20140212

 以上私はわが中隊本部を形づくる人々について逐次語った。退屈した読者は或いは私がこの方法によって、中隊全員について書くのではないかと懸念されたかも知れないが、その人は安心してよろしい。「俘虜名簿と競争する」ことは、この記録を書き始めて以来絶えず私の脳裡をかすめた夢であったが、その都度私は「列挙の退屈」の障害に遇って挫折している。
 収容所において私の倦怠の飾りであったこれらの人々を、私はいつも懐しく思っている。彼等が私の精神と感情の外辺に触れたままの姿で、残らず私の記録に載せたいのであるが、結局列挙によって、読者と私自身を退屈させてはつまらないという考慮から、私の筆はにぶる。
「典型を書けばいい」と批評家はいうかも知れない。しかし俘虜に典型などというものがあるだろうか。囚人には人間を型に刻む、あの行為というものがない。
 もし私が小説家であれば、種々の事件を設けることによって、人物を躍動せしめることが出来るであろう。しかし俘虜の間には行為がないに従って、本質的な意味での「事件」というものもない。俘虜の小説の事件は尽く作りものか誇張である。
 あの鉄柵中の単調な日々を帰還まで、芸もなく時の順序に従って語り続ける私の記録に、彼等が全部現れる機会があれば倖せである。
大岡昇平『俘虜記』)



11時起床。たっぷり9時間も寝た。とてもいい気持ちだった。歯をみがくためにおもてにでるとポカポカ陽気だった。花粉が飛散してもこのさいかまわないから寒波などさっさとよそに行ってしまえばいい。部屋にもどってストレッチをした。痰のからんでいる感じがあったのでのどをふりしぼって吐きだすと血だらけの真っ赤っかだった。結核時代ならたいそうなことである。(…)の従姉妹の、名前をど忘れてしてしまったが、駅まで送っていく短い道のりのとちゅうで彼女が梶井基次郎の小説が好きだと口にして、吐き出した血痰の水のなかに沈んでただよっているさまを金魚に喩えている箇所があってそこがすごく良いのだといっていたのを思い出した。たしかにこれ以上正鵠を射たものはないというくらいすばらしい比喩だと思う。と、こう書いているうちに読み返したくなってきたのでいま図書館でポチっと予約した。梶井基次郎、本を読むようになってわりとまもないころ、たぶん21か22のときにいちど読んだきりだ。
読書メーターのほうに『A』のすばらしい感想がアップされていたので気分が高揚した。それを機に前々からやろうやろうと思っていながらもめんどうくさくて後回しにしていた読書メーターへのリンクをようやく「おしらせ」欄に貼った。(…)くんも書いていたが、『A』はラテンアメリカ文学と似たにおいを有する作品としてどうも読まれる傾向にあるらしい。ふしぎだ。ムージルの明晰さだけを導きの灯として書いたつもりだったのだが、どちらかといえばむしろ対極にあたる方面の作品を連想させるものに仕上がってしまうとは。ラテンアメリカ文学といってもフアン・ルルフォの二冊とマルケスの『百年の孤独』『予告された殺人の記憶』、それにフリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』にボルヘスが『砂の書』とほか数冊、それくらいしかじつをいうと読んだことがない。このあいだ図書館で見かけたなかではホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』がけっこうおもしろそうに思われたので近いうちに読んでみることにしたい。
と、思いながらもほんとうにこの記憶はただしいのかといぶかるところがあったのでウィキペディアラテンアメリカ文学の項目をチェックしてみたところ、上にならべたもののほかにアドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』とマヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』とアレホ・カルペンティエルバロック協奏曲』も読んでいることを思い出した。オクタビオ・パスの『弓と竪琴』はもう五年かそこから以前に図書館で借りるだけ借りて読まずに返却したおぼえがある。パブロ・ネルーダの詩集も一冊読んだことがあるような気がしないでもないが、これは勘違いかもしれない。いずれにせよこうして書きだしてみるとよくわかるのだけれど、ラテンアメリカ文学はまだ円町のねずみ屋敷のそれも二階に住んでいたころ、だから大学を卒業してまもないころということになるのだけれどもそのころに読んだものばかりで、それから数年経って再読した『ペドロ・パラモ』(おそるべき傑作)と『百年の孤独』(ぼちぼちの傑作)は例外として、けっこう長いあいだこのおそるべき作家らのひしめきあう魔窟に手を出していなかったということになる。それがとても意外だ。それ相応に読んでおり慣れ親しんでもいるつもりだったのだけれど、まっだまだ掘り下げ甲斐のある暗黒大陸であった。
パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとったのち昨日づけのブログを書き、今日付けのものもここまで書いた。14時半だった。松下清雄『三つ目のアマンジャク』の続きにとりかかった。BGMはIsabelle Faust『バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第2番ほか』『バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』。とちゅうちかぢか入居してくる予定らしい若い男と大家さんの話す声が聞こえてきた。自室の隣室に一室空きがあり、ここはじぶんが入居して以降ずっと空き室になっているというかより正確にいうならば入居してきた当初は(…)さんが倉庫として利用しており(…)さんの退居後は空き部屋になっていたのだけれど、とうとう入居者があらわれたのかもしれない、しかも断片的に聞こえてくる話し声から察するにすでに入居済みの住人、おそらくはパワー型ユニットかKJのいずれかの知り合いであるみたいで、変におもてでたむろされたり騒がれたりしたらちょっと邪魔くさいなと思わないでもない。ゆえに気難しい隣人のていで今後も通していこうと思う。いまのところはほかの住人からおそらくけっこうな偏屈人間であると、なかなかに気難しく話かけにくい人間であると、要するに下手にかかわらないほうがよい人間であると、そんなふうに思われているらしいたしかな感触があって、耳にでっかい穴があいているとこういうときけっこう便利だなと思う。偏屈といえばまごうことなき偏屈ことクレー魔ーが隣室に住んでいるのだが、今日は日中延々と咳き込みつづけていて、自室には深夜、というより朝方寝にもどってくるだけの生活を送っているはずが今日にかぎっては長らく部屋に滞在しているその事実からもどうやらがっつり風邪をひいているみたいであるいはインフルエンザなのかもしれないが、あってないような壁なのでこれがまたけっこう鬱陶しかったし共同便所やら共同風呂やらを経由してうつされたらたまったもんじゃないなと思った。デスクにむかって読書をしていると首から背中にかけてが疲れてくるので、途中から布団に移動したのだけれどもたとえがっつり9時間眠ってあろうと本を片手に寝床にもぐりこんだら眠るなというほうが無理な話で、またしてもごめん寝の姿勢で小一時間ほど居眠りしてしまった。眠りは隣室から聞こえてくる咳き込みによってたびたび破られた。
意識の冴えたのが何時であったか、17時だったか18時だったかよく覚えてはいないけれどもとにかく起きて、『三つ目のアマンジャク』をとうとう最後まで読みきった。最後の最後、八方ふさがりの現実をぶちやぶるところまでつきぬけるところまでいけたかどうかというと疑問はのこるが、しかし善戦したと思う、健闘したと思う、いずれにせよすばらしい小説であることには疑いない。夢中になって読みすすめるという稀有な読書体験をひさしぶりにもたらしてくれた1300ページ、400字詰め原稿用紙換算枚数2300枚だった。
懸垂と腹筋をしたのち徒歩で薬物市場まで出かけた。前回のジョギングで痛めた右ふくらはぎの筋がいまだに完治してくれないのでジョギングをすることができない、せめてしっかり歩こうとおもっていくらか遠回りしつつハキハキとした歩調であるいた。薬物市場で咳止めシロップを購入したのちスーパーに立ち寄った。すると海鮮巻きが半額になっていたので、昨日寿司を喰らったばかりであるが、というか昨日のみならずそのまたさらに二日前にもやはり寿司を喰らったばかりであるのだけれども、いっこうにかまわんとばかりに籠のなかに入れた。家路をたどっているとちゅうにシーズーを連れて歩いている老いた酔いどれとすれちがったのだけれど、そのシーズーが一定間隔でえらいドスの利いた低い呼気を漏らしていて、あれは肺病かなにかをわずらっていたんでのかといまとなっては思い返されるのだけどもそのときは犬にもチックというものがあるのだろうかという疑念を抱いた。
帰宅してから海鮮巻きとインスタントの味噌汁と納豆と冷や奴ともずくの夕食をかっ喰らった。それからインポートしたCDの楽曲名やアーティスト名を編集し(クラシックはこれが面倒くさい)、一年前の日記を読み返し、シャワーを浴びた。地獄の四連勤のせいで手荒れがひどくて、きのうなど勤務中手の甲にずっと血がにじんでいるような状態だったものだから洗い物をするときにゴム手袋をつけるようにしていたのだけれど、皿洗いをするたびにゴム手袋をつけたりはずしたりするのが億劫だったものだからもうつけっぱなしでいいやと、クリーム色の薄手のゴム生地にうっすらと赤い斑点を浮かべながら立ち働いていて、そうこうしているときに鏡にうつったじぶんの姿をふと見たとき、ノーネクタイのスーツにひげ面でピアスでマスクにゴム手袋で、これはもう新聞の隅っこや週刊誌の広告ページによく載っているうさんくさい宝石鑑定士そのものだった。
Miles Davis『In A Silent Way』とJim O’Rourke『I'm Happy, and I'm Singing, and a 1,2,3,4』と『Jaques Loussier Trio Plays Debussy』をおともにマイケル・オンダーチェ『ディビザデロ通り』を読みはじめた。凡庸な小説かと思われたが、傷だらけのクープが朦朧とした視界のまま山をおりる場面はなかなかよかったし、カジノでいかさまを仕掛けるその次の章もそこそこおもしろかった。だが庄野潤三、残雪、松下清雄のおそるべき三連チャンのあとではまだよわい。生来の貧乏性なのでよほどのことがないかぎりは最後まで読み通すつもりでいるけれども、率直にいって、あまり期待はできそうにない。
2時をまわってからArto Lindsay『O Corpo Sutil / The Subtle Body』を聴きながらブログを書いた。そうして4時には消灯した。相変わらず寝入りばなのイメージがすさまじく、夢うつつの境域にとどまる時間が日に日に増しているような気さえする。このままいつかもどってこれなくなるかもしれない。