20140208

 多分こんな冗漫な論議を重ねて読者を退屈させるよりは、私は最初からこの一線に沿って物語るべきであったろう。それによっても私は別に事実からさして遠くはならなかったかも知れない。しかし私は自分の物語があまりにも小説的になるのを懼れる。俘虜の生活など無意味な行為に充ちているものである。そういう行為にいちいち意味をつけて物語るのは、却って真実のイリュージョンを破壊する所以ではあるまいか。
大岡昇平『俘虜記』)



6時起床。積雪に備えていつもより30分早く起床したのだけれどおもてに出てみるとぜんぜん積もってなくてそれどころか降ってさえいなかったものだからこりゃケッタで楽勝だなと判断した。前夜の暴食ゆえに満腹感のまだまだ居残る起きぬけだったので朝食はコーヒーだけにすることにしたのだけれどさすがになにか物足りない感じがしたというかコーヒーでは潤わせないたぐいの渇きを感じたのでコンビニに行って午後の紅茶のあのリッチなんちゃらでも買ってひさしぶりに飲もうと思い、それでふたたびおもてに出たのがたしか6時半過ぎ、知らぬまに雪がガンガン降りだしていて地面にも積もりだしていて、積もるだけならまだしもびちょびちょになったのが凍結しはじめていた。おかげで徒歩30秒のコンビニに歩いていくのさえひやひやするほどで、ゆえにこりゃアカン、やっぱバスで行くべきだわと思い直し、7時を少しまわったところでいざビニール傘を片手に雪の降るなかを歩きだしたのだけれど、表通りに出てみるとさっきまでみぞれ混じりの雪のせいでびちゃびちゃのぐちょぐちょになったやつのパキパキになりかけてつるつるしていたのが一転してわりとしっかりした積雪の厚みに変貌していて、いやいやこれだったらぜんぜんケッタでも行けるじゃんとまたもや思いなおし、結局、職場までとてもゆっくりとペダルを漕いでむかうことになった。傘をさして運転するのはさすがに自殺行為と思われたのでコートのフードをかぶって雄ライオンのていで片道たっぷり35分かけたのであるけれど、とちゅうですれちがった自転車の女子高生がふたりとも全身雪に降られていてけっこう気の毒だった。
8時より12時間の奴隷労働。噂どおり(…)さんはインフルエンザに罹ったらしくお休みで、別にそれだけならいっこうにかまわないのであるけれど二日前の木曜日に出勤したさいにとんでもなくひどい咳をくりかえしゴホゴホゲホゲホしまくっていたとかいう話でここらいったいインフルエンザのウイルスが蔓延している。ゆえになるべく手洗いうがいを徹底するように同僚らと確認しあったのだけれどどうして今年にかぎって予防接種を射つのを怠けてしまったのか、いまさら悔やんだところで仕方がないとはいえ一人暮らしのインフルエンザとかけっこう地獄であるのでマジで勘弁してもらいたい。と同時に前夜おぼえた最大レベルの不安、つまり(…)さんがインフルエンザに罹ってそのせいでこちらが代打出勤になるという想定されうる最悪の展開について今朝も朝早くからずっとびくびくしどおしで電話がかかってきたらどうしようとそんな不安を同僚らにもらしていたまさにそのときに電話があって、本社の(…)さんで、別支店の従業員がインフルエンザになったので代打で(…)さんに入ってもらおうと考えている、ついては(…)さんの抜けた穴を申し訳ないけれども(…)くんどうにか埋めてもらえないだろうかという話で、ほら見ろこれボケ!!!!としかもはやいいようがないし死にたい。それでもしかしあらかじめ最悪のケースを想定することでくくることのできる腹もあるというかうすうす覚悟していたことではあるので、ほかに人員がいないんだったらまあしかたないっすねと了承し、これにて土日月火の四連勤が決定した。四!連!勤!電話を切ってすぐにほこりだらけのフロアにうつぶせにぶっ倒れ、四肢をバタバタさせながら「最悪や!最悪や!最悪や!最悪や!最悪や!最悪や!最悪や!最悪や!」と気が狂ったようにのたうちまわった。「そんな汚いとこで寝そべったらそれこそインフルエンザの菌もらうで!(…)くん!はや起きなさい!もー!はやく!奨学金返さなあかんのやろ!」と(…)さんにしかられたのでしゅんとして起きあがったものの、まだまだぜんぜん暴れたりないし騒ぎたりないし絶望したりないし、ゆえに「なんでや!なんでや!なんでや!なんでや!なんでや!なんでや!なんでや!なんでや!」と叫びながらヘッドバンキングをくりかえしていたら(…)さんが「(…)くん!銭もうけや!銭もうけのチャンスなんやからかまへんやないか!ワシやったらほんなん喜んでするで!ええ!?だいいちなんでそないに働くん嫌なんや!?ワシらのこと嫌いなんか!?ワシらの顔見たないんか!?エエ!?」と突然言い出したので、「うっさい!さっさと二千円返せ!」と吠えた。しばらくするとふたたび本社の(…)さんから電話があり、(…)くんあんた火曜日も祝日やし出勤なんやな、てことは四連勤になるけど……だいじょうぶ?どう?やれそう?と、その言葉遣いと気の遣いようからおそらく本社の人間にも(…)のリミットは三日間、四日目になるとキャパオーバーで病むかキレる、いずれにせよトラブルの発生率が跳ねあがる、みたいなことをたぶん(…)さんが報告しているんだろうなと察せられ、そういう裏読みのためにかえって心が冷静になった、もうやるしかないわなと腹をくくった。最悪だけど。最悪中の最悪だけど。最低最悪の展開だけれど。金なんていらねえ時間をくれ。書くための時間だけでいい。あとはもうなんもいらない。グリフィスみたいにぜんぶ捧げたっていい。時間と金。存在と時間。考えるだけで憂鬱になってくる。とにかく最悪だ。今年いちばんの最悪、今世紀に入って見たなかでももっとも残酷な悪夢だ。
(…)さんというじぶんと同い年の女の子が二三カ月前からバイトとして入っていたのだけれどその娘がとつぜん辞めたという話を耳にして、どうしてですかと事情通らしい(…)さんに原因をたずねてみたところ(…)のおっさんのセクハラのせいだという。(…)のおっさんのセクハラについてはかつて(…)さんがやたらめったら身体をさわられるので困るみたいな相談を(…)さんにしていたことがあり、ただ(…)さんはちょっとばかし物事を誇張していうところがあるというか「わたし!わたし!」みたいなところがあるというか要するに自意識がそれ相応に強く人目を引きつけたがるところのある女の子であるという印象をかねてから受けていたのでこれはまあ話半分にしておこうという感じではあったのだけれど、(…)さんという女性はこういってはなんだけれどもいたって地味でおとなしくて口数もとても少ないひとで、よっぽどのことがないかぎりまあそういうことを言いふらすようなタイプではない。実際さいしょはただ単に辞めさせてほしいとだけ(…)さんのところに連絡があったらしく、ただそこでなにやらあやしいにおいを嗅ぎとった(…)さんが食いさがりどうして辞めるのかだけせめて教えてくれないかと理由を問いただしてみたところ(…)のおっさんのセクハラが……という言葉が返ってきたというのが事の顛末らしくて、それで具体的な話をヒアリングしてみると、先日(…)さんと(…)のおっさんのふたりでペアを組んで部屋をまわっていたときにいきなり(…)のおっさんが(…)さんにむけてちょっと抱きしめさせてくれへんと口にしたことがあったと、ふだん義務的・事務的な用件以外まったく口を利かないというような間柄であったのにいきなりのそれで、あまりに唐突だったために混乱したのか動揺したのか恐怖をおぼえたのか、(…)さんは断ることができなかったというこの構図なんてまさしくおとなしそうな女性をつけねらう痴漢のそれで、最低最悪下劣極まりなしといった具合であるのだけれど、そういうアレで一度目のハグに味をしめたのか、(…)のおっさんはしばらくしてからふたたび同じ行為を要望したと、そこでさすがに我慢ならなくなった(…)さんは勇気をだしてやめてくださいとはじめて拒絶の意志をあらわにし、同時にこれ以上続けるようなら訴えますよと口にしたとかなんとかいう話で、こうした一連の経緯が(…)さんの口よりひそひそ話のていで打ち明けられた時点の場の空気、それは端的にいって(…)のおっさんいっぺん死んだほうがいいんじゃねえのというもので、(…)さんもさすがに今回はかなりおかんむりであるというか端的にいってブチギレているらしく、家庭の事情で金が必要だからという理由で(…)さんに一万円貸してくれとかいっておきながらおまえ裏でこそこそなにやってんだこのハゲが金が必要なんだったらクビになりかねないような馬鹿なふるまいすんじゃねえという話であるし、輩の(…)さんのいきすぎた求愛行動の結果子鹿の(…)さんが辞めるにいたったかつての経緯を義憤まじりに嘲笑してみせたおまえアレなんだったのという話であるし、そもそも五十まわったおっさんが二十代の姉ちゃん相手になにみっともないことやってんだという話であるし、とにかくインフルエンザから復帰後の(…)さんが(…)のおっさん相手にどう出るのか、またもや一悶着巻き起こることになるにちがいないだろうしその一悶着の帰結次第ではただでさえ調停をつとめるのがおそろしく困難なこのくせ者だらけの職場のパワーバランスが大規模に崩れかねないという懸念のないこともなく、一調停者としてほんまえらいことやってくれたなあのおっさんはとこちらまでイライラしてくる。
その(…)さんとは別の(…)さんがいて、こちらは40代の女性なのだけれど、昼間は精神病院で看護師をしている。で、今日、その職場での具体的な光景をいくつか描写してもらったのだけれど、そのうちのひとつにものすごく頭のいい男性患者の話があって、そのひとはいつもすごくむずかしそうな本を読んでいて、おとなしく知的で、わからないことがあれば彼にきけばいいと病院内でも頼られるほどの博覧強記の碩学で、じっさい医者患者問わずみんないろんなことをそのひとのもとにおりにふれては教わりにいくそうなのだけれど、そんなふうに頭もよく知識もありしずかに頼りがいのあるじつにかっこうのよろしい人物であるにもかかわらず、ひとたび病院の外にでるといっきにぶっ飛んでしまうみたいで、たとえば市バスに乗っていていきなり手持ちのこうもり傘を車内でバンッ!バンッ!と乗客にむけて開いたり閉じたりくりかえしてみせたりするのだという。すごいエピソードだ。
引き継ぎのときに(…)さんからマイケル・オンダーチェ『ディビザデロ通り』をもらった。ずっと以前、ひょっとしたらもう一年くらい前になるかもしれないけれども、なにかの拍子に『ビリー・ザ・キッド全仕事』の話になって、これ読んだことはないのだけれど訳者が福間健二であるのでもうかれこれ四五年は気にかかっているもので、ほんとうになんの拍子だったかいまひとつ思い出せないのだけれどいきなり『ビリー・ザ・キッド全仕事』という固有名詞が会話のなかで登場し、そのときすでに(…)さんはそれを読んだことがあるといったのであったかそれともじぶんがそこで口にしたことによって後日購入して読んだのであったか、とにかくおもしろかったと、ぜひ(…)くんにも読んでほしいといわれていて、こちらもいずれは読むつもりであったのだけれどそのいずれのままにおそらくは一年近く経ってしまった今朝、またもやマイケル・オンダーチェの名前を(…)さんが口にして、うちに一冊ありますからよかったらあげますよといってくれて、むろんぜひくださいと、そうお願いしたその夜に『ビリー・ザ・キッド全仕事』ではなく『ディビザデロ通り』という一冊が手渡されたのだった。これは近々読むつもり。
帰宅してからシャワーを浴びてストレッチをした。納豆と冷や奴ともずくだけの簡単な夕食をとったのち洗濯機をまわして室内干しし、それからブログをここまで一気に書いて、1時前に床に着いた。まだ四分の三……。