20140126

 ところで、貨幣を蓄積すれば、いつでも物を獲得できるのだから、当人が物を蓄積する必要はない。したがって、蓄積は、貨幣の蓄積としてのみはじまるのだ。それは、物を蓄積することには、技術的に限界があるからではない。そもそも、貨幣経済の圏外にあるどんな「共同体」においても、自己目的的な蓄積への衝動などありえないのである。逆に、そこでは、バタイユがいうように、余剰生産物は蕩尽されてしまう。「蓄積」は、必要や欲望にもとづくどころか、それらにまったく反した「倒錯」に根ざしている。逆に、蓄積こそ、われわれに、必要以上の必要、より多様な欲望を与えるのである。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



6時半起床。ストレッチ。パンの耳1枚とバナナ2本の朝食。おもてに出ると早朝にもかかわらずぼんやりと暖かくヒートテックのタイツもいらないのではと思われるほどだった。烏丸通を南下しているときに同志社大学の建物のむこうがわにのぞく朝焼けが目について、久米島でながめた朝焼けの記憶が鮮烈によみがえった。そうして案の定ものすごく感傷的な気持ちになった。これから先朝焼けをながめるたびにこの日のことを思い出すことになるだろうしそそしてそのたびに感傷に苛まれることになるだろうと2013年9月の久米島の早朝の浜辺で未来を先取りして抱いたあの気持ちをなぞるがままの無様さだった。肌寒い初秋の空気がわずかに感ぜられる早朝で、(…)はすこし寒いからといってブランケットを羽織ったのだった。その記憶にうなさがされるようにして、つい先ほどまで冬の真中とは思えぬほど温暖な早朝であるという意識の勝っていたのがひといきに覆されて、コートの下に忍びいる向かい風の冷たさに硬くあわだつものがあった。これは「偶景」になると思ったので、交差点の信号待ちの間に携帯にメモをとった。朝日はCGのようだった。ひと月前になるのかふた月前になるのか、いつもとちがう路地を抜けて近所のスーパーにむかう途中で目にした墓地とその背景にしずみゆくエリック・ロメール緑の光線』のラストショットのような落日の記憶がよみがえり、と、連想に身をゆだねているうちに、これもまたやはり「偶景」になると思った。鴨川をわたると水の量がいつもより減っているようにみえた。嵐山に被害をもたらした昨夏の台風はたしか(…)が家出した翌日に古都を襲ったのではなかったか。
8時より12時間の奴隷労働。引き継ぎのときに(…)さんとまた小説の話をした。主人公を地獄帰りの男にするという案が決まり、語りは一人称を採用することにした、と(…)さんはいった。「ぼくは相対主義者ですから、その主人公の対になる人物を設定して、それで交代交代の語り口で物語を進めることができればと思ってて……」「(…)さんきのう声優さんが好きやって言うてたやないすか、ほやしこれでたとえば(…)さんの書いた小説がヒットしてアニメ化してってなったら、じぶんの好きな声優さんに演じてもらうってことやってありうるわけやないすか、もしそうなったら、そういうのってすんごいハッピーっすよね、なんつうか、こう、最短距離の直線でじぶんの欲望がずばずばずばっと貫通されてくみたいな、そういうのってほんま、やっぱ、すごいハッピーなことやと思います、うん、ぼくはそう思う」。
往路に思いついた「偶景」の素案を携帯電話のメモ帳にあらためて箇条書きにしていたのだけれど、ひさびさにまとめてがっつりおとずれるものがあったからなのか、妙にたかぶるものがあり、ゆえに9時から10時半までの勤務中もっともしずかでゆったりと過ごすことのできるひとときを利用して、職場に置いてあるA4のコピー用紙にむけてひさびさに手書きで4つの断章と2つの素案を書きつけた。書きつけている途中にふと、「偶景」の断章形式はもともと二勤二休制で働きはじめて自由時間の極端に失われてしまった生活のその隙間の時間だけでもどうにか利用して書きつなぐことのできるそんな小説はないものだろうかという思いを発端として採用されたのであったことを思い出した。ゆえにこの小説はいわば労働環境の産物なのだ、必要にせまられて書きはじめられた作品なのだ。ずたずたにひき裂かれた細切れの時間の断片にかっちりとかみ合うずたずたにひき裂かれた細切れのテキスト。
書くための時間を確保することにたいしてじぶんはおそらくそれ相応の労力を払って一途に懸命にやっているつもりであるのだけれど、その結果としてあらわれる週休五日制という世間ずれしたこの時間割だけをとりあげて怠け者の烙印を頭ごなしに押しつけてくる連中はあとをたたない。じぶんの欲望に忠実に行動し理想を実現せんとするその労を避けてばかりいるみずからの生にたいして不誠実きわまりないひとびとの口より怠惰のそしりを受けるいわれはないのではと端的に思いもするのだが、この論法がさらなる非難以外の生産的な何かを呼び起こすにいたったためしはない。ゆえにただ口をつぐむほかない。サイの角のようにただ独り歩め。
職場でとっている京都新聞の書評欄をながめていたら、小笠原豊樹岩田宏の新刊がとりあげられていた。『マヤコフスキー事件』。現代詩文庫の『岩田宏詩集』は古本屋で見かけるたびに購入していて、収録されている作品のなかではとくに「神田神保町」が好きで、大好きで、だからよく音読したものだった。閉店間際のアダルトショップでラジオの音声を消しておもての戸を閉めて、あとはただ時計が2時を指すのを待つだけのひととき、何千本だか何万本だかしらないアダルトビデオに四方を囲まれながら勝手な節をつけてひとりで朗唱したあの夜のことをきっと忘れない。あんな夜が、分かちあう友も仲間ももたない感動をせめてじぶん自身にむけて何度もくりかえすしかなかったあんな夜の営みだけが、じぶんをここまで強靭なエゴイストに鍛えぬいてくれたのだ。感謝したい、かつてこの身を取りかこんだすべての孤独な夜に。わかちあうあてのない芸術の豊穣をひたすらにもてあましていた月日に。叩いても響かぬ対話の数々にひそかにいらだちひそかに歯噛みした幾千の疎外の瞬間に。そのようにしてこの身をながらえさせてくれたすべての事の運びに。
早朝の通勤路はあれほど暖かかったにもかかわらず帰路は雪にふられてさんざんだった。蕁麻疹のスーパーで半額品の弁当を購入した。帰宅してからまずシャワーを浴びて身体を温め(しかし風呂場から自室にもどるまでのあいだにまた雪にふられるという)、それからインスタントのみそ汁といっしょにしょうもない弁当をかっ喰らった。一日を通して頭のなかで、胸の奥で、指先の指紋の迷宮で、つねにあたらしい小説を書き出すのはまだかまだかとそわそわとうかがうような気配があった。まるで眼前にかかげられたビーフジャーキーを前にしてよだれをたらしながら命じられてもいない芸をつぎつぎと繰りだす犬っころのような気分だ。Fishmans『'98.12.28男達の別れ』を聴きながらウェブを巡回し、ブログを書いた。
『三人の女』のムージルは、まさしくブレッソン的な「節約術」を小説に持ち込んでいるのではないか。
ここまで書いて床に着くつもりだったのだが、妙に頭がさえているように思われたので、そのまま「偶景」の執筆にとりかかった。作業BGMはスーパーカー『A』と『Buena Vista Social Club Presents Ibrahim Ferrer』。2時半を間近にしてようやくまぶたの奥にどろんとした濁りのようなものを覚えはじめたので続きは明日に持ち越すことにして、歯をみがいてから布団にもぐりこみ、五分とたたずに入眠した。