20140214

 私は私の小市民根性に賭けていうが、広島市民も、将来原子爆弾を受くべき都市の市民も、私と何の関係もない。俸給生活者たる私の直接考慮の及ぶ範囲は、私の家族と友人に限られている。家族は現在疎開している公算大であるし、聡明なるわが友人達は、それぞれ災禍を避ける術を知っているであろう。
 祖国という観念も私にあってはいたって漠然としている。それはまず第一に私の勤労に対して幾分かを報いる雇傭主の事業に、彼が私を馘首しないですむ程度の繁栄を許してくれる政府を意味する。戦時中これは当然戦争を続行する政府である。その代償として私は俸給の消費のかなり大なる一部の納税の義務と、一兵士として前線に死ぬ可能性を提供する。戦時下の私の幸福は、専ら兵士に取られずにすむという偶然にかかっていた。他は私の知ったことではない。
 不幸にしてその偶然は私に恵まなかったが、戦場の偶然は私に恵んで、私は今文明国の俘虜として、祖国の国民や戦場の兵士よりは数等ましな生活をしている。その生活では憂国はどうしても感傷としてしかあり得ないのである。
 祖国はいずれ敗れるであろう。俘虜であるために知らされる情報から、そう信ぜざるを得ないのは苦痛であるが、これは広島市民の災厄の如何に拘らず同じことである。敗戦は私の将来の生活を困難に陥れるであろうが、戦時中私の生活が戦争遂行によって保たれて来た以上、止むを得ない。戦争でもなければ、私は当然失業者の中に加わっていた無能なインテリなのである。
 その私が原子爆弾の惨禍を聞いてこんなに落着きを失う理由は、やはり原子という武器の新しさと、それを使用した国の小市民もいったように、「あまりにも破壊的」なことによるであろう。
 十万以上の人命が一挙に失われ、なお恐らく同数が、徐々に死なねばならぬ惨禍は空前である。しかしよく考えてみれば、程度の差こそあれ、最初に大砲の殺戮力を見た中世人も同様に感じたであろう。さらに遡ぼれば最初矢によって貫かれ、或いは鉄刀によって切り裂かれた隣人を見た原始人も、同じに感じはしなかったであろうか。すべて新しい惨状は第三者に衝撃を与えずにおかないが、しかし死ぬ当人にしてみれば五十歩百歩ではあるまいか。
 レマルクは砲弾によって頭を飛ばされ、首から血を噴きながら三歩歩いた人間を物珍し気に描き、メイラーもまた首なし死体を克明に写しているが、こういう戦場の光景を凄惨と感じるのは観者の眼の感傷である。戦争の悲惨は人間が不本意ながら死なねばならぬという一事に尽き、その死に方は問題ではない。
 しかもその人間は多く戦時或いは国家が戦争準備中、喜んで恩恵を受けていたものであり、正しくいえば、すべて身から出た錆なのである。
 広島市民とても私と同じ身から出た錆で死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。
 私は結局私の不安の原因を、人間が一瞬に多勢死ぬという状況の想像が、私の精神に及ぼす影響より求められない。そして、もともと社会的感情を欠く小市民たる私の精神が、これほど「多数」に動かされるのは、人類の群居本能よりないと思われる。純粋に生物学的な感情だ。
 生物学的感情から私は真剣に軍部を憎んだ。専門家である彼等が戦局の絶望を知らぬはずがない。そして近代戦で一億玉砕の如きことが実現されるはずがないのも、無論知っているであろう。その彼等が原子爆弾の威力を見ながら、なお降伏を延期しているのは、一重に自ら戦争犯罪人として処刑されたくないからであろう。彼等がこの戦争を始めた原因は色々あり、彼等の意のままにならぬものがあったのはわかっているが、この際無為に日を送っているのは、彼等の自己保存という生物学的本能のほかはない。従って私は彼等を生物学的に憎む権利がある。
大岡昇平『俘虜記』)



6時起床。積雪のおそれありとの見込みから早起きしたがたいしたことはなかった。雨とも雪ともつかぬものがあるかなしかのあやうさでぱらついているにすぎない。これならケッタで通勤可能だろうと見越してバナナとコーヒーの朝食をとり、昨日づけのブログの続きを書いてアップした。そうしておもてに出るとたいそうな雪降りに転じていた。見誤ったかと思ったが、勢いこそ強くあれど降り出したばかりであるらしいようすからして積雪も凍結も双方ともにおそれなしと判断した。ゆえにビニール傘片手にケッタに乗って職場にむかった。雪のひとつぶひとつぶが厚ぼったくのろまな音をたてて傘に降りつもった。鴨川は雪景色だった。職場に到着するころには白く積もったもののせいでしっかり重くなっている傘だった。
(…)さんとひさしぶりに会った。インフルエンザは完治したということだったが、今度は入院中の義父の容態が悪化し、おそらく今日中には亡くなるだろうとのことだった。今朝も朝の4時まで病室に控えていたのだという。四連勤+三連勤のこちらを気遣い時価5000円相当のものをプレゼントしてくれようとしていたらしかったが、そんなものもらうわけにはいかない。臨時の昼飯代という名目でポケットマネーから千円差し出されもしたが、べつに給料だってきちんと出ているのであるしわざわざ(…)さんが身銭を切ってどうのこうのするものでもないだろうといって断った。
とはいえ仕事中はやはりそれ相応にイライラはした。というか周囲がさすがにそろそろこちらのキレる頃合いなんでないかとうかがっているらしいようすにあおられて当初は持ち合わせていなかったはずのいらだちに火がつきはじめたというべきかもしれない。仕事自体はたいそうヒマであった。金曜日の日中はもともとヒマであると聞いてはいたものの雪降りのために輪をかけてヒマであるとのことだった。
(…)のおっさんのセクハラ問題について(…)さんと少ししゃべったのだが、予想どおり(…)さんはいますぐに(…)のおっさんをどうのこうのするつもりはないようだった。本人に直接ヒアリングすらしていないというので、そこのところはきっちりしておかないとほかに示しはつかないだろうし、場合によっては(…)のおっさんが同じことをくりかえすんでないかと疑義をていした。話をしていると、(…)さんはセクハラ被害にあった(…)さんのことをいくらか訝しんでいるようだった。どうも裁判だの訴訟だのという大文字の言葉の入り乱れたメールの受け取ったのが引っかかっているらしく、あの子はどうせもともとどこにいても仕事の続かない子だったのだろうだとか、どうせ以前の職場もいまのようなかたちで辞めたのだろうだとか、挙げ句の果てにはそもそも(…)のおっさんによるハグの要求をいちどはのんでいるわけではないかなどといって不信感をあらわにしてみせる。それは気のよわい子が痴漢相手に声をあげることのできない構図まんまじゃないですかとあきれていうと、いちどは要求をのんでおきながらあとになってそれをセクハラといって訴えることが可能なのだとしたらそれはいくらなんでも男に不利すぎる法の論理ではないかと口をとがらせていう。見当違いな論法だ。焦点がずれている。(…)さんはわりとたやすく勘ぐりモードに移行しやすいところがある。ひとの心の裏を読もうとすること自体は別にけっこうであるのだけれど、その裏読みの度のすぎることがたびたびあって、くわえてなまじ自らの観察力・洞察力に自負のあるひとであるためにいちど勘ぐりはじめるとあれもこれもとやり玉にあげだして収拾のつかなくなってしまうようなところが傍からみているとすごくあるようにみえる。(…)のおっさんが大黒柱となって養っている家族のことをみんなもっと考えてやったほうがいいという意見には(ほかの同僚らはたぶん同意しないだろうが)じぶんも同意するところがあるし、(…)さんが仕事を辞めるための方便として(…)のおっさんの名前を持ち出したという側面もたしかにないことはないのかもしれないとも思うけれども、しかしほかならぬ(…)のおっさん自身がすでに暗にみずからの犯したあやまちを認めているような状態がまずあって、さらに(…)さんにたいする(…)さんの勘ぐりがなにひとつ証拠のないただの推測の域を出ない以上、(…)のおっさんにたいする過剰な弁護と(…)さんにたいする過剰な非難という平均の危うい態度を(…)さんがもちあわせていると周囲から見なされても言い訳できないだろう。それに一般的に流通する見通しの裏にひそむあくまでも可能性のひとつにすぎない想定であったり仮説であったりあるいは事実の側面であったりを過大評価し、のみならず既成事実の域におしあげて、あげくのはてにはそれをもってみずからの論拠とするというこの構えにはたとえば知性なき保守、というか要するにネット右翼としてカテゴライズされてある一群のひとびとと同じ性根がのぞいてみえる。その安易さが気にくわない。
その話の延長で(…)さんは(…)さんからのコンタクトが邪魔くさくてしかたないといった。(…)のおっさんを辞めさせてくれと電話がかかってきたのだというが、(…)さんはそのコンタクトの裏にみずからにさしむけられた恋心のようなものを見てとっているらしかった。事実(…)さんが(…)さんにむける媚態というものはたしかにあって、(…)さんのそのような所感はけっして荒唐無稽なうぬぼれともいいきれぬものがあるように思われるのであるけれども、義父の亡くなったことを告げる電話があったために早引きすることになった(…)さんが姿を消してしばらく、一時間遅れで出勤した(…)さんから顔をあわせるなり(…)さんちょっと聞いてもらっていいですかと深刻に不機嫌な顔で話しかけられ、そこから二十分以上にわたって延々と(…)さんの愚痴を聞かされたときにはこれはちょっとまずいかもしれんと調停者としての勘が告げた。(…)さん、完全に見誤っている。(…)さんの(…)さんにたいする最大の不信はやはり(…)さんの(…)さんにたいする無根拠な勘ぐりにあるらしく、思いこみだけであの子のことをどうのこうのと決めつけて貶しているのがまず信じられないといい、くわえて(…)のおっさんがみずから辞めますと申し出てくれないものかと期待しているらしい(…)さんの言葉にもそれ上司としてどうなのよとカチンときたという。(…)のおっさんに辞めてもらうことになるのか否かの点はおいておくとしてもいずれにせよ当人にヒアリングする必要はある、辞めてもらうつもりでいるのならば上司として(…)さんが直接引導を渡すべきだろうし、続けてもらうにしてもおまえわかってんだろうるなもう次はないんだぞと最後通牒を突きつけるべきだろうと思うとひとまずこちらもそう受けはしたものの、しかし(…)のおっさんを辞めさせたいという(…)さんらと続けさせるつもりでいる(…)さんという対立的な図式が完全にできあがってしまうと今後に差し支えがでてくるというか、いまだ共有のできていない情報をすりあわせて最終的な判断を下すにいたるという論理的な審判の場に、従来の主張を覆す覆さない覆される覆されないみたいな余計な要素が入ってくることになるわけでこれははっきりいってよろしくない。しかるがゆえに(…)さんには(…)のおっさんがクビになってしかるべき理由を、そうして(…)さんらには(…)のおっさんの擁護するべき一面を、それぞれ水面下でひそかに外挿してやる必要があると、これまた調停者としてそう考えるところがあったので、ひとまず(…)さんにむけては、(…)さんはああ見えても情の厚いところがあるからなまじ(…)のおっさんの家庭の事情も知っているわけであるしやはり戸惑うところがあるんではないか、じぶんの決断ひとつで一家族を路頭に迷わせかねないという状況はいうほどやさしいものではない、ましてや(…)さん自身父親であり一家の大黒柱であり家庭人なのであるから、悪くいえば優柔不断かもしれないがいいふうにいえば優しいひとでもある、という具合にひとまずの予防線を張っておいたのだが、しかしこの線はもろい。すぐに崩れるだろうことは容易に予想がつく。なのでこの話はここまでにしておいて、(…)さんのご機嫌とりに恋愛話をふった。したらちょっと早いけど先日意中の(…)さんにバレンタインのチョコレートを手渡したという話を言葉尻の跳ねてしかたのない口調で立て板に水、喜色満面、それはそれで胃もたれするようなアレではあったので、もうだいたいわかったからぼくの分のキットカットくらいちゃんと買ってきなさいと突っ放した。
蕁麻疹のスーパーで半額品のからあげを購入し、帰宅してからラーメンにもも肉と水菜をぶちこんだやつと一緒にかっ喰らった。それからシャワーを浴びてストレッチをし、労働のすきまを縫ってぐいぐい読み進めていたマイケル・オンダーチェ『ディビザデロ通り』を最後まで読んだ。部分的によいなと思う記述はたしかにところどころある。だがしかし回想的な語りがおちいりがちな描写の弱さも目立つ。それ相応に善戦していたとは思うが、しかし回想の距離感に設定されてある語りの感傷的なトーンというのはやはりそれ相応にくどく押しつけがましいもので、これは殺すのは容易でない。構成についてもしっくりこなかった。しっかりと練られた砦の垂直的なたたずまいも感じられなければ、とことん即興で展開されていく過激な水平性の風通しの良さも認められない。どっちつかずのあやふやになっているし、そのどっちつかずのあやふやをあえて追求したものとも思われない。そのような構成にたいする自己言及がまた言い訳がましい。コラージュの一語は説得力に欠ける。根拠として弱すぎる。要所要所でさしはさまれる「恋人の名前の呼び間違え」という案はしかし良かった。ここにはとても希薄な、そしてその希薄さだけがもたらすことのできるたぐいの、そんな美質がある。
ブログを書きだしてしばらく、眠気に朦朧とするところがあったので続きは翌朝にまわすことにして布団にもぐりこんだ。0時半には消灯した