払った。それから図書館にでかけて予約しておいたCDを2枚受けとった。ついでに書架をながめた。なにかこちらの背中を後押ししてくれるような書物はないか、こちらの執筆意欲に火を点じてくれるやばい一冊はないか、目を皿にして探しまわったのだけれどなにひとつしっくりこなかった。個人的必読リストに記載してある作家名や作品名もちらほら散見せられたのだけれど、どうにも食指が動かない。なにか違う。ムージルを読んだときのようなやばさが欲しい。後頭部をガツンとやられる必要がある。交通事故の被害者が回復後とつぜんサイケデリックな絵画を描きはじめるように、それを読んでしまうことであたらしい何かを書き出さずにはいられなくなってしまう、そんな書物が必要だ。そんな書物を求めている。致命傷となる一冊。それとの出会いそのものが一種の事故である一冊。しかし、どこに?
ぶつくさやりながら帰路スーパーにたちよって買い物をした。そうして帰宅してからシチューを作った。シチューを作るのなんて何年ぶりだろう!ねずみ屋敷時代はしっかりとしたキッチンと食器があったからシチューやカレーみたいなものもたびたび作ったものだけれど、精神病棟時代は共同キッチンのある一階と自室のある三階のあいだをでかい鍋やら食器やらをもって移動するのがおっくうだったのでその手のものはいっさい作らなかったし、バラック小屋のいまとなってはもはやキッチンさえない。が、カセットコンロひとつあればどうにかなる。のでシチューを作った。したらクソ美味かった。シチューを作るコツを一瞬にして極めてしまったかもしれない。パッケージに記載されているレシピ通りに作る、これだけだ。ぜんぜんむずかしくはない。幸福な夕餉であった。
シャワーを浴びて部屋にもどってストレッチをしてから英語の勉強にとりかかった。音読。終わった。ようやく最初の一冊にケリがついた。おもえばこれはSが来日する前から着手していたものだ。いくらなんでも時間をかけすぎという気がしないでもないが、(…)の滞在していた二ヶ月間とその後の「A」推敲に費やした三ヶ月間の計五ヶ月間はまともにテキストを進めることができなかったことを考えると、まあ妥当なところなのかもしれない。音読用にはすでに次の段階のテキストを購入してあるのだが、あんまりやる気が出ない。ゆえにそろそろ文法問題でもやろうかなと思う。ここにきてようやく大学受験レベルの勉強にさしかかりつつあるというわけだ。先は長い。
Tom WaitsRain Dogs』とThe Beatles『Revolver』を聴きながらブログを書いた。すでに0時近い。金曜日は翌日に労働を控えているそのせいでとても短い気がする。コーヒーを飲んだせいで胃の調子がいまひとつよろしくない。難儀だ。コーヒーは物書きのガソリン。