20140131

 厠の窓から覗くと、鶏小屋の脇の壁のところに陣どって、せっせと藁をしごいている男がいた。雨の日でも同じ場所で同じ手仕事をつづけていたが、その俯き加減の面長な顔には、黒い立派な口鬚もあり、ちょっと、トーマスマンに似ていた。概して、この村の男たちの顔は悧巧そうであった。それは労働によって引緊まり、己れの狭い領域を護りとおしてゆく顔だった。若い女たちのなかには、ちょっと、人を恍惚とさすような顔があった。その澄んだ瞳やふっくらした頬ぺたは、殆どこの世の汚れを知らぬもののようにおもわれた。よく発育した腕で、彼女たちはらくらくと猫車を押して行くのであった。だが、年寄った女は、唇が出張って、ズキズキした顔が多かった。
原民喜「小さな村」)

このゴツゴツした描写、ちょっとムージルっぽい。「だが」で接続される最後の一行のリズムなんかもいかにもそれっぽい。



10時起床。頭痛いまだおさまらず。右のこめかみがズキズキする。思っていたよりも根深いところで響くような痛みである。歯を磨くためにおもてにでると、やあ、春だ、めっきりあたたかい。Kronos Quartet『Caravan』を流しながらストレッチをし、洗濯機をまわしてからバナナ二本とコーヒーの朝食をとった。不意に思いたって東京行きの夜行バスの値段などを検索したが、しかし行くとしたらいったいいつにするべきか。2月は寒いが、かといって3月となるとすでに花粉が飛散しはじめている。とかなんとか考えているうちに便意をもよおしたので排便すべく便所にたっていったのだけれど、和式便器にまたがったとたんにトイレットペーパーの切れていることを発見して、あぶねえあぶねえと投下直前でふたたび作戦を中止した。中止したはいいものの、金曜日の日中は大家さんはデイサービスに行っていて不在だからトイレットペーパーをもらいにいくわけにもいかず、かといってこちらの部屋に備えのあるわけでもない。これはコンビニ直行コースかとも思ったが、肛門に力を入れながらひとまず部屋にもどってポケットテッシュのコレクションをあさってみたところ、水に流れますの記載がされたブツがひとつだけ見つかったので、しめたと思ってふたたび便所に駆けていき、すべてはつつがなく終息をむかえた。
12時より15時半まで「偶景」執筆。プラス5枚で計236枚。BGMは『Chet Baker Sings』とKanye West『The College Dropout』とJim Hall『Concierto』とアレクシス・ワイセンベルク演奏『ドビュッシー:ピアノ作品集』。「偶景」の目処をどうつければいいのかわからない。このまま執筆開始当初そう考えていたように一種のライフワークとして延々と書きつないでいくのか、それとも時間的もしくは空間的(すなわち枚数)な制限を設けてどこかできっぱり手放すべきなのか。手放したところでしかしいったいどうするのか。性懲りもなくどこかの新人賞に応募するのか、それとも才覚の欠片もない連中に頭をさげて原稿を提出するようなぶざまな真似はもうやめにしてこのまま自費出版というかたちで世に問うてみせるのか。しかし呪われた作家として終わるようなことにだけはなりたくない。そんな結末はまったくもって望んでなどいない。それになにより金が必要だ。人生の七分の二をどぶに捨てるようなこの生活からはいっこくも早く脱出したい。そのためにはやはりでかい会社の看板をせおってでかい規模で本をばらまくのがいちばん手っ取り早いように思われる。傑作をみすみす見落としてみせたあまたの出版社の手落ちをからかうのはたしかにいくらかなりと小気味いいものだろうが、しかしそれだけだ。そんなのは退屈な楽しみでしかない。自尊心をくすぐる安い消耗品だ。審査の信頼できる新人賞といえばやはり早稲田文学しかないように思われるが、このタイミングで断章形式の作品を送るのもいかにもアレではないかと気のひけるようなところもなくはない。どうしたもんか。
「偶景」というタイトルもいい加減どうにかしなければならない。バルトの提唱した「偶景」とはわりと正反対の方向をむいて書いているのであるから、そのまま踏襲するわけになど絶対にいかない。偶数奇数の連想から「奇景」はどうかと思ったが、これは語のもつ意味が大きすぎる。そぐわない。垂直性のできごとを記しているのであるから、それならば「垂景」はどうだろうかとも思った。あるいは「もののおとずれ」を書いているのであるから「訪景」はどうか(しかしこれは響きがあまりに卑猥すぎる)。発想を転じて、「偶啓」はどうかとも思った。「啓示」というのはムージルとじぶんを結ぶ絆のひとつであるし、これまで書きつないできた断片群をつらぬくひとつの主調であるともいえなくはない。「偶然の啓示」といえば、いかにもそれらしい。
その「偶景」を書いている途中にふと(…)のことを思い出し、というか(…)にまつわる断片を書き加えたからなのだけれど、そうだあいつに献本しようと思い立った。思い立ったといきおいでそう書いてはしまったものの、じっさいは書籍化を決定した時点で念頭にあったひとりではある。ただそのようなものを送りつけることでやつにおよぼす影響のあれこれを考えると、いくらかひるむような心地があったのだ。それが今日、とつぜん覚悟が決まった。だいじょうぶだろうと思った。それでひさしぶりにメールを送って住所をたずねた。(…)は変わらず実家住まいらしかった。贈り物があると告げると、何を送るつもりだと返ってきた。そこにひとつの警戒心を見た。自費出版したから献本させてもらいたいと告げると、楽しみにしているとあった。封筒に宛名を記して『A』をすべりこませ、同封するものはなにもなしにホッチキスで口をとじた。数えてみると『A』はあと10冊手元にあった。20冊注文したのであるからこれでちょうど半分捌けたことになる。20冊はやはり必要なかったかもしれないと思った。もうこれ以上送りたいひとがいない。(…)? 頼まれたらむろん送るだろう。ケンカばかりしていたがしかし彼女はこちらの営みについてだけはいちども否定的な言葉を口にしなかった。あなたはヨーロッパに来たほうがいいわ、こっちにはあなたみたいに自由な生活をしているひとたちだってたくさんいるし、いちいちうるさくいうようなひともいないから。いつだったか寝床でそういった。もっとも、その言葉を真に受けて簡単にあこがれをつのらせるほどこちらも無垢ではないが。世界中どこにいったってげんなりさせられたり辟易させられたりうんざりさせられたりするような連中はいる。絶対に。いたるところに。
懸垂と腹筋をした。炊飯器を洗って玄米を四合分ぶちこんでスイッチをいれた。それからスウェットにウインドブレーカーをひっかけておもてに出た。いくらか肌寒さは感じたが、しかしそれが無理な服装であるとは思われない程度にはやはり春めいた一日だった。郵便局で(…)宛ての封筒をあずけた。スーパーにまで足をのばして食材を購入し、灰野敬二『In The World』を聴きながら帰路をたどった。スーパーのレジで引き継ぎの男性店員のすでに背後にひかえている交代間際らしい女性店員がこちらが小銭を出そうとして財布のなかに指を差し入れたのに見向きもせずにさっさと紙幣だけで会計をすませてしまった。これは「偶景」になると思った。帰路にあるタバコ屋の前ではスーツ姿のサラリーマンがふたり煙草を吸っていた。そのそばを通りすぎたときに職場の具体的な景色がすっと浮かんだ。プルースト効果。きっかけはマドレーヌではなくラークだが。帰宅してから泥棒ヒゲを剃ったり刈ったりした。これでもいちおうはスーツを着込んで人前に姿をみせる(こともある)ポジションにある人間なのだ。
King Tubby『Dub Mix Up』を聴きながらここまでブログを書いた。玄米と納豆とめかぶと冷や奴とささみと水菜と春菊とえのきをこんぶだしと酒と塩でタジン鍋したしょうもない夕食をかっ喰らったのちウェブ巡回し、それから風呂に入った。部屋にもどってストレッチをし、仮眠なしではやはりいくらかこころもとない目元をしぱしぱさせながら『三つ目のアマンジャク』の続きを読んだ。こんなふうに続きをはやく読みたい読みたいと思わせられるような読書体験というのはじつにひさしぶりな気がする。滅多にないことだ。Helios『Eingya』とAsh Ra Tempel『First』をたてつづけに流したあとは無音のなかで読みすすめ、0時を前にしたところで中断し、軽くひっかけ、一時間ほどだらだらぐだぐだべろんべろんしてから寝た。