20140201

 私は俘虜となることを、日本の軍人の教えるほど恥ずべきものとは思っていなかった。兵器が進歩し、戦闘を決定する要素において人力の占める割合が著しく減少した今日、局所の戦闘力に懸絶を生ぜしめたのは指揮者の責任であり、無益な抵抗を放棄するのは各兵士の権利であるとさえ思っていた。しかし、今現に自分が俘虜になって見ると、同胞がなお生命を賭して戦いつつある時、自分のみ安閑として敵中に生を貪るのは、いかにも奇怪なあるまじきことと思われた。
 私はふとこのまま海に飛び込んで死にたい衝動に駆られた。しかしこれは偽りの衝動であった。前の日山で訊問を受けながら、敵の手にある戦死した僚友の持ち物を見て「殺せ」と叫んだ時と同じく、私の存在の真実に根拠を持たない贋の衝動であった。あたりに見張りの米兵はなかったにも拘らず、私は身じろぎもしなかった。
 衝動は過ぎ、ただ深い悲しみを残した。私はそうした偽りの衝動を感じなければならない自分を憐れんだ。
大岡昇平『俘虜記』)



2月だぜ!
6時半起床。めざましよりも1分早く目が覚めた。一昨日に引き続きのフライングである。就寝前に明日は何時に起床するのだと念押しするだけでじっさいにその時刻ぴったりに目を覚ますことができるという目覚ましいらずの人間が少なからずいるけれども((…)などまさしくそうだった)、そうしたひとの眠りというのはとても緊張したものでありふつうのひとよりもずっと浅いのだという話をどこかで耳にした記憶がある(「耳にした」と書きしるすたびに「目にした」と書きなおすべきなんではないかといちいちふりかえってしまうインターネット時代!)。記憶にあるうちではゆいいつ小学校の修学旅行の朝、あの朝だけはじぶんもそのような眠りと起床を体験したのだった。
パンの耳とバナナとコーヒーの朝食をとったのち家を出た。おきぬけの小便をすべくおもてにでると真っ暗であるのに、その30分後にふたたびおもてをでたときにはすでにまごうことなき朝であるふしぎを体験するたびに、狐につままれたとはまさしくこんな感じではないかという肩すかしのあっけなさをおぼえる。早朝の空気はたしかにまだ寒い。が、もはや冷たくはない。先週「偶景」の素案として目にした朝焼けによく似たのを今朝もやはり目にしたのであったけれど、おなじ時刻のおなじ通りをくだりながら、しかし以前とは角度の異なる位置に太陽のあるのを建物の関係から把握して、この誤差こそが一週間なのだと思った。
8時より12時間の奴隷労働。朝っぱらから(…)さんのテンションが猛烈に低くいますぐ老衰で死出の旅に発つのではないかと危ぶまれるほどだったために、じぶんも(…)さんも(…)さんもだれひとりとしてそろそろ金を返してくれないかと切り出すことができなかった。(…)さんはいよいよ闇金に手を出そうとしているらしかった。かつてバクチでつくった500万の借金を土方労働で返済しきった過去の記憶がむこうみずな計画をおしすすめる蛮勇の源としてあるらしかったが、いい加減じぶんがもうなんでもかんでも無理を押し通すことのできたかつての若さとは無縁であることを認めたほうがいいんでないかと、おせっかいな言葉のひとつやふたつもかけたくなるくらいにここ最近の(…)さんは視野狭窄に陥っているようにみえる。恐喝のターゲットになりうるいいカモがいたら紹介してくれと冗談とも本気ともつかぬ口ぶりで言ってみせるその口調からしてもうわびしい。不倫の証拠をとりおさえては名前もしらない男や女を脅して生計をたてていたという数十年前のかつてとはもう時代が根本的に異なるということを(…)さんはきっとしらない。なまじいちばん羽振りのよかった時代のヤクザをやっていたひとであるために、かつておのれのふところを存分に温めてくれた手口の大半がすでに通用しないといわれてもにわかには信じることができないのだ。
(…)さんからオービス対策としてカップルで写真に映りこむという裏技があると教えてもらった。カップルでオービスの写真に映りこんだ場合、仮にそのふたりが不倫中のふたりであったりするとなまじ話がややこしいことになるそのために警察がいやがって連絡をよこしてこないのだというのがその秘密だったのだけれど、あまりにも穴だらけの論理であるように思われたため帰宅してからネットで調べてみたところ、案の定都市伝説であるようだった。それとはまた別に、身内に警察のおえらいさんがいることによってスピード違反をなかったことにうんぬんかんぬんみたいなありがちな話も聞かされたのだけれど、その虚実はいったん措くとして、おもしろいなと思ったのは、違反をもみ消すといってもたとえばおえらいさんを経由した圧力によって力ずくでそうするというような積極的な働きかけではなく、むしろ取り締まりにあたった現場の人間のほうがそのおえらいさんの面子を潰してしまってはいけないと考えて頼まれもしないうちから自発的に違反者を見逃すということの次第の説明で、それも報復をおそれての萎縮というマイナスの感情に発したふるまいではなくむしろ当のおえらいさんがこんなつまらない事件で評判を落とすことになるのもかわいそうな話ではないかという同情めいた気遣いからきているといったニュアンスが話法のなかにあり、ここには奇妙なリアリティがあると思った。あるひとつの紋切り型の事件(交通違反のもみ消し)を語るさいに用いられる紋切り型の語り口(関係者からの圧力)が、しかしはっきりとつかまえそこねた細部のこのようにして浮き彫りになるそのたびに、ここに小説があると考える。そういう意味で、「物語」に対抗するものとして「小説」を対置するという手垢にまみれた図式はいまなおじぶんにおいて有効であるように思われる。
蕁麻疹のスーパーでうなきゅう巻きと唐揚げの甘酢あんかけの半額品を購入し、帰宅してからインスタントの吸い物と納豆といっしょにかっ喰らった。それからシャワーを浴び、ストレッチをし、翌日の雨を見越して洗濯物をすべて室内にとりこんでから、シューマンのピアノ協奏曲(マルタ・アルゲリッチ)とヴァイオリン協奏曲(ギドン・クレーメル)を聞きながらブログを書きはじめたのだけれど、とちゅうで猛烈な眠気をもよおしたので(じぶんが猛烈な眠気と書き記すときの眠気というのはほんとうに猛烈であらゆる行動を不能にするものである)、続きを書くのは翌朝にまわしてめざましをどうにかいつもより早くセットしてから寝床に倒れこんだ。朝から首が寝違えたように痛んだが、この痛みはたいへんなじみのあるもので、要するにデスクワークに由来するものである。