20140205

 この時銃声が轟いた。それはその時私の緊張も、近づく決定的な瞬間も吹き飛ばして鳴ったように、今も私の耳で鳴り、私のあらゆる思考を終止せしめる。これが事件であった。
大岡昇平『俘虜記』)

その足取りの先で控えている「私」の存在にてんで気づかぬようである米兵の無自覚な接近を前にしてそれでもなお銃の引き金をひかなかった戦地でのおのれのふるまいを執拗に反芻し反省してみせる記述の延々と続いた果てに到着する一行(この「銃声」は第三者のものでありそれを受けて米兵は進路を変更し、「私」の存在に最後まで気づくことのないまま「私」に撃たれることもなく「私」の前を去ったという経緯がある)。この「事件」とはムージル『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』におけるぎりぎりでいとなまれる論理の綱渡りにおける「突然」や「すると」の切れ目であり、物語=意味付けをことごとく否定しさったあとにはじめてその姿をのぞかせる真空地帯=小説の顕現にほかならない。



10時半起床。さみーね。便所にたって戻ってくる途中、背後からびゅうびゅう吹く風にのせられたわりあい大粒の雪がだらだらと歩くこちらの歩みを軽やかに追いぬかしていくさまにおっと思った。こちらの視界に消失点らしきものが仮構されるのだ。ストレッチをしたのちラモーンズの“Baby, I Love You”をくりかえし聴きながらトーストとコーヒーの朝食をとった。この曲もどことなく春のおとずれに結びついたものとしてこちらに印象されているところがある。
本来ならば執筆にわりあてられた昼の部であるのだけれどすでに「偶景」のネタが尽きていたので、かわりに記録のたぐいを整理し、日記の読み返しなどをおこない、それから大岡昇平『俘虜記』の抜き書きの続きに取り組んだ。『Donny Hathaway Live』とエルネスト・アンセルメ指揮『マヌエル・デ・ファリャ:三角帽子』とCut Copy『Free Your Mind』とHarold Budd『Luxa』が作業のお供だった。
抜き書きを終えると15時半だった。そこから図書館で借りていたCDのインポートをおこない、懸垂と腹筋をした。クラウディオ・アバド指揮/アナトール・ウゴルスキ演奏『ラヴェル/ムソルグスキー展覧会の絵』を聴き終えてから家を出ると猛烈な寒さだった。ヒートテックのタイツをひさしぶりに装着したが、おかまいなしに刺し貫くような冷気があった。コートのポケットに両手をつっこみ肩をいからせながらあるかなしかの雪の降る暗がりのなかをぽつぽつ歩いた。右ふくらはぎの痛みは昨日よりはマシになっていたが、今週いっぱいはおそらくジョギングはできないだろうと思った。前方をゆく女性のブーツのたてる足音がしずまりかえった住宅街のなかでひときわ高く鳴っていた。どうしてヒールのたてる足音というのは常にヒステリックに怒っているように聞こえるのか。
図書館まで二十分ほどかけて歩いていった。クラシックのCDを二枚返却しクラシックのCDを二枚受け取った。それからまたこちらをあらたな作品の執筆へと駆り立ててくれる激烈な一冊はないものかと書架をざっとながめた。図書リストと銘打ったテキストファイルにリストアップしてある作家の名前や作品名に行き当たるたびに手にとり書き出しを読んでみたり中身をぱらぱらめくってみたりするのだが、どれもこれもよく出来た小説という感想の域をでるものではないように思われた。ガツン!とくるものがまったくないのだ。今回もだめかと思いながらぶらぶらしていると不意に庄野潤三の名前が目につき、そういえば青木淳悟がおそらくは「作家の読書道」だったと思うけれどもそこのインタビューのなかで庄野潤三の晩年の作品をおもしろいといっていた気がして、しかしこれはもう数年前の記憶なのでけっこう定かでないところもあるのだけれどとりあえず物は試しにと思って『メジロの来る庭』というのをとってみてながめてみたところ、これが当たりだった。最初の1ページでやばいと思った。バルトが憧れたhaikuのような小説、『偶景』という一冊に結実したかのようにみえてしかし不完全だったエクリチュールが、ここに見事に達成されているのではないかと思った。たいらで奥行きのないエクリチュールに憧れながらも、意味、箴言、言葉遊び、奥行き、深み、洒脱さを志向するおのれの垂直的(=文学的)性向を最後まで殺しきれなかったバルトの憧れが(そしてその殺しきれなかったものをむしろ十全に解放することである意味では旧態依然の文学にあぐらを掻こうとしているのがバルトの鬼っ子たるじぶんの「偶景」(しかしこれは仮題だ)であるのだが)、ここに見事に結実しているのではないかと。それとは別に残雪『カッコウが鳴くあの一瞬』も借りた。これに収録されている作品のいくつかはたぶん池澤夏樹のあの世界文学全集にも収録されているはずなのだが、あれを読んだのももう何年も前のことのように思いかえされるしとにかく独特のほかにくらべようのない作家だという印象が強くのこっていたので、このタイミングでもういちど読み直すのもいいかもしれないと思ったのだった。書架をずらっとめぐっていて思うのは、やはりフランス文学とラテンアメリカ文学というのは強烈だなという印象で、今回は借りるまでにはいたらなかったけれども「おっ!」とこちらの目をひきつける作品の大半はこれらのコーナーにあった。ラテンアメリカなんて書架に近づくだけで血なまぐさい。
図書館をあとにしてからてくてく歩いてスーパーに行ったところ、半額シールの貼られた寿司が山ほどあって、おもわず腕時計で時刻をチェックすると19時前、そうかこの時間帯なのか、この時間帯に来れば海鮮巻きを思う存分喰い散らかすことができるのかと、隠された世界の仕組みをとうとう発見するにいたった宗教学者のような喜びをおぼえた。これまでいちどもこの店で見かけたことのないうなぎのぶっとい巻き寿司が売っており、半額に値引きしたところでなお390円というラスボスレベルの威厳をともなうたたずまいで残り一品だったのだけれど、この機会を逃せばひょっとすると今後二度とめぐりあうこともないんでないかというアレからえいやっと奮発して購入した。すごくいい気分だった。会計をすませておもてに出て家路をたどっていると、前方からやってくる自転車に乗った女性が外国語でなにやらわめいており、なんだなんだと思いながらすれちがいざまに目を向けてみると白いイヤホンを両耳につけたすらっとしたパツキンの西洋人女性で、わめき声と思われたもののあれは鼻歌であったかといっしゅん疑われもしたが、いやいやあれは携帯電話だ通話だと考えなおした。いくらか棘のあるその声色を耳にした最初の瞬間、細胞がゴダールの映画の印象をはっきりと想起したので、あれはフランス語だろうとも思った。イヤホンをつけた状態で通話しているといえば、いちど(…)さんと薬物市場付近でたまたま出くわしたときがあり、あれはたしかまだ以前のアパートに住んでいたころで、おそらくは夏で、それこそ「A」の初稿執筆にとりくんでいた時期だったのではないかと、部屋を借りるべく(…)さん宅にむかっていたその道のりの途中でのできごとであったことからも思い返されるのだけれど、その道のりのとちゅう(…)さんの姿を見つけたので、ああこんにちはと挨拶すると、(…)さんはちらりとこちらに目をむけながらそれでもどこかよそよそしく、なにやらとんちんかんな受け答えをしてみせて、そこでもういちど、たとえばなにやってんですかとかいまから仕事ですかとか他愛のない質問をしたのだけれど、するとなにやらジェスチャーで長い髪に隠れてこちらからは見えなかったイヤホンを指さしてみせながらまたもやとんちんかんな受け答えがあり、ああ音楽聴いてるからこっちのいうことがぜんぜん聞こえてないんだと思って接近し、そしてもういちどなにやら問いかけたそのときになってようやく(…)さんが通話中であることを知り、あーそういうことか!なるほどー!となった記憶がある。そのときまでイヤホンをつけて通話をするひとを目にしたことがなかったのだ(ここ最近町中でその手のひとの姿を見かけることが多くなった気がする)。
帰宅してからうなぎのぶっとい巻き寿司とインスタントのみそ汁と納豆と冷や奴ともずくの夕食をかっ喰らった。巻き寿司が想像以上のボリュームだったため、そうして温かい食べ物が欲しかったこともあり、インスタントのみそ汁を飲みほしたあとにインスタントの吸い物を追加するという馬鹿げたおかわりをしてしまった。食後しばらくウェブ巡回をしたのち布団にもぐりこんで仮眠をとった。そのときちょうど20時半で、30分の仮眠となると起きるのに苦労するのだけれどと懸念をおぼえながらも21時にめざましをセットし、寝て、そして案の定起きるのに苦労した。ものすごくだるかったが無理やり身体を起こして、耳栓をひっこぬき、部屋の電気をつけて、こんなふうに食後まもなくに仮眠をとってばかりいたらいつ逆流性食道炎になるかしれたもんじゃないと思いながら布団のうえで正座しながらぼうっとし、けれどどうしてもたちあがることができず、結果そのまま「ごめん寝」で画像検索したらわんさか出てくる猫のような姿勢で、というか巡礼者のような姿勢でぐったりいってしまい、そのまま15分さらに追加で寝た。
目が覚めてから大家さんのところへいってシャワーを浴びさせてもらい、部屋にもどってからHot Butter『Popcorn』を流しながらストレッチをした。それからは延々と松下清雄『三つ目のアマンジャク』の続きを読んだ。「おれメ」がみずからの内に小さなスターリンを認めるにいたるくだりで、これはすごい!やばい!とむちゃくちゃ興奮した。なんという小説だ。万感の思いで書きあげられているのだ。
日付がまわっていくらか経ったところで『Proximity One: Narrative Of A City』を聴きながらここまでブログを一気に書いた。いまさらだけれどもブログを書くのに一時間も費やしているという事実にじぶんはいったいをなにをやってんだと馬鹿らしくなりもするが、しかしこの営みがきっかけとなって打ち立てられた関係もあるのだし磨かれた技術もあるのだし、というかじぶんがなんの遠慮も気遣いもなしにいちいち易しく翻訳する必要もないじぶんにとっていちばんなじみのある言葉遣いで心置きなくしゃべることのできる場所というのがここしかないというせまく限定された相通ずるところのない人間関係に囲繞された生活をもうずっと送りつづけているので、この営みをなくしてしまうとひょっとすると多大なストレスを感じることになってしまうのではないかと、これはたとえば(…)が滞在しているあいだ睡眠時間を削ってまでブログを書くことによってどうにか諍いや口論のストレスを解消していたみたいな経験にもとづく推測であるのだけれど、そうか、書いているのではなくてしゃべっているのだ、たぶんそれがいちばん感覚に近い、日記は書くものであるけれどもブログというのはとにかくしゃべっているという感じがするというか、より正確にいうならばしゃべりかけているという感じがする。だれに?だれかに。半不特定少数の愚痴の聞き手に。だからいっつも長文になってしまうのだ、自他ともにみとめるおしゃべり人間の本領発揮だ。平日五日間だれとも会わずだれとも話さずいてどうして正気でいられるのかとちょいちょいたずねられることがあるのだけれども、これだっておんなじだ。毎日一時間はだれかにむけて早口で延々としゃべりかけているのだ。さみしさを感じる理由などあるわけがない。
3時半に消灯した。いよいよもって寝入りばなの幻覚じみたイメージの襲来がはなはだしくなってきた。そしてかわりに夢をとんと見なくなった。