20140127

 資本主義のグローバル化の下に、国民国家が消滅するだろうという見通しがしばしば語られている。海外貿易による相互依存的な関係の網目が発達したため、もはや一国内での経済政策が以前ほど有効に機能しなくなったことは確かである。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。たとえば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再分配)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かう。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本制=ネーション=ステートは、三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。それは、それらがたんなる幻想ではなくて、それぞれ異なった「交換」原理に根ざしているからである。資本制経済について考えるとき、われわれは同時にそれとは別の原理に立つものとしてのネーションやステートを考慮しなければならない。いいかえれば、資本への対抗は同時にネーション=ステートへの対抗でなければならない。その意味で、社会民主主義は、資本主義経済を超えるものではなくて、むしろ、資本制=ネーション=ステートが生き残るための最後の形態である。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)

 環境問題はそれ自体で産業資本主義を阻止する力にはなりえない。現実に、環境汚染を阻止するのに最も有効な方法は、廃棄物処理のコストを――たとえば炭素税というかたちで――生産コストに入れてしまうことである。それは、これまで自由財と見なされたものを商品としてみることである。たとえば、アダム・スミス以来、空気や水は、使用価値はあるが交換価値はないものの代表例として考えられてきたが、今やそれらは商品生産の対象となりつつある。つまり、環境問題は商品経済と私有化の一層の深化に帰結する。その結果、環境危機と食料危機は、新たな帝国主義的な国家間の対立を招来するだろう。資本と国家は、なりふり構わず存続をはかり、諸国民はそこに巻き込まれるだろう。そして、そのことが「公共的合意」によってなされるだろう。第一次大戦において、第二インターナショナルの各国社会民主主義者が参戦を支持したように。われわれの前に、環境汚染がもたらす悲惨は確実に迫っている。それは産業資本がもたらしたものであり、それを抑制しないかぎり、破局は不可避的である。しかし、それに対する対抗が困難なのは、われわれが資本制=ネーション=ステートの中にあるからだ。その回路の外に出る方法がないかぎり、われわれに希望はない。そして、その出口は依然としてアソシエーションにしかない。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)



10時半起床。9時ごろにいちど猛烈な尿意にせまられて目がさめて小便をしに便所にまで立っていったのだけれど、そのときたしかものすごくカーニバル的かつスラップスティックな夢を見ている途中で、ちょっといままでにない感触の筋立てと奇想の二本柱だったものだから、小便を終えて部屋にもどってからもういちど夢の続きを見ようと思って布団にもぐりこんでから中断してしまった夢の先端部を反芻しているとほんとうにその続きを見ることに成功したのだけれど、これを書いているいま、どんな内容だったかほとんど覚えていない。小中学校と同級生で高校の一時期に同じ空手の道場にも通っていた(…)ちゃんがでてきて、東京で乗車したモノレールみたいな雰囲気の車内でしっちゃめっちゃかのてんやわんやの騒動がまきおこって、と、こう書いているうちに少し思い出した、たしかバスの最後尾列のシートに腰かけている匿名的な仲間たちにむかって話しかけていると、すぐそばにいた女子高生三人組のうちのひとりに話しかけられて、コンパがどうのとかそういう流れになるのだけれど彼女たちの目的は(…)(前述の(…)ちゃんとは同名の別人。美容師)で、(…)の男前っぷりはちまたの女子高生のあいだでも話題になっているのかと驚きおののく、そんな場面があったはずだ。でもそれ以外はよく思い出せない。とにかくカーニバルでスラップスティックだった。また思い出した。喫茶店のカウンターでひとりで大麻だかハーブだかよくわからないものをキメていて、それでなんとなく後ろをふりかえると、ちょうどじぶんの真後ろにあたるソファ席に千葉雅也がひとりで腰かけていて、そして空席になったこちらから見て左側の席のそのまたもうひとつ左の席には佐々木中がやはりひとりで腰かけていて、すると店内のBGMがニコライ・カプースチンに切りかわり、その途端ふたりが席に腰かけながらも同時にエレキギターの早弾きをはじめ、そんなものを目の当たりにするともういてもたってもいられずひとりその場にたちあがって叫びながら踊りくるい、それから(…)(かつて実家にいた犬っころ・雑種・享年10歳)の名前を呼びながら両手を叩くと、(…)(蒸発した伯母が独身時代に飼っていた犬っころ・ヨークシャーテリア・享年はしらない・口がむっちゃくさい・Wikipediaをチェックしたらヨークシャーテリアは「虫歯、歯周病になりやすい」との記載があった)が実家の居間から駆けてきて、その(…)にむかいながら「(…)ー(…)ー」と声をかけつづけ、踊りくるい、やがて(…)が千葉雅也のほうに飛びかかっていって、そこで演奏は中断された。これは小便にたったあとで見た夢の場面だと思う。
起き抜けのストレッチをしていると首がまわらず痛みをともない、脊椎症がどうやら悪化しているらしいと思った。歯をみがいてから洗濯機をまわし、前夜郵便受けに入っていた宅急便の荷物をお預かりしていますという書き置きをもって大家さんのところをおとずれたのだけれど、ガラス障子越しに眠っている姿が見えたので、機をあらためるかと思って部屋にもどり、そうしてトーストとバナナとコーヒーの朝食をとった。そうこうするうちに大家さんのほうから荷物をもって部屋にやってきたので受けとり、差出人はむろん(…)さんで、中をのぞくと高そうな豆のお菓子三種類(梅落花・海老豆・コーヒーナッツ)と「OPPAI NOTE」という表紙をみると一見ふつうのノートのようであるのに(とかいいつつもよく見るとタイトルはいわずもがな“Two Ideas Are Better Than One.”とか“50 BOOBS”とかさりげなく書かれていたりする)中身は見開きごとに異なるおっぱい画像の印刷されてあるその上に罫線のひかれてあるページが計50 BOOBSという人前での使用がはばかられるブツと、それからカラフルな小鳥のちいさな粘土細工みたいなのが入っていて、その小鳥の胴体をつらぬく穴にさしこまれている巻き紙めいたものを見たときにこれひょっとして紙煙草かなと禁煙するまえの(…)といっしょによく回しのみしていた味を思い出したりしてためしににおいでみたりくわえてみたりしたのだけれどよくよく凝らしてみるとインクのようなものが透けてみえ、いやいやこれ手紙だわとおのれのまぬけなふるまいを誰にともなく恥じながら煙草サイズの巻物をひっこぬいてくるくるひろげてからありがたいメッセージをしみじみ読んだ。OPPAI NOTEは「ずっと見ているとおっぱいが気持ち悪くなってくるという最悪のノートです」とのことで(この「最悪のノート」という直球の悪態に(…)さんの小説にたびたび出てくる罵詈雑言暴言の片鱗をはっきりと認めた!)、アダルトショップに勤めていたとき、徹夜明けや睡眠不足の日曜日の朝にほこりっぽい店のなかに入って開店準備などをしているとしばしば四方をとりかこむ全裸の女体が奇妙にグロテスクに見えることがあり、そのたびに嘔吐きかけたりしたことがあったのを不意に思い出した。
『Aki TAKAHASHI plays TAKEMITSU』を流しつつ、いただいたばかりのコーヒー豆をコーヒーといっしょにぱくつきながら(案の定うまい!)ここまでブログを書き、それから(…)さんにお礼のメールを送信すると13時半だった。(…)さんに送ったメールのなかでもすこし触れたのだけれど、読書メーター界隈をながめていると世の中にはまだまだじぶんのしらない傑作小説がそれこそ星の数ほどあるらしいことがうかがわれて、これほんとおちおち寝てる場合じゃないわと熱っぽい焦りをおぼえてたまらない。ほんとうにひろく奥深い世界だ。平均寿命までいきながらえることができたとしても、のこされた時間はせいぜいあと50年。ぜんぜん足りない。さっさと不老のメカニズムを解明してくれればいいのだけれど。そしたらベジータフリーザなみの執念で不老不死をめざすのに。
Hilary Hahn『Bach : Chaconne』とJIm O’Rourke『Bad Timing』を聴きながら松下清雄『三つ目のアマンジャク』を読み進めた。これ二日ほど前から寝るまえにぽちぽち読みはじめていたのだけれど猛烈におもしろい。ぜんぶで1300ページもある大著でまだ100ページちょっとしか読んでないのでアレなんだけれどそれでもすでに傑作の感触がまざまざと感じられる。
読書の途中、十日ほど前に届いたきりにしていた灰野敬二『In The World』をふと聴こうと思い立ったのでやはりもう十日ほど以前に届いたきりになっていた避妊具めいた名称の外付けドライブ「カクうす」の梱包をほどいてUSBケーブルでMacに接続し、そうして『In The World』と図書館できのう借りたばかりのストラヴィンスキームソルグスキーをインポートした。それで『In The World』を聴きながらひきつづき読書にとりくんだのであるのだけれど今年聴いた音源のなかでこれはダントツにやばい。今年まだはじまったばっかりだけれどひょっとすると2014年の一枚になるかもしれない。読書にやや飽いてきたところでたまっていた日記の読み直し作業にもとりかかった。「偶景」に使えそうな記述があったのでひとまずコピペしておいた。
17時前に(…)から連絡があった。(…)さんの仕事のほうがどうやらいそがしいらしく当初の予定よりもずっと遅れるかもしれないという話で、仮に仕事を終えてからいったん自宅に帰りそれからバスなり地下鉄なりタクシーなりで町に出るとなると開始が21時になるとかかんとか、日を改めてもいいのだけれどこの日のためにわざわざ翌日に貴重な休みをあてておいた(…)としてはやはり今日がいい、というわけでそれだったらまた以前のようにこちらから(…)さんの自宅のある山科にむかえばいいんでないのという話に落ち着いた。18時半をめどにいったんこちらをおとずれると(…)がいっていたので、それじゃあそれまでにひとつ図書館に繰りだすかということでコートをはおって家に出た。山科に出かけるというこはまた前回のように帰路は三時間の徒歩になるかもしれないという見込みがあったので、体力温存と時間節約をかねて図書館まではひさびさにケッタに乗ってむかった。ストラヴィンスキームソルグスキーを返却してリムスキー=コルサコフとザ・スターリンを借りた。帰路は薬物市場にたちよってゴミ袋を購入した。あたたかい飲み物が欲しかったので紅茶花伝を購入したのだけれど、いつもよりやや大きめサイズのペットボトルがあったのでラッキーと思ってそれを選んだところ大きいサイズのはキャラメルなんとか味みたいなのでクソがつくほど甘ったるくマジでやってられないというか、まったく同じミスを先日労働にでかける途中にたちよったコンビニでも犯したばかりであることを思い出してなんて学習能力のないうすのろなんだおれはとげんなりした。でかいというだけでパッケージを確かめることさえせずに反射的に手にとってしまうおのれの貧乏くささ、ほとんど体臭めいたその意地汚さのビニール袋にたっぷりとつめまれてあるのに顔をつっこんでたっぷり深呼吸でもさせられたかのような気分だ。最悪。
帰宅してまもなく(…)がやって来たのでとりあえずOPPAI NOTEを見せてあげた。それからふたりで地下鉄に乗って東山なんとかみたいなところでおりてそこから徒歩で職場にむかった。(…)さんの仕事にケリがつくまでもういくらか時間がかかるという話だったが、かといってそのあいだ職場で時間をつぶすのもちょっとアレというか、上司と飲みに出かけるとなるとそれだけでひがみ・やっかみ・ねたみ・そねみを燃えあがらせるものもいればあいつはあの派閥の人間なのだなとわけのわからない判断を下してくるものもいる厄介な魔窟ことわが職場であるので、しかたなく(…)さんの車のとめてある駐車場にたむろして時間をつぶした。まもなく(…)さんがやってきた。(…)さんも一緒だった。仕事がとつぜん忙しくなったというのは要するに(…)さんの案件があったかららしかった。ペーパーカンパニーの会社概要の作成を依頼されていたのだ。(…)さんと簡単な挨拶だけかわしたあと(…)といっしょに(…)さんの車に乗りこんだ。それから本社の愚痴を漏らす(…)さんの言葉を聴きながら(…)さんの自宅にむかった。(…)さんがもろもろの準備を整えていてくれるあいだ、部屋にはあがらず(…)とふたりでおもてで立ち話をして待った。まもなく支度をおえた(…)さんがやってきた。三人そろって歩き出して最初の角を折れてすぐ、前方の路地から子供ふたりの自転車とおとなひとりの自転車がやってきた。ライトがまぶしかった。嫁と子供だ、と(…)さんがいった。すれちがいざまに挨拶をした。前回おとずれたのとは別の焼き鳥屋にむかってとぼとぼと歩きつづけた。道半ばですでにこちらはべろんべろんであった。おまえの燃費のよさがうらやましいと(…)さんはしきりにいった。焼き鳥屋は遠かった。ふたつある座敷席のいっぽうに着いた。もう一方にはチンピラ一家みたいなのがいた。料理を注文するのが面倒なのでおまかせセットみたいなのを三人分たのんだ。うまれてはじめて鶏の刺身を食べた。唐揚げも美味かった。ほかにもいろいろ美味かったはずなのだが、あんまりよく覚えていない。何の話をしたのだったかもいまひとつよく思い出せないが、あとで(…)に確認したところ、なにかこう、たとえば秘密にしていた事柄をうかつに漏らすとかそういうことはいっさいなかったということなので、それだったらあとはもうなんでもいい。焼き鳥屋をあとにしてから(…)さん宅にもどった。とちゅうでコンビニにたちより酒やジュースやおつまみのたぐいを購入したはずだ。(…)さんのお宅ではWii Uをしたはずであるのだけれど、というかダウンロードコンテンツとしてあったSFCのマリオワールドを(…)とかわるがわるプレイしたのだけれど、なんかもうあんまりおぼえてない。コントローラーをわたされた身体が、指先が、ふるい記憶がただ黙々とプレイしただけみたいな感じで、傍からみればたぶんゾンビみたいだったし、ゾンビとして生きるというのがどういうことなのか実感としてつかめた、というかあのときじぶんはたしかにゾンビだったんではないか、そしてあのゾンビとして生きる質感をたとえば小説の語りのフォーマットに落としこんだ場合はたしてそれはどのようなかたちに結実するのか。「祝福された貧者の夜に」の素案? (…)さんがまず最初につぶれて、こちらも半ばつぶれているようなもので、ただ(…)だけがわりと元気だったんでないかと思いかえされるのだけれど、いずれにせよそろそろおいとまするかとなって、1時? 2時? わからない。(…)さんは玄関先まで見送りに来てくれたのだったかどうかそれもよく覚えていないしそこからの帰路もかなりあいまいで、とちゅうでコンビニにたちよってコーヒーかなんか飲んで、それではっきり意識の冴えるかとも思ったのだけれどもまたしても朦朧となる、みたいなのをくりかえしながら歩きつづけて、(…)はでもその間もずっと元気だったんでないか、ぜんぜんシラフだったんでないか。前回と同様またしても朝方まで営業している中華屋にはいって、あれはたぶん祇園の近所だったんでないかという気がするのだけれどよくわからない、とにかくそこでラーメンを食べたのだけれどその店に到着するまでのあいだたぶん一時間か一時間半は歩きつづけているはずで、でもその間どんな話をしたのだったかやっぱりほとんど記憶がなくて、ただFCのドラゴンボールのあのカードを選択して闘う独自システムのRPGにまつわる細かすぎて伝わらないモノマネを披露して(…)を笑いのドツボに突き落とした会心の一撃の記憶だけが栄光の瞬間としてたしかにある。でもそれ以外はもうさっぱりだ。ラーメンを食ってからさてのこる家路の一時間半かそこらを歩き出そうとなったのだけれど、いい加減満腹で、もうこれ以上動くと気持ち悪いみたいなところがなくもなかったのでおれはまだぜんぜん歩けるぞという(…)を無理やりタクシーにひきずりこんだ。そんで次の瞬間には自宅前だった。タクシーの運転手の声で目が覚めた。料金を支払っておもてにでると一気に意識がクリアになったので、寝たら回復した!と(…)に告げた。(…)はあいかわらず無傷だった。これで解散というのも味気ないので、正月に地元でゲットした例のシューティングゲームをやろうではないかと提案し、さっぶい自室にもどってからSFCをひっぱりだして『コズモギャング・ザ・ビデオ』を2Pプレイした。クソがつくほどおもしろかった。ラスボスにはずいぶん苦戦したが、それでも数度にわたるコンティニューののち無事に全クリした。たぶんこのときすでに5時をまわっていたんでなかった。(…)が去った。歯をみがいて寝た。