20140218

 一体美人とは何だろうか。無論美しい女にきまっているが、我々は何によって或る女を美しく、他の女を醜いと思うのだろう。美学者は無論鼻の高さとか、額と頬の釣合とかについて、シンメトリーや黄金分割の法則を提示するだろうが、もし我々が全くそういう法則に反した女ばかりの国に生きていたとしたら、我々はやはり周囲の女を醜いと思うだろうか。
 してみれば女の容貌の美に関する我々の観念は、要するに文明の結果で、つまり我々の贅沢に発しているのである。美人を獲たいという欲望は恐らく現代のあらゆる男性に行きわたっているが、それには印刷術の進歩による美人画や美人写真の伝播が与って力があると思われる。多分昔は近郷一の美人の評判ぐらいがせいぜいで、それもわざわざ出掛けでもしなければ見る機会なぞなく、旅費と暇のない人間は、女房が一番美人だと思っていればよかったのである。
 美人画の正確な起源は無学な私の知るところではないが、文化の中心地で作成される画家の理想画によって、美人の通念が普遍すれば、人は自分の女房や恋人がそういう画に比べて美しくないと思わねばならぬ。つまり美人画の効用は男を絶えず不満の状態におくということかも知れない。
 美人写真とても同じことだ。写真も現代のように進歩して来ると、なかなか「真を写す」どころではなく、現実にはあり得ない照明を工夫したり、修正を加えたり、浮世離れのした色をつけてみたり、理想化の手段を凝らして来る。しかもその土台はモデルが実生活では絶対にすることのない見せ顔なのである。
 私が俘虜の大和撫子を見てさっぱり感服しなかったのは、ほぼ以上の次第で、つまり私がアメリカの美人写真に中毒していた結果である。私は現代のアメリカ映画のスターに悩殺された恋人達が、互いに相手に無益に失望されないことを望む。
大岡昇平『俘虜記』)



12時起床。6時間の仮眠をとった数時間後にまた6時間の睡眠をとるという馬鹿げた一日を過ごしてしまった。面倒くさいできごとを書きつづっておしまいの、なきにひとしい月曜日だった。目覚まし時計の針が三十分ほど遅れていた。歯をはみがくべくおもてに出るとあるかなしかの雪がちらほら降っていた。関東は大雪らしくてたいへんなことだ。京都はぜんぜんだ。生まれも育ちも京都な同僚らは口をそろえてしきりに京都は雪が降らへんという。Animal Collective『Merriweather Post Pavilion』を流しながらストレッチをし、パンの耳2枚とバナナとコーヒーの朝食をとった。
仕切り直しのときが来た。悪夢の連勤を乗り越え、ブログの負債もようやくにしてすべて片付いた。今日からふたたび時間割生活である。ひとまずたまっていた「偶景」の執筆にとりかかった。13時半より16時前まで。プラス4枚で計246枚。BGMはPharoah Sanders『Message From Home』とSupersilent『1-3』。ファラオ・サンダースの楽曲のリズムはぜんぜんジャズじゃなくてそれがしっくりくるときもあればやたらと安っぽく感ぜられるときもある。今日は前者だった。とてもカッコイイミュージシャンだと思った。
『A』を宣伝するために効果的なウェブサイトでもないものかと思っていろいろ検索をかけてみたのだけれども、どうしてウェブ小説関連のサイトに投降されてある作品群ってのはゲロのでるほどくだらない牛糞以下のクソテキストばかりなのか。信じられない。たいがいがファンタジー版のケータイ小説みたいなもんばかりだ。ヤンキーはケータイ小説を書き、オタクはファンタジー小説を書く。「不良のまねごと」(くるり)に思春期を費やしてしまったあげくファンタジーとしてカテゴライズされてもしかたのない小説を書くにいたったじぶんはどうすりゃいい。どこにいけばいい。だれに言葉をとどければいい。
懸垂と腹筋をしたのち歩いて薬物市場にむかい歯ブラシと歯磨き粉と化粧水を購入した。それからスーパーにたちよって食材を購入し、帰宅してから発芽玄米・納豆・冷や奴・もずく・ささみと春菊と水菜を酒と塩と昆布だしとしょうがとにんにくでタジン鍋したしょうもない夕飯をかっ喰らいながらウェブサイトの巡回をした。梶井基次郎を少しだけ読みすすめ、19時半から20時まで仮眠をとった。
起きてからコーヒーを入れて、21時まで英語の発音練習をした。それからシャワーを浴び、部屋にもどってストレッチをし、サイゼリヤに出かけた。ドリンクバーひとつで22時過ぎから1時過ぎまで延々と問題集を解き続けた。とてもよく集中することができた。近くの席では医大生らしい男の子三人が試験勉強をしており、ときおり小難しい病名をならべてはその症状の大体を互いに確認しあっていた。いぜん来店したときにも対応してくれた女性店員があらためて好みだと思った。
隣接するスーパーで半額品のカレーを購入した。レジの中年男性がほとんど独り言のような小声でむっつりと不機嫌に対応してくれたのだが、おなじ名字を有するものだったのでそりゃあしかたないと思った。わが眷属に労働意欲はいっぺんたりともなし。おそるべき夜の冷気にガタガタ震えながら帰宅し、レンジで温めたカレーの容器のプラスチックが溶け出したようなにおいに若干の抵抗をおぼえながらも完食したのち、The Cinematic Orchestra『Everyday』をおともにブログを書いた。それから歯をみがき、梶井基次郎をわずかに読みすすめた。梶井基次郎が一時期松阪に滞在しておりそのときの経験が「城のある町にて」にいかされているという話は聞いたことがあったしぼんやりと覚えてもいたのだが、ウィキペディアを見ているとそれ以前にまず鳥羽に滞在していた時期があり、しかもその間じぶんの出身高校に通っていたという衝撃の事実が明らかになったのでたまげた。なんたることか!小津安二郎のみならず梶井基次郎までじぶんの先輩であったとは!この偉大なる先達の流れにのっかってじぶんもペンネームを「(ナントカ)じろう」にすべきであった!
以下、ウィキより引用。三重、京都、乱暴狼藉、不健康……。

1911年(明治44年)5月、再び父の転勤により、一家は三重県志摩郡鳥羽町の社宅に移る。宗太郎は営業部長を務め、羽振りがよくなる。基次郎は鳥羽尋常高等小学校へ転入。浜で泳ぎ、磯で遊び、裏山の神社や城跡を駆けめぐる健康な少年時代を送る。基次郎はこの地方での生活が最も充実した幸せなものであったと綴っている。

1913年(大正2年)、全甲の優秀な成績で小学校を卒業し、兄と同じ宇治山田市三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)へ入学。

同年1921年(大正10年)4月、年学制の改革により2年に進級。実家からの通学となる。同じく実家から通学する大宅壮一と汽車で出会う。汽車内で同志社女専(現・同志社女子大学)の女学生に一目惚れをし、ブラウニングやキーツの詩集を破いて女学生の膝に叩き付け、後日、「読んでくれましたか」と問い、「知りませんっ」と拒絶される。

秋、酒に酔っての乱行が度を越えることもしばしばとなる。甘栗屋の釜に牛肉を投げ込んだり、中華そば屋の屋台をひっくり返したりの乱暴狼藉を起す。中谷はこの頃の基次郎を、「いささか狂気じみて来た」と回想している。

基次郎は酒に酔い、祇園石段下にあったカフェ・レェヴンで暴れる。円山公園で巡査に捕まり、四つん這いになり犬の鳴き真似をさせられた。当時京都で有名だった「兵隊竹」という無頼漢と喧嘩をし、左の頬をビール瓶でなぐられ怪我をする。その頬の傷痕は生涯残った。

1925年(大正14年)1月、同人誌「青空」を創刊。『檸檬』を発表。2月、『城のある町にて』を発表。はじめは雑誌を文壇作家に送るようなことはしなかった。「彼らはわれわれの雑誌を買って読む義務がある」と基次郎が主張したためだった。

1931年(昭和6年)1月、「作品」に『交尾』を発表。井伏鱒二はこの作品を、「神わざの小説」と驚嘆する。流感で寝込み、春過ぎまで寝たり起きたりの日々。基次郎の創作集の出版に、旧「青空」同人の三好と淀野などの友人達が尽力し、5月、作品集『檸檬』が刊行された。8月、印税75円を受け取る。9月、「作品」にプルースト『失ひし時を求めて』の書評『「親近」と「拒絶」』を書く。基次郎は、「回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひない」と評しながらも、「回想の甘美」を拒否して自分の「素朴な経験の世界」へ就こうとする姿勢を示す。