20140206

私のマラリアの熱は一週間で去ったが、なお根強い衰弱が残っていた。しかし私は漸く杖なしで歩けるようになった。歩けるようになると共に、私はそれまでの軍隊式の小刻みの歩き方を止め、歩度一杯に歩く昔の歩き方に変えた。そしてそのリズムは足を引き抜くように歩く米兵の歩度を意識して真似たものであった。こうして私の奴隷時代の名残を敵に模して追っ払うことに私は一種の陰惨な喜びを感じた。
大岡昇平『俘虜記』)



10時半起床。さみーね。きのうと同じくあるかなしかの雪がちらついているなかで歯をみがき顔を洗った。起き抜けがどれほど気だるく眠くてもおもてに出て真水で顔を洗うとなればいやでも目がさめる。これは湯がない生活のひとつの強みであると思う。ストレッチをしてからクリームチーズトーストとバナナとコーヒーの朝食をとった。腰痛熟練者の同僚らの話によると急に冷えこんだり雨が降ったりした日からだいたい二三日後に痛みが悪化するという話で、となるとそろそろまずいんでないかと思われる。天気予報を見ると今日よりはまだマシであるとはいえそれでも明日もやはりまたそれ相応に冷えこむとのことで、この寒波さっさと終わってほしいもんだと思う。
12時前より英語。発音練習。とちゅうで妄想英会話がはじまった。これは気分が乗っている証拠である。発音練習を終えてからは例のごとく受験生用の文法問題集を延々と解いた。BGMはジュリアード弦楽四重奏団モーツァルトハイドン・セット』。延々と解いたとかいいながらも解説をじっくり読みながらであるためにぜんぜん進まない。しかも面白くないからとちゅうでかなりだれる。やはり英語の勉強にかんしてはなるべく外でやるべきだ。でないとすぐに眠たくなってしまう。寒いとか金がないとかごちゃごちゃいってないでとにかくテキストと電子辞書をもって部屋の外に出て、いい年して大学受験の決意をかためたヒゲのおっさんを演じなければならない!
17時になったところで作業を切りあげた。腕立て伏せをしたあと徒歩でてくてくと近所のスーパーにむかった。自律神経がぶちぶち音をたててちぎれるほどの冷気だった。あたらしい小説を書きだしたいと思った。でもなにを書いたらいいのかてんで見当がつかない。これまでにも何度か考えたリレー小説方式でない共同執筆の可能性について考えた。ドゥルーズガタリみたいに?だがその具体的な方法が見えてこない。原稿をメールで回覧板のように回しあうのか?それじゃあ結局リレー小説だ!『A』がもうすこし売れてくれればいいんだがと思った。このまま着火することなく尻すぼみで終わることもおおいにありうると考えるとけっこうがっくりくるものだ。あれだけ出し惜しみしていたにもかかわらず、いざさらけだしてみせるとやはりそれ相応の欲が出る、色目が出る、おおきな結果が欲しくなってしまう。閲覧数とかタチヨミ数というのはちょっとあてにならないところがあるので置いておくとして、紙本はじぶんで購入したものをのぞくと17冊、EPUBは38冊、それから入手数(というのはBCCKSのアカウントを持っているひとが蔵書に加えた数)は18冊、これらのなかにも若干のかぶりはあるのだろうけれども(たとえばEPUBをダウンロードしたものをなんらかのデバイスで読んで気に入ったから紙本も購入することにしたとか)それはこの際考えないとして、公開から一カ月経ってひとまず累計73人に読まれたのだと、しかしこれは多いのか少ないのかよくわからない。でももっと多くのひとに読まれてしかるべきだという思いだけはある。ひとりで書いてひとりで削除してを延々とくりかえしてきた人間が口にしたところでなにひとつ説得力はないかもしれないが。直接収入につながらずともせめて知名度の上昇につながればいい。そうすれば新人賞という段階をすっとばしてじぶんの書いたもので金を稼ぐという生活に仲間入りできるかもしれない。とにかく週二日を反故にせざるをえない現状の生活を改める契機として『A』の公開が作用してほしい。そればかり祈っている。あせってもしかたないが。どっしり構えて待つしかない。公開から数年経って爆発的に視聴者を増やしたYouTubeの数ある動画の前例を思え。
帰宅してから玄米・納豆・冷や奴・もずく・豚肉と白菜を酒と塩と昆布だしとにんにくと生姜でタジン鍋したしょうもない夕食をかっ喰らった。小便をするためにおもてにでると乳母車をひきひきこちらにやってくる大家さんの姿が見えたのでこんばんはと挨拶するとわたなべさんあんたこれ食べてくださいとミカンを二つ手渡された。ウェブ巡回をしたのち床にもぐりこんで仮眠をとり、めざめると21時過ぎだった。シャワーを浴びているあいだも次の小説をどうするか、なんでもいいからとにかく書き出してみるかと考えた。どんな手法で書くにしてもどんな内容で書くにしても、しかし100枚前後の短編にしようという考えだけはすでに揺るぎないものとしてある。短いものを書きたい。それもとびっきりの情報密度で。「絶景」をなお上回るほどの徹底した錯綜の筆致で。バッド・トリップな小説、バッド・チューニングな小説。
参考になるものはないかと削除せずに残してあったいくつかの古いテキストをざっと斜め読みした。別段そう意識していたわけではないのだけれども、まがりなりにも最後まで書き終えた作品の大半はデータごと削除してあり、途中であきらめた作品は案外残っているようだった。アダルトショップの幾何学的描写からはじまり文藝評論→エッセイ→新人賞の選評の引用→日記→注釈→架空のインタビュー→ロードムービー的展開へとシームレスに連鎖していく長編があり、これは250枚ほどでボツにしたものであるのだけれど斜め読みするかぎり存外おもしろく思われたというか、当時のじぶんの力量ではぜったいに達成不可能な壮大な野心を相手取りながらそれでもなお一歩もひかずに格闘しているさまがありありとのぞける筆致で、端的にいって感動した。おまえすごいよ、と思った。それでいいんだ、と思った。それでいい。ぜんぜんいい。なにひとつ間違っちゃあいない。無謀な戦いの連日に鍛えぬかれた今がある。と同時にひるがえって危機感をおぼえもした。「A」というそれもまた達成不可能な課題として設けたはずの小説をなまじ書きあげることに成功してしまったいま、その執筆過程で学習し身につけたさまざまの技術でもって処理できる範囲内で安全に次の小説を書こうとしている節があるんではないかとおのれの内心を訝しんだ。それじゃあだめだ。ぜんぜんだめだ。そんなのは死んだも同じだ。書けるようになってしまってはおしまいなのだ。書けないところで書いてはじめて書くことになるのだ。ここにきて安全圏で書く?獲得した「コツ」をフルに利用して要領よくやる?そんなことは断じて許されない。過去のじぶんにたいする冒涜だ。否定だ。死刑宣告だ。それじゃあ駄目だ。じぶんの力量ではぜったいに書きあげられそうにないものだけに挑まなければならない。「邪道」はポシャった。しかしポシャったかぎりにおいてあの小説は成功したのだ。「亜人」の成功体験に慢心しなかったほかならぬ証左としてあの挫折がある。
250枚でボツになったくだんの長編はちょうど四年前に書かれていたようだった。そこでふいに(…)兄弟がじぶんの四つ年下であることに思いいたり、彼らと同い年のじぶんがいったいなにを考えていたのか知りたくなって四年前のブログをざっと読み返してみることにしたが、ちょうどそのころはブログを書くのをやめてかわりにプライベートの日記を書いていた時期にあたるらしく、たとえばこのブログで2010年2月の記事を検索してみてもポエムがひとつヒットするだけである。3月にいたってはひとつの記事も書かれていない。それが4月になるといきなり毎日更新されはじめる。特に4月の前半は「偶景」のプロトタイプのような記述がためされていて、このころのことはよくおぼえている、だらだらとそして長々と殴り書きするのではなくその日一日の特権的な瞬間だけをきりとって毎日更新しようと思いついた時期がたしかにあったのだ(あるいはひょっとするとこのころはまだバルトの『偶景』を読んでいなかったのではないか?)。2010年4月28日のブログ((…))に《バイト帰り、灰色の月が南の空に浮んでいた。たぶん満月に近かったと思う。月光に照らされて薄墨色に染めあげられた雲のもったりと流れる様子が視認できて、凡庸にもまるでCGのようだと思った。自然の光景を目にしてまるでCGのようだと評するのはどこか転倒している》とあるのだけれど、これはつい先日、通勤路で朝焼けをながめたときにいだいた感想((…))とまったく同じもので、その翌日《まるでCGのような朝焼けである――その実感の倒錯。》という断片を「偶景」に挿入したのだけれども、そのときに似たような記述を過去にブログに書きつけたような気がしないでもないとたしかに考えたのであったが、それがまさにこの日だったわけだ。あとは2010年4月10日の記述((…))も使える。後半の黒沢清うんぬんは余計だけれども、鏡像のくだりだけそのまま引っ張ってこればどことなく古井由吉めいたあやしさのある断片となる。というわけでこれは「偶景」に書き加えることにする。
ここまでブログを書き終えるとすでに23時半だった。やはりブログを書くのに1時間近くとられている計算になる。コーヒーを入れてから「偶景」の執筆にとりかかった。プラス3枚で計242枚。BGMは『Nina Simone & Piano!』とBasement Jaxx『The Singles』とPBK『Shadows Of Prophecy / In His Throes』。2時半に切りあげた。本来ならもっとはやく切りあげることができただろうに、いまひとつ集中力に欠ける作業だったためにやたらめったら時間を喰ってしまった。馬鹿馬鹿しい。
4時に床に着いた。自由に書かせてもらってなおかつ食いっぱぐれない程度の報酬がもらえるのであったら一生だれかのゴーストライターでもぜんぜんかまわないなと思った。